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1930年の日本の若者の流行 7 東北農村の窮乏が語られた  左翼への恨み

2021-06-30 16:20:27 | 日記
A.昭和一ケタ、過ぎてみれば特別な世代
 日本に共産党が最初にできたのが1922(大正11)年。この年に生まれた人、というのを調べたら、橋川文三、山田風太郎、瀬戸内寂聴、鶴見俊輔、丹波哲郎、中内功、石井好子、月岡夢路、小野田寛郎、中井英夫、藤原彰、平田清明、那珂太郎などとなっていた。ぼくが大学で教わった社会病理学の大橋薫先生も、この大正11年生まれだった。戦争が終わって大日本帝国が亡びた1945(昭和20)年には、満で23歳の若者だったことになる。大橋先生は琉球の石垣島で陸軍の将校をやっていて、終戦を迎えたという。非合法の共産党や無産政党が活動していた1930(昭和5)年には、まだ8歳で、まもなく左翼は徹底的に弾圧され、共産主義は危険なものとだけ記憶される。そしてこの世代は、戦争の激化の中で兵士となり命を落とす運命が待っていた。
 日本の当時の内務省が共産党をこんなに恐れたのは、関東大震災に続く経済恐慌で、日本経済の弱体化と社会不安が急速に広がり、これを背景にロシア革命で誕生したソ連とコミンテルンの世界革命戦略が、日本にも波及し国家の転覆を企む秘密結社などというものが現実味を帯びて広がっている、ということにその実態がわからないぶん、恐怖は大きかったのだ。そして、そこに加わっていたのが、アウトロー的アナーキストや明治以来の活動家だけではなく、国家のエリート、帝国大学に学ぶ優秀な若者たちだったことが、さらに当局者を驚愕させた。これはたいへんなことだ、根絶やしにしておかないと天皇制国家が危うくなる、と共産党員は全員逮捕し獄につなぐ。それが昭和のはじめ、治安維持法によって共産党が壊滅したあとも、左翼的な本を持っていただけで逮捕され、「アカ」は蛇蝎の如く嫌われ恐れられた。

 「時代は昭和恐慌のさなかであった。1929年10月、アメリカのウォール街「暗黒の木曜日」にはじまった世界恐慌の波は、第1次世界大戦後、慢性的不況にあった日本経済を呑みこんだ。
 世界経済は縮小再生産過程をたどった。工業生産指数は1929年を100とすると、33年には61.7に低下している。全世界で5、6千万人の失業者が発生した。
 日本にそれが波及したのは、1930年はじめ。金解禁による不況とのダブルパンチで、みるみる不況が深化した。商品市場、株式市場は大暴落。中小企業の連続倒産。労働者は首切り、賃金切り下げにあい、都会は失業者であふれた。
 農村においては、農業恐慌としてそれがあらわれ、キャベツ五十個の売上げで敷島(一つ15銭のタバコ)一つしか買えないという状態だった。恐慌の進行する中で、1931年34年と大凶作が東北、北海道を襲い、農村の窮乏状態は目もあてられぬほどだった。山形県のある村の調査では、15歳から24歳までの娘の四人に一人は売られ、四人に一人は女中や酌婦になり、村に残っていたのは半分以下だった。
 こうした経済情勢を背景に、労働争議、小作争議が激発した。それはしばしば、自然発生的に暴力事件をひきおこした。社会が全般的な危機の様相を呈していることは誰の目にも明らかだった。先に述べた、知識人の左傾には、こういう背景があったのである。資本主義の危機の深化—―革命情勢の成熟という判断が党外でもポピュラーなものになっていったことは、前に引用した杉森久英の『昭和史見たまま』がよく伝えている。
 恐慌の波が世界をおおっていた1930年代前半は、戦前の共産主義運動が迎えた最大のチャンスだった。すでに世界恐慌の一年前に、「資本主義第3期論」をとなえて資本主義の崩壊を予測していたスターリンは、1929年には、
