皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

同じ町で同じ景色を別の角度で

2021-10-26 22:13:53 | 先人の教えに導かれ

田舎教師の景色が広がる私の住む行田市。特に秋から冬にかけて澄みわたる空気によって西には秩父山脈、北には赤城山の雄大な景色が広がる。子供の頃から見慣れた景色であっても、地区によってやや見える角度に違いがあるものだ。

このブログやFacebook等のSNSを通じ、コメントをいただくなりして交流を持った方がいる。行田市民大学の活動を介して得られたご縁だ。三年ほど前に一度お会いできる機会を逃してしまい、いつかいつかと思っているうちに元号も代わり、コロナという思いもよらない疫病が蔓延して時間ばかり過ぎてしまった。自分自身ワクチンを接種し終わった後には、思いきって会いにいってみようと心に決めていた。

自分の今年の目標のひとつが「会いたい人に会いに行く」というものであった。近くて遠い存在。ただ会って思うままに話がしたい。そう感じていた。失礼ながら世代の離れた方と初めてお会いすることのひとつの心配に、耳が遠くなっておられて、会話が難しいという点があった。88歳になられたNさんは亡くなった自分の父の四つ年上になる昭和一桁のお生まれだ。初めてお会いしてそうした心配事は全くの杞憂に 終わった。想像した以上に博学で、話す姿勢も素晴らしく、穏やかで言葉の隅々に教育者としての経歴を感じた。

都内のご出身で長く大学の教壇に立たれていたNさんがここ行田の地に住まいを構えたのは昭和54年のこと。当時すでに住宅地として開発されていた持田地区に決めたのは、住宅メーカーの担当者に連れられてこの地を訪れた際に見た遠く広がる美しい山々の景色に魅せられたためだそうだ。大学のある浦和まで約一時間。SNSで知り合った当時、私はやり取りのなかでその経歴からN先生と呼んでいたが、「さん付けで結構」と指摘されたことを覚えている。
自宅二階にご案内いただき、これまでのやり取りを振り返りながら約一時間半に渡り、お話しさせていただくことができた。どうしてもついこちらのことを話してしまう。代々続く社家に生まれ、親の意向に反して大学で神主の資格を取りながら、民間企業に進んだこと。実際に自分の代になってからの苦労。兼業として販売業で働くなかでの意識など、非常に穏やかに聞いて頂いた。

一方Nさんのお嬢様が私の高校の先輩であること、現在の生活のご様子、持田地区のふるさと創成クラブに共感していることなどともに、私の勤める会社のサービスについておほめの言葉も戴き、非常に嬉しく思えた。
専門とされていた経済学の話につて、近年の金融システム等の話はわからないと前置きしたうえで、マルクス主義の歴史について、旧ソビエトの社会主義経済を除き、実際にその理論を実践した例はなく、今日の」中国における歪んだシステムを見る限りマルクス主義は資本主義の先を見越したものを見いだすことはなかったという点に非常に感銘を受けた。理論と実践との解離。そうしたものを埋める上で教育は非常に重要だともおっしゃっていた。私自身経営者ではもちろんないが、年齢的に若年者の労働者を指導する立場であり、変化の激しい時代のなかで、過去の価値観を踏まえた上で、理念に沿ったサービスを産み出していく、それによって利益が生まれる。
晴天をつけの論語と算盤。近江商人の「三方よし」のは非常に考え方が重なっていると思っている。

もっと早く知り合っていればとおっしゃっておられたが、今こうしてご縁を賜ったのも天の導きだと感じている。戦中の集団疎開のことや高度成長期のことなどもっと聞かせていただきたいことがあります。どうぞこのブログをご覧になりましたら、若輩の兼業神職の我儘と思って昔のことも、また今の世の中に対する考え方もまたご教授いただければ幸いです。
コメント (2)
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日光化灯籠

2021-10-18 22:01:54 | 神社と歴史

ちはやぶる神のしづめし二荒山
 ふたたびとだに御代はうごかず 
賀茂真淵に歌われる下野国一宮二荒神社の本殿手前には化灯籠と呼ばれる不思議な灯籠が残っている。

鎌倉時代「1292年)鹿沼権三郎入道教阿が奉納した唐銅の灯籠で伝承が残っている。
闇夜を迎えてこの灯籠に火を入れるとすぐに燃料の油が尽きて消えてしまい、何度も同じようであった。また周囲のものが二重に見えたり灯籠が揺れ動いたという。警護のものが怪しんでこれを切りつけたため、無数の傷が残ったという。

化け灯籠の正体は暗闇のなかで風に揺らめく灯籠の火が怪しく見えたため、また、灯籠の油をムササビがなめに来たなど諸説があるが真相は不明である。

何れにせよ、今尚その傷を現在に伝える意味は何であったのか。
東照宮より古くから日光山岳信仰の中心にあった二荒神社。関東の奥地でその権勢を誇った一方で、後北条氏についた結果豊臣政権下に於いては領地を召しあげられている。東照大権現の権威のもと江戸期となって社地を回復し、日光詣でによって興隆を回復しているが、社殿を始め境内地の管理や人の往来を戒める必要だったのではないか。故に狼藉があらば遠慮なく太刀を抜く。そうした社地での振る舞いを伝えたかったのではなかろうか。もちろん伝承の意味を現在の感覚で読み取ることは難しい。
今に残る銅灯籠の傷跡だけが知っているのだろう。
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キヌヒカリの里

