延宝元年(1673)に記された当社の縁起はその後『新編武蔵風土記稿』に転記されるなど江戸期に残る当地区の歴史を伝える大きな役割を果たしたと考えられるが、その後江戸後期になって記された『神用公用雑記』が安政七年(申年)からの記録として残されている。1860年からのことで今から160年前のことである。祭祀のことや、境内地の神木の列記、太政官への届け出など神官としての記録と、年貢の取れ高や負担、村内の役割分担など村の統治にかかわることと併せて、神用公用雑記との誌名の通りの内容だと推察される。
記録は明治初頭まで続き、維新の混乱を過ぎてなお記されていたことがわかっている。
古文書故になかなか読み下すことも叶わず、日々過ぎてしまうが、疑問をもって読み解いてゆくと、少しづつその伝えようとしていたことが見えてくる。安政期といえば高校の歴史教科書で覚えたのは
『日米和親条約』(神奈川条約=安政元年)
『安政の大獄』(安政5年)
『桜田門外の変』(同六年)だろう
黒船来航から、江戸幕府崩壊へとつながる政変が立て続けに起こり、幕末維新へとつながる序章の時。
こうした不安定な幕末へ向かうその時に、なぜ急に神社の記録を残しだしたのか。関東の田舎地方の方が余裕があったのか、幕府の有力親藩としての記録を残したかったのか。そうではなかった。
昭和三十七年背編纂の『行田市史』下巻には江戸期の忍藩の様子が時系列的に記されている。安政期には二つの大きな災害があったことを伝えている。
安政二年大地震(1855)
江戸の城下での直下型地震で、江戸の被害は大きく死者四千六百を出し、一万四千の家屋がつぶれたと伝えている。但し忍領下では揺れはしたが大した被害は出ていない。
安政六年大洪水(1859)
この年の七月二十五日の大雨は前日から続き、午後四時に久下付近で荒川が決壊している。忍城下でも多くの床上浸水が生じ、数百件が流されるなど甚大な被害が出ている。特に米蔵が水につかり、在米が水浸しになったことが大きかったという。また八月に入っても大雨があり、二度目の洪水となった上に、流行病(コロリ=コレラ)が蔓延している。
こうした領内の惨状を、藩として把握し年貢米の減免、幕府からの借り入れの報告として挙げるため、各村々で陳情書として集めたものと考えられる。この水害に当たり忍藩は幕府から金五千両の借り入れをして凌いだという。
江戸後期の忍藩の様子を知る貴重な資料であり、今後さらに紐解きながら皿尾村の当時の様子を明らかにしていきたいと思う。
平成二十八年に出版された普及版『行田の歴史』には安政の大洪水の記述はなく、『伝兵衛長屋火事』と安政地震のことが併記されているが安政の洪水については触れられていない。歴史書も複数を読み比較することで見えてくるものがあるようだ。