「私は、アメリカに革命的危機が発展するのは、そう遠いことではないと考える。そして、アメリカに革命的危機が発展するときは、世界資本主義全体の終わりとなるだろう」とまでいっていた。こうした情勢分析をもとに、コミンテルンの各国支部は29年から30年にかけて、攻勢に出るよう指示された。ドイツでは、29年のメーデーにベルリンで二日間にわたってバリケードをきずき、警官隊と武力衝突を起こした。アメリカですら、30年3月に共産党が組織した失業反対デモは、六万人をニューヨークのユニオン広場に集め、警官隊と乱闘した。このとき、アメリカ共産党員たちは、堂々と”アメリカ政府打倒、革命的労働者政府樹立”のスローガンをかかげていた。アメリカ共産党によれば、来るべきアメリカ・ソビエト政府は、世界ソビエト連邦に加盟することになっていた、第一次大戦直後の時期のように、世界革命の夢が再び国際的に広まっていたのである。
 マルクスの分析どおり、社会の下部構造の矛盾から生まれた危機は、上部構造の変革を要求していた。それはまさに「このままではやっていけない」という空気が社会全体にみなぎりはじめたという意味で、革命的情勢の到来を意味していた。下部構造の矛盾は、まず上部構造のイデオロギーの部分に反映する。社会の安定期のイデオロギーは、「基本的にはこのままやっていけばよい」の一語に要約できる保守のイデオロギーである。危機の時代には、保守のイデオロギーはその存立基盤を失い、「このままではやっていけない」とする変革のイデオロギーは優勢を占める。
 このままではやっていけないとするなら、どうすればよいかについて、右から左まで、あるいは過激な、あるいは穏和な、さまざまの変革のイデオロギーが提出され、それぞれに政治的ヘゲモニーを握ろうと政治運動を展開する。政治的ヘゲモニーを握る手段として、左右の過激イデオロギー集団は物理的暴力をもって主たる手段と考え、穏和派はもっぱら支持者の頭数の多寡に従う政治力に頼ろうとする。そして、物理的にか政治的にか政治的ヘゲモニーを握った集団が、そのヘゲモニーの握り方の強さに応じて独占的にか政治的にか、社会の新しい方向づけをしていく。
 その時、過激な集団が政治的ヘゲモニーを握り、上部構造の根源的な変革をしてしまえば、それは革命と呼ばれる。左翼の用語法に従えば、左の過激集団の変革だけが革命で、右の過激集団によるものは反革命(カウンター・レボリューション)という名の革命になる。
 以上が、マルクスの分析した歴史展開の法則から、彼のズサンな階級分析の部分と、冷静な分析ではなく単なる希望的観測あるいは煽動の部分を洗い落としたものである。
 両大戦間の歴史はマルクスが分析したように展開したが、マルクスの希望的観測は裏切られた。つまり、世界恐慌がもたらした上部構造の危機状態において、勝利をおさめたのは右側の過激イデオロギーであって、左側のそれではなかった。各国で、ソビエトこそわが祖国と信ずる世界革命派は次々に政治的に敗退し、民族主義的右翼革新派が政治的ヘゲモニーを握っていく。1930年代の後半にいたって、敗北を認めたコミンテルンは、攻勢的世界革命運動を中止し、一転して、防衛的な反・反革命運動を展開する。これが人民戦線戦術で、右の民族主義的イデオロギーに対抗するため、自分たちも民族主義的要素を取り入れる。
 そうなると、そもそも国際プロレタリア主義—―反民族主義をその基礎に置いていたコミンテルンはその存在理由を失うだけでなく、各国の人民戦線運動を阻害するものとなるということで、自ら解散してしまう。かくして、コミンテルンの世界革命イデオロギーは、右側のイデオロギーに全面的に敗北したのである。
