皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

武蔵一宮 氷川神社②

2018-05-31 22:20:39 | 神社と歴史

 鎌倉期に入ると、治承四年伊豆で挙兵した源頼朝は武蔵国入国にあたり氷川神社の再建を土肥実平に命じ、また社領を寄進したと伝えられている。また建武三年(1336)足利尊氏が参拝し、足立郡大調郷を寄進している。江戸期に入ると徳川家康はたびたび社領を寄進したことが『徳川家康寄進状写』によって伝えられる。忍藩との関係として、寛文六年(1666)阿部忠秋によって社殿が修繕されている。
氷川神社の歴史において一層重要視されているのが明治天皇の行幸である。天皇は明治元年、都を東京に遷し、祭政一致の方針に基づき氷川神社を「武蔵国鎮守勅祭社」と定め「勅書」を発布している。
明治天皇は氷川神社に行幸し、御自ら御親祭を行っている。この様子はのちに長大な絵巻となって描かれ、明治二十六年に奉納されている(明治天皇行幸絵巻)また昨年は明治百五十年にあたり、奉祝行事が行われている。
祭祀に関しては「夏祭り」にあたる例大祭・神幸祭と「冬祭り」にあたる大湯祭が特に重要な祭祀とされている。また氏子区域となる旧大宮市は「大いなる宮居」と称えたことに由来しする。氏子の伝承する芸能として里神楽が残っていて、郷神楽祭、鎮花祭などで奉納されているという。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

武蔵一宮 氷川神社①

2018-05-30 20:01:29 | 神社と歴史

鎮座地である大宮市高鼻町は大宮台地の上にあり、古代からの湧水地で湧き出る水は絶えることがないという。また大宮台地の東部、北部には広大な見沼低地が深く入り組んでいて、地名にも深作、島町といった低水地にまつわるものが残っている。『埼玉の神社』によれば氷川神社の祭祀は鎮座地の湧水とかかわりが深く、この水は境内の「蛇の池」から「神池」に入りさらには見沼へと注いでいたという。 楼門西側奥にある蛇の池からは懇々と水が湧き出る様子が見て取れる。

氷川の神は古くは「常陸国風土記」に記載がある蛇神「夜刀の神」のように谷津に座す水を司る神であったと考えられている。
『風土記稿』によれば創建は第五代孝昭天皇の御代三年出雲国氷の川上に鎮座する杵築大社を遷座し、氷川神社の号を賜るという。氷川は出雲国の大河である肥河にちなむといわれている。ご祭神は須佐之男命・その妻稲田姫命・大己貴命の三柱神。神紋は八雲紋で須佐之男命の読んだ最古の和歌に由来する。武蔵国における氷川神社の分布は三百五十五を数え、足立郡が百五十二社、入間郡四十二社と多く、特に多摩川と元荒川の間に多く鎮座している。『延喜式』神明帳によれば武蔵国において唯一名神大社と記され格別の待遇を受けている。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

樋遣川 稲荷神社

2018-05-29 22:10:38 | 神社と歴史

7基の古墳からなる加須市樋遣川古墳群。現存する三つの古墳の内、稲荷塚古墳と浅間塚古墳は水田に囲まれ100mほど離れているが並ぶように建っている。どちらも御室社に祀られる、三諸別王の一族を祀ったものと考えられている。稲荷塚に建つ稲荷神社は古くから稲荷台に住む人たちによって祀られ。元は稲荷宮(とうかみや)といわれていた。
明治に入り合祀の動きがあったにもかかわらず、古墳上にあることから動かされることはなかったという。
御祭神は宇賀魂命。内陣には稲荷神像と御眷属像が納められるという。また旧暦で行う初午祭では例祭としてすみつかれを食べるという。
今の時期まさしく水田に浮かぶ小さな浮島のごとく、塚のすぐ前には田んぼが広がり、古墳内の階段だけが参道となっている。七基あった古墳も長い年月かけて削られ、取り壊されるなどして三基を残すのみとなっているがいづれも山頂に神社がまつられ、祭祀が行われることにより氏子の信仰によってその姿を留めている。稲荷塚から眺める浅間塚の様子は夕日の色と水田が反射し輝くばかりの緑の苗が広がっている。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加須上樋遣川 御室社

2018-05-28 20:38:35 | 神社と歴史

古代東国開拓にあった彦狭島王、三諸別王の伝説がある加須市樋遣川古墳群。七塚と呼ばれ御室社のある諸塚を中心に古墳が点在し、利根川低湿地を象徴する七沼と合わせて『七塚七沼』とも呼ばれていました。現在残る古墳は浅間・稲荷と合わせ三つののみとのことですが、田園地帯でなお、鬱蒼とした樹木に覆われています。『国造本紀』によれば崇神天皇の御子豊城入彦の孫にあたる、彦狭島王は上野の国造となったとあり、その子御諸別王は父の果たせなかった東国開拓を進めたと伝わります。

「御室大明神縁起」によれば、景行天皇五十六年三諸別王東国平定の詔を奉じて当地開拓の任に当たるとあります。その徳を称え社を建立し祀るとされます。また地名樋遣川については、祭神三諸王が火矢を以て賊を破り、「火箭里」と呼ぶことから転じたとされます。ご祭神が松葉で目を傷めた伝説から、境内に松はないそうです。

塚の前にある神門はとても重厚で、また階段を上り塚の上に立つと神秘的な雰囲気に包まれます。
 氏子区域においては御室(おむろ)様と呼ばれ、安産の神として信仰があるといいます。これは祭神三諸別王が賊に追われた際産婦の寝所に潜んでその難を逃れた際、王が安産を誓約したことによるといいます。

古代の伝説を今日まで数多く伝える古社であり、初めて参拝しその神聖なる空気に触れることができました。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

春の運動会

2018-05-28 17:09:38 | 日記
週末土曜日は小学校の運動会でした。天気も良く、気温も上がり絶好の運動会日和。残念ながら今年も仕事を休むことができず見に行くことが叶いませんでしたが、ビデオや写真を通して子供の成長を見ることができます。子供の行事に都合がつけられないことを残念に思いますが、出来ることをやり、子供の主体性を育てるように心がけています。
親子競技には中学生になった姉が代わりに出てくれます。とても盛り上がり弟を引っ張って走っていました。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする