皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

島耕作の予言

2022-02-28 21:16:56 | 物と人の流れ

週刊モーニングに連載されているサラリーマン島耕作シリーズもいよいよ終わりを迎えた。先週号で相談役島耕作が終了し、初芝電産(TECOT)での一切の仕事を終わることとなった。また新たな展開をするとの予告があり、続きを楽しみにしている。
早稲田大学を卒業した島耕作が半世紀にわたり会社員(後半は取締役であるから、経営者)を通じ社会と向き合ってきたサラリーマンのバイブルのような漫画だ。他社に移って社外取り締まりをするような予感がするが、是非NPOの代表となって新たな側面も見たいようにも思う。

2002年頃に連載されている取締役島耕作。本社取締役に上がる前、島耕作は出向として福岡初芝販売に専務として出向いている。
そのときに取り組んでいたのが、初芝ショップとよばれる個人販売店を直営化し、自社製品の販売だけではなく、修理や交換
メンテナンスを一手に請け負う、販売ケア事業を本格化させたこと。

1970年以前の50代以上の人口比率はわずか20%。2002年においては人口の40%。現在2022年では50%を越えている。
若者は自分の足で歩き、車にのり、好きなものを選んで買う。量販の比重が高い。ところが高齢者は自分で設置したり運ぶことはしない。
セルフからケアの時代となってからすでに四半世紀が過ぎている。その間物流とインターネット通販が爆発的に延び、ケアの需要すら飲み込むことになりつつある。

日本の家電業界にとって転機となったのは1998年施行の家電リサイクル法だと言われている。
エアコン、TV、洗濯機、冷蔵庫については処分時にリサイクル費用を消費者が負担する仕組みとなった。今ではSDGs名のもとにさらにリサイクル環境の整備が進められているが、実はこの家電リサイクル法によって廃棄の際に高額な料金がかかる仕組みそのものが、景気の足かせになったとも言われている。要するに買い換え需要を妨げる原因になってしまったのだ。
企業努力によってそのリサイクルシステムを構築させるのが直営店だというのだ。
島耕作が取締役となってから20年後の今、家電量販店は『下取り強化』の名のもとに、買い換え需要を喚起している。ものを大事にすることと同時に、新商品を市場に出さなければメーカーは困るのだ。

ネット販売店でも今ある○○を下取りにしてお支払はいくらです、という販売方法が主流となっている。
読み返してみると常に島耕作は20年後の日本社会を見ていたのだと思う。売るだけではなく、旧品を動かすことで新商品の需要を喚起する。売りっぱなしという姿勢ではいつかは行き詰まる。
75才となった今の島耕作の瞳にはどんな日本の未来が写っているのだろうか。
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じゃがいも植えました

2022-02-27 23:34:30 | 生活

二月も末を迎えて、いよいよ春の農作業が始まりました。今年もじゃがいもの定植をしています。
毎年何を植えようか悩むところですが、ホームセンターで男爵の種芋を買って来ました。キタアカリ、メイクイーンなどいく種か販売されていますが、目に留まった男爵を選びました。
8㎏購入しすべて半分に割って植えるとかなりの量になります。

これを一人の作業だとからりしんどいところですが、母に加え近くに住む叔母が応援に来てくれたお陰で、半日作業を二日間で仕上げることができました。神社の神主とともに、あれ放題であった畑を引き継いで10年以上がたち、形だけは季節の野菜を育てることができています。土とともに生きる。こんな理想を叶えてくれる代々の土地を持つことができ、ご先祖様に感謝するばかりです。

植えかたについてあれこれ工夫をしますが、本に書いてあることを参考にしながら、素人農作業ではありますが楽しく育てています。稲藁をご近所から分けてもらっていますので、よく使っています。

朝のうちはやや上州の山々に霞がたなびきます。忍領から見ると真北に男体山が見えますね。

遠くの山々を眺めながら、作物を育てる。そんな日々を過ごしています。
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霞始棚引く(かすみはじめてたなびく)

2022-02-26 00:14:33 | 生活

春になると帯期v風の水滴や細かな塵が増え、遠くの山は靄がかかって景色がぼんやりと見えます。これを「春霞」と呼びますが、気象用語に「霞」という言葉はなく、「靄」「霧」「濃霧」という三段階で視界の程度を表すと言います。(ちょっと味気ない)

昔の人はたなびく霞を春の山々の衣装になぞらえて
「霞の衣」
「霞の袖」
「霞の裾」などと表現してきたようです。

春は霞、秋は霧、夜は「朧」と区別して多くの和歌に詠みこまれています。
そのうち靄や霧はかかると言いますが、棚引くと表現するのは霞だけ。
たなびくとは、霞や雲が横に長く引くような形で漂う様のことです。
赤く染まる夕霞は春の季語。花の季節の始まりのようです。
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セブン、Wi-Fi SPOTやめるってよ