 日本における共産党の敗北はこの一典型をなしている。先に述べたような、恐慌のもたらした社会危機を背景として、この時期、右側からの変革イデオロギーが登場し、急速に社会的影響力を獲得していく。右翼革新イデオロギーは、とりわけ青年将校たちの心をとらえ、「農村の窮乏見るにたえず、支配層の腐敗聞くにたえず」と感じた彼らの運動が、曲折をへて軍部に政治のヘゲモニーをとらせるにいたったことはご承知のとおりである。
 もしこの時期に、青年将校たちの間に共産主義イデオロギーが浸透していたとしたらどうだろう。青年将校を抜きにして、兵士たちの間だけだったとしてもよい。
 ロシア革命の例をみるまでもなく、暴力革命は国家の暴力機構である軍隊を軍事的に制圧するか、内部から崩壊させるかしなければ成功しない。ロシア革命においては、兵士のソビエトが軍隊を政府の軍隊から革命の軍隊にかえ、武装した労働者と結合して革命の軍事力となったのである。社会が構造的危機に見舞われたときには、必ず軍部の内部にも動揺が起きる。その動揺を、レボリューションの側がつかむかカウンター・レボリューションの側がつかむかによって、革命の帰趨が決する。この時代に、すでに軍の内部にそうした動揺が存在していた。
「このころは全国いたるところで、頻々と小作争議がおこっていた。木曽川流域でも小作争議がおこり、この騒動は軍隊の出動で抑えたが、このとき、出動部隊の分隊長だった一人の下士官が日記をつけていた。それには『若し小隊長が農民に射撃を命じたら果たして自分は部下に射撃号令をかけることができたであろうか。自分もそうだが、、部下もその多くは小作農民の子弟である』といった意味のことが書かれてあったという。大岸中尉はこの話をしながら、社会の根本的政策をしなければ兵の教育はできない。軍隊は存立しえない――といったような趣旨を数々述べだてた」(末松太平『私の昭和史』)
 ここに記されたような軍人の動揺を吸収したのは、左のイデオロギーではなく、右のイデオロギーだった。この著者も、ここに登場する大岸中尉もニ・二六事件に関係した青年将校の一人である。一般には両極端と思われる右と左の過激イデオロギーは、ある点ではきわめて近かった。」立花隆『日本共産党の研究』上巻、講談社、1978.pp.392-396. 

 「当時の日本の社会は、基本的には農民社会だった。人口六千万人のうち半分の三千万人が農村人口。就労人口二千七百万人のうち、半分強の千四百万人が農民だった。これに対して、共産党がプロレタリアートとみなす近代的産業労働者は四百七十万人。農民の三分の一である。うち工場労働者は百八十万人。また労働組合に組織されていた労働者は三十五万人。うち、共産党系の全協に組織されていた労働者は最盛期で三万人。プロレタリアートの一パーセントにも満たなかった。就労者全体からみれば、0.1パーセントぐらいで、大海の一滴である。
 労働者の意識という面からみると、じつはこの数字以上に農民社会的なのである。それは日本の産業労働者が生まれたてで、その人自身の前身か、あるいは一代さかのぼれば、ほとんど全部が農民だったからである。明治中期の工場鉱山労働者は四十万人しかいなかった。それが百万を越えるのは明治四十二年である。労働者の大半は、いわば出稼ぎの農民とでもいうべき存在だったのである。不況で首を切られると、たいていの労働者は帰郷して農民に戻る。これが労働市場のバッファーとして働いたことが、日本資本主義の不況切り抜けに大いに役立ったということは史家がよく指摘するところである。
 こういう社会では、労働者になったからといって、すぐにプロレタリアートの階級意識にめざめるわけではない。当時の共産党の文献によく出てくるコミンテルンの受け売りの日本の社会構造の分析、革命戦略、戦術から抜け落ちているのは、日本社会独特の農民社会的体質である。