2021-10-16 00:20:17 | 食べることは生きること

十月も半ばを過ぎ、稲の刈り入れが進んでいる。台風の襲来もなく、順調のようだ。もちろん実際の農家にすれば出来映え、価格等気を揉みながら最後の脱穀出荷まで苦労を重ねていることと思う。我が家も四半世紀前まで兼業であっても稲作農家であって、収穫の喜びと苦労を味わって来た。残念ながら機械の維持継続断念を理由に廃業し、耕作委託をしながら農地を管理している。

委託先農家に作付してもらっている銘柄はキヌヒカリ。埼玉特有の米だ。あまりスーパーなどでは出回っていない。昭和の晩年より埼玉では多くの田んぼで作付が行われた品種だ。

平成28年度の統計によれば、全国作付面積では第七位となっている(作付比率2.5%)
米の銘柄は数多く存在し、年々交配も進み、新たな品種も生まれているが、圧倒的に多いのはやはりコシヒカリで作付比率36%.。続いてひとめぼれで9.6%.ヒノヒカリ、あきたこまちと続いて上位4銘柄で作付面積の6割以上を占めている。

昭和63年(1988)に農林290号キヌヒカリと命名され、もともとは関東地方で栽培されるために交配された北陸の品種で、一番の特徴は倒伏しないよう、稲の草丈が短いことだという。味はコシヒカリに近いが甘味や粘りが弱く、さっぱりしている。現在では主に近畿地方で栽培が盛んであり(兵庫・滋賀)、関東では埼玉が産地として知られる。北埼玉の米所では北川辺のコシヒカリが有名だが、行田地区ではキヌヒカリが多く作られる。県の推奨米として「彩のかがやき」の栽培も進んだが、当地ではキヌヒカリの方が人気があるようだ。北関東特有の空っ風に耐えられるよう、丈が短い品種を選んだというところに非常に当時の人たちの思いを感じる。収穫時に倒れてしまった稲を刈り入れるのは大変な思いをするのだろう。

令和大嘗祭に於いては京都南丹市のキヌヒカリが神撰として選ばれている。
絹のようなひかり輝く米
甘味や粘りは控えめで、他の食材との調和がとりやすく、いずれのおかずとも相性が良い米。
北埼玉の歴史や暮らす人たちの人柄が滲むようなキヌヒカリ。こうした銘柄が収穫されることを神の恵みとして感謝し、当社の神嘗祭に奉納している。
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日高市 高麗神社①

2021-10-12 20:57:46 | 神社と歴史

高麗神社の高麗とは中国の東北部から朝鮮半島にかけて、約七百年間(BC37年頃~668年)に栄えた大きな国で、唐と新羅によって滅ぼされたとされる。「日本書紀」においては天智天皇五年(666年)10月に高句麗から遣いがやってきたと記されており、その中に「玄武若光」という名が見られる。

 高麗人は豪勇で騎馬民族としての性格を有し、高度な技術を持っていたとされる。天智天皇の御代の遥か以前から高句麗の文化は日本に伝来していたと考えられていて、まず越前若狭湾から近江に入り、次第に東進して武蔵野方面まで伝わったと考えられる。この間にも高麗人は各地に定着し、それぞれの地で日本人と融合し、大陸の優れた文化を伝えていった。
 祖国を失い多くの高句麗の王族や文化人が日本へと渡り、各地に散っていったさなか、霊亀二年」(716年)武蔵国に高麗郡が置かれることとなる。乙巳の変以降、中央集権国家を目指す大和朝廷にしても、滅んだ友好隣国を受け入れたものの、京に近い領地をあてがう余裕はなかったのだろう。当時の関東は未開の地であり、「駿河」「甲斐」「相模」「上総」「下総」「常陸」「下野」にいた1799人の「高麗人」を武蔵国の丘陵地に集め、「高麗郡」として開拓していったという。
その統治者こそ現在の高麗神社に祀られる「高麗王若光」である。
 
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十七節気 寒露

2021-10-12 20:21:26 | 生活
昨日までの真夏日が遠い記憶のように、今日は朝晩の冷え込みが秋らしく冷え込んだ一日となった。早いもので秋の節気も残すところ二つ。
草木に宿る露が冷たく感じられるようになる。寒露のころに感じる寒さのことを「露寒」と呼び、露が凍りかけて霜が混ざったような状態のことを「露霜」という。露と霜とが繰り返しめぐってくることから「年月」という意味もあるという。

秋が深まるにつれ、夕暮れから急激に日が沈んでいく様を「秋の日は鶴瓶落とし」と表現するが、鶴瓶とは井戸から水をくみ上げる桶のこと。

夕方の空はあっという間に夜の闇へと包まれてゆく。


神宮においては(伊勢)神嘗祭を迎える季節。五穀豊穣に感謝し天皇陛下が初穂を天照大神に奉る宮中祭祀として毎年十五日に祭祀が執り行われる。戦前までは祭祀が終了する十七日が国民の祭日として祝われていた。新嘗祭と同様神宮において最も由緒ある祭事である。
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