2022-02-24 21:15:39 | 物と人の流れ

コンビニ業界の先頭をひた走るセブンイレブン。店舗数も売り上げもそして大事な営業利益もライバル企業を凌駕する。何となく入ってしまうのは近くて便利なだけでなく商品力、イベント企画力など店舗としての魅力があるからだろう。
所謂平均日販額がセブンが80万を越えるのに他企業は60万前後と聞いたことがある。(曖昧な記憶です)
平均日販は非常に大事な数字で、これによって損益分岐点が算出できることから、お店にとっては最重要項目となる。
売り上げの定義は客数×客単価。客数は商圏人口×来店頻度。
客単価は物価や原材料価格によって左右されるので現場の販売員が最大限伸ばすべきは客数と言える。
客数を伸ばすにはどうしたらいいか。
①営業時間を伸ばす。→手っ取り早いがもっとも人件費がかかる。そもそもコンビニは24時間営業なのいで頑張りようがないところまで来ている。
②商圏人口を伸ばす→まれに道路のバイパスが通る、付近に公共施設ができて(病院など)増えることがある(個人の努力では達成不可能)
③イベント企画等でお客を呼ぶ→これが一番手っ取り早い
④広告を打つ→これも手っ取り早いがコストが一番かかる。

客寄せの一貫としてセブンが導入したWi-Fi SPOT(フリーWi-Fi)が終了するという。ファミマとLAWSONは検討中のようだ。繁華街のコンビニでは特に需要があったのだろう。ただし郊外の店では明らかに駐車場回転率を落とす原因になっている。少ない駐車場ではすでにコンビニはお客が入らない上、台数を確保してもフリーWi-Fiを使って駐車されてしまうと、全く回らないのいだという。

世の中の需要は常に変化する一方、本業で勝負できない企業は厳しい社会であるのは間違いない。
便利を追い求めた結果、誰も幸せを感じることのできない社会に向かってはいないか。
そろそろ私たちの社会の仕組みそのものを見直すときが近づいているように思う。
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熊谷市 銀座 伊奈利神社

2022-02-23 20:32:14 | 神社と歴史

国道17号を熊谷市中心部へと向かい、駅前通りの陸橋の手前500mほどのところに伊奈利神社が鎮座する。市街地の一角で信号の脇にある鳥居とも看板ともいえる門が目印だ。地元の人々には『稲荷木伊奈利(とおかっきいなり)』とよばれているという。
また社殿の篇額には『白髭伊奈利』とありまるで熊谷市街地への導きの神のような佇まいをしている。
ただし御祭神は倉稲魂神(うかのみたまのかみ)の一柱であり、『稲荷木』の言葉の意味についても詳しくは不明であるという。
神名帳によれば創建は文明十八年(1486)と古く宝永元年(1704年)の洪水によって社殿を流出している。
明治なって無各社となり、昭和19年に村社となるものの、翌年の熊谷大空襲によって町もろとも全焼したという。

戦後の復興によって目覚ましく発展した熊谷市の中心部のお社として、昭和二十年代から社務所、本殿と再建を果たし昭和47年鳥居も再建され現在に至るという。
場所柄、交通安全、商売繁盛の神として信仰を集め、氏子だけに限らず花柳界からも『袖引き稲荷』とよばれ信仰された。
当初は初午の日を御例祭日としたが後に三月の春祭りと九月の秋祭りに特化していったという。

今でこそく熊谷駅前を中心に新幹線の通る『埼北の雄』熊谷市であるが、終戦時に受けた空襲により、町全体が焼け野はらとなったことは近現代史において特筆すべき事柄である。熊谷の復興は戦後日本の復興のまさに象徴的歴史であって、北埼玉における苦難を乗り越えた人々の魂の歴史である。
かつてこの地は利根川水系の湿地帯であり、一面の萱原が広がっていたという。中仙道熊谷宿から離れたところであり、人家揉まばらであった。当時通っていた道は行田街道とか忍街道とよばれた小道であって周囲は昼なお暗い鬱蒼とした狐狸の住みかであった。

ところが昭和七年国道17号が開通し状況が一変する。行田街道は立派な幹線道路となりその両側に家並みができていったという。これは戦前の内務省による不況対策の一貫として行われたもので、当時国道17号に柳が立ち並んでいたことから、東京の銀座の柳並木にみたてて
熊谷銀座と名付けたという。当初銀座と呼ぶにはほど遠い町並みであっものの、戦後の復興によって銀座の名にふさわしい町となっている。
毎年七月のうちわ祭りには銀座区として屋台と御輿をだし、大いに賑わいを見せている。
本年二月より縁あってこの地に勤務することとなり、銀座の氏子として熊谷の町にお世話になっている。
『北埼玉の雄』熊谷市に恥じない仕事をしたいと切に願っている。
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