 こういう社会では、農民の心をとらえられるイデオロギーでなければ、強い社会的影響力を確保できない。そして、この点において、天皇制イデオロギー、前に述べた「民族の母斑のような歴史的国民意識における天皇制」の重みが意味を持ってくる。なぜなら、この意味における天皇とは、農耕社会における農耕神への土着宗教の祭司としての天皇であり、まさにそれゆえにこそ、最近世まで百パーセントの農耕社会でしかなかった日本人の意識に民族の母斑のように貼りつきえたのである。農民が絶対少数派になり、帰るべき「田舎」を持たない純粋都市住民がふえつつあるこれからの日本においては、「民族の母斑」が消えてしまう可能性があるとしても、本質的には農民社会でしかなかったこの時代の日本にあっては、その否定を第一の前提条件とする共産党イデオロギーは大衆の受け入れるところとならなかった。この点、右翼革新イデオロギーは、一方では天皇崇拝の立場に立ち、一方では農本主義の立場に立っていたのだから、日本的農耕社会の土着イデオロギーにコミットした社会変革思想としてよく農民(的国民)の心をとらえ、急速に影響力を確保していったと考えられるのではないだろうか。
  ( 中 略 )
 党の大衆化もできず、指導部は圧倒的にインテリ中心で、コミンテルンに頭が上がらないイデオロギー先行・現実無視主義者が多数を占めていた日本共産党では、たとえ、毛沢東のような考えの持ち主が現われても、日和見主義、民族主義的偏向、農民運動偏向といったレッテルを貼りつけられて、たちまち追い出されていたろう。
 戦前の共産党の活動は、だいたいにおいて現実から遊離していたのだが、なかんずくそれがひどかったのが、農民運動における党活動である。時代は二年ばかりずれるが、東北地方に党のオルグとして農民運動の指導に出かけた宮内勇は、当時の党と現実とのギャップをこう書き残している。
「作戦会議は、組合長と星野との間でもっぱら討論され、私はほとんど傍観していた。というより、この緊迫した農村の大衆行動を目の前にしながら私は全く無力であった。それは私の過去の知識とあまりにもかけはなれ、何もかもが判らないことだらけであったといった方がよい。二人のやりとりする言葉や方言さえ半分も吞み込めない。これでは『党のえらい人』も一介のピエロにすぎないと思ったとき私は今一度恥じ、もう一度深い反省に駆られるのであった。
 農民闘争社にいたころ、私はいくつかアジテーションの記事を書いた。『大衆行動をもって断固暴圧と戦え』と書いた。しかし、現地の闘争本部でまのあたり見る大衆行動は、それほど生易しいものではなかった。いつ警官隊に襲われるかもわからないという緊迫と不安の中で、ともかく苗を植え、それを育て、その収穫によって生活しなければならない農民大衆にとっては、なるべく被害を少なくすることこそ長期作戦の基本であった。暴圧をはね返すことより、暴圧を恐れる法が農民の本当の気持ちであった。
 また、私は党のオルグとして東京を出発するとき、東北地方に一人でも多くの党員を作ることを最大の念願とした。しかし、いあまかりに、この場で星野や組合長に入党を勧誘してみたところで、それが目の前の差し迫った闘争と一体何の関係があるだろうと考えたとき、私は、そんな話をこの場で持ち出す勇気を失ってしまった。
 東京では、党に入ること自体に意義があったし、党員のリストがふえることはすなわち党の拡大を意味した。しかしそれは労働者、農民の大衆闘争と必ずしも結びついたものではなかった。党のリストは、おおむね都市の革命的インテリゲンチャによって構成され、彼らは共産党という革命的秘密結社に加入することによって、労働者・農民の味方であるという自負をもち、自らの殉教性に対する生甲斐にみたされてはいたけれども、現実の労働者農民大衆の生活とはおよそ縁遠い存在であった。インテリの観念遊戯と評されても仕方のないものであった」(『ある時代の手記』)
 こうした現実からの遊離が、共産党の活動現場として最もたいせつな労働運動の現場でもあらわれていた。」立花隆『日本共産党の研究』上巻、講談社、1978.pp.398-403. 

