皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

熊谷総鎮守 高城神社

2022-02-14 22:29:17 | 神社と歴史

熊谷市は直実公のお膝元として知られるが、その地名の由来は荒川の蛇行に形成された『曲谷』(くまがやつ)によるものだという。古くから地下水の沸く遊水地が多くあり、はるか昔は鬱蒼とした茂みの中で古代祭祀が行われていたことを思わせる。行田の浮き城と地政学的には類似するのではないかと思う。
高城神社は『延喜式』神名帳に列する「大里郡一座 高城神社」と称する古社である。
高城は古くは高木とも書き、のちに城の文字があったという。群馬県甘楽郡には「高垣神社」があり神聖な祭場を高い垣根で囲ったことを思わせる。高城は区画した祭場を示す「域」であったのかもしれないと「埼玉の神社」は記している。

古代当社を奉斎したのは武蔵七党の私市党(きさいちとう)に属した久下氏であると考えられている。
尚大里郡大里村に鎮座する高城神社を式内社とする説もあるそうだ。鎮座地が古代の郡榮であるとされる和田吉野川左岸にあり、境内から銅製の古鈴が出土していること、近辺に多くの古墳が存在するなどしている点が挙げられている。
中世においては高城神社の動向を知る資料は、熊谷次郎直実が崇敬したとい伝承が残るだけだという。式内社でありながら律令末期には社会的な動乱と共に、大里郡においては武蔵武士として勢力を伸ばした久下氏と熊谷氏とが対立したことで、庇護が薄れてしまったという。(久下氏は三島神社、熊谷氏は千方神社を崇拝した)
中世衰退した高城神社を再興したのは江戸期になって忍城主阿部家が崇敬したことによる。寛文十年(1670)境内の洞穴から霊水が沸き、諸病治癒に霊験あらたかという信仰が起こり、おびただしい参拝者が押し寄せる。これを知った阿部家は翌寛文十一年(1671)社殿を再興している。以来阿部氏の崇敬は三方領地替えで移った白河へ転封後も変わることがなかったという。
現在残る高城神社縁起なども阿部家ゆかりの古文書だという。

忍城主阿部家によって江戸期に社殿を奉じ、白河転封後もその崇敬を受けた点は、当社(皿尾 久伊豆大雷神社)も全く同様である。阿部家は老中を輩出する銘家であるとともに、代々古くからの崇敬を守る家柄だったことが伺える。

尚、境内東北に残る旧鳥居は老中阿部忠秋公が奉納したものと伝えられる。

ご祭神である高皇産霊神(たかみむすひのかみ)は生成を神格化した造化三神の一柱。
「産み・育て・結ぶ」という御神徳に氏子があやかるようにと「祈り・感謝・人生儀礼」を導く。
明治三十九年に始まった「八日市」は明神様の「お酉市」として知られ多くの露店が集まる盛大な祭りとなっている。

また境内地北側には壮大な戸隠山車をしまう収納庫が建てられ、うちわ祭りの中心的役割を果たしている。

縁あってこの二月より熊谷の地にお世話になることとなり、氏子詣での初端として参拝し、気持ちも新たにした一日だった。
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