 立花隆の本に掲げられている1928(昭和3)年から1934(昭和9)年までの7年間の治安維持法違反の検挙者数と検事処分者数をみると、ピークの昭和6~8年の3年間は、検挙者が毎年1万人を超えていたが、すでに昭和3年の3.15大検挙で、共産党中央は実質的に壊滅していて、そのあとは共産党員などとして起訴されたのは昭和8年の1285人だけが突出している。起訴猶予や留保処分など、いわゆる転向者も含め、検挙者の9割以上は、ただ左翼の本を持っていたとか、運動へのカンパや面識があった程度でもみんな特高に引っ張られ、起訴猶予になったのだが、それも数カ月警察に拘留されるという、いわば一般への脅しという効果を狙ったものだった。こうした特高の人権侵害で家族も含め大きな精神的傷を負った人も多い。


B.反体制を気取る新聞
 産経新聞が、日本の大手メディアのなかでは他紙とはかなり違ったスタンスに立っていることは、紙面を読んでみれば明瞭だ。全体主義的独裁国家では政府批判の新聞やジャーナリズムは弾圧されるが、言論の自由を認められた民主主義国家では、時の政権や与党政治家への批判や攻撃も、右から左までいろいろな立場に立つメディアがあってよいし、国民が政治に関心をもち議論をするうえで、多様な意見があることこそ重要だと思う。ただ、日本の大手メディアは左翼が圧倒的で、自民党などの保守派の肩をもつ言論報道は、「バカ者呼ばわり」されるという産経新聞に載った以下の文章は、被害者意識がどうしてこんなに強いのだろうと興味を感じた。日本のマスコミは「革新幻想」に満ちているとこの抄子は書いているが、朝日や毎日や東京新聞の論調は、いちおうそう読めるだろうが、読売や日経はそうはいえないし、産経は「革新左翼」が「大勢・体制」になっている新聞メディア界で、ひとり果敢に保守派を堅持して戦っている「反体制」の英雄だといいたいようだ。でも、それって40年前くらいに流行った被害妄想じゃないかなあ。

 「中国共産党の専横を真っ向から批判してきた唯一の香港紙、蘋果日報(アップルデイリー)が、とうとう休刊に追い込まれた。一党独裁の専制主義国家にあって、ぶれない言論活動を続けることがいかに困難なことか。体制に屈しない覚悟のありようを、まざまざと見た思いがする ▼翻って日本社会はどうか。「60年安保」(昭和35年)の翌年に京大に入学した社会学者の竹内洋さんは著書『革新幻想の戦後史』で、当時のキャンパスの様子を振り返る。(革新文化に)いくらかでも異論を唱えればバカ者扱い」「大学においては、左翼が体制で保守派こそが反体制ではないか」 ▼抄子の大学時代はその二十数年後だが、まだそんな空気の名残りはあった。そして記者となりマスコミの片隅で暮らすようになると、同業者たちの大半が革新文化を引きずっていた。新人の頃、靖国神社に肯定的な記事を書くと、他紙の先輩から「バカ」と面罵された ▼まさにマスコミでは、左派が大勢・体制であり、保守派が反体制だといえる。竹内さんの言葉を拝借すると「にもかかわらず、自分たちは反体制だと思い込んでいる」。首相や与党幹部をいくら批判しようと、何のリスクもない言論の自由が保障された国で、権力と対決している気分に酔うのである ▼森友学園への国有地売却も加計学園の獣医学部新設も、権力の監視という美名の下でマスコミが大騒ぎした結果は、大山鳴動ネズミ一匹にすぎない。国政を停滞・混乱させ、必要な法制定や政策実行を遅らせただけではないか ▼時の政権の問題点を追及するのは当然である。だが、大切なことは反体制を気取ることではなく、事実を提示していくことだろう。そうでないと蘋果日報に恥ずかしい。」産経新聞2021年6月26日朝刊1面、産経抄。

 産経に限らず、いわゆる保守派の言論人が左翼を感情的に嫌うのは、自分が大学生時代に周りの友人も教師も戦後左翼的言説を当然の常識としていて、それに異論を唱えると、議論以前にまともなインテリとはみなされず、おまえ何バカなこといってるんだ、誰も相手にしてくれなくなるぞ、と卑下され自尊心を傷つけられたトラウマがあるのではないかと思う。冷静な論理的思想的なレベルの議論以前に、こういう門前払いを食ったら確かに怨恨が残るだろう。でもそれを左翼一般の人間性や権力指向の欠陥としたり、保守派の戦いを英雄視したりするのは、そうした卑しい左翼の強圧的言論と方向は逆だが同じ構造なのではないかな。
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