皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

上尾宿総鎮守 氷川鍬神社

2017-09-29 21:59:52 | 神社と歴史

上尾駅東口、旧中山道沿いに鎮座する氷川鍬神社に参拝しました。社会人5年目位のころ、上尾に二年間住んでいたころがあり、わずかながら土地勘があることで、今でも好きな街です。

 寛永八年(一六三一)桶川宿の方から童子らが台車に櫃を載せて上尾宿に引いて来て歌い踊り、さらに江戸まで送ったが、大晦日に当宿に戻され、本陣前で台車は動かなくなった。このため上尾宿のものが正月になって櫃を開けると中に形の違う小鍬二挺と藁苞が入っていて藁苞を開くと稲穂十余茎があった。そこで社を建立し、小鍬二挺を祀り、稲穂を供えたと伝わります。ご神体の鍬は五穀豊穣の豊鍬入姫命。
 現在社殿は上尾駅のすぐそばにあり、都会のお宮らしく、手水舎の後は駅駐輪場になっていました。

境内の溶岩で築かれた山頂にある浅間様です。
各地と同じように7月1日には「はつやま」で賑わうようです。
江戸時代、中山道宿場町として栄えた上尾宿。現在も駅前を中心にたくさんの人であふれていました。
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中山道と上尾宿

2017-09-29 21:01:51 | 史跡をめぐり

 北埼玉に住んでいると、子供のころに目指す都会と言えばまず熊谷、そして大宮を経由して東京に向かうというのが順番だった。もちろんさいたま新都心はまだなかったころの話ですが、途中とにかくたくさんの人が乗り降りしている記憶があるのが上尾駅でした。
 中山道は、江戸幕府により整備された五街道の一つで江戸日本橋を起点に各地を結ぶ主要街道です。なんとなく新潟に向かう道だと勘違いしていましたが、群馬、長野、岐阜、滋賀といった本州内陸部を通り、草津宿(滋賀県草津)で東海道と合流し、京都までつながるそうです。その距離530㎞を超えるといいます。慶長7年(1602)物資の輸送に必要な人足や馬を整え、伝馬制が敷かれ、街道沿いに宿場が作られました。宿場には本陣、脇本陣などが整備されたとされます。
 中山道には江戸から京都まで69の宿場が設置され、最初の板橋宿から五番目、江戸から九里十八町(38キロ)の宿が上尾宿になります。となりの桶川宿を開設した西尾隠岐守吉次の領地であったことから、同じく上尾宿の開設にも関与したと考えられています。
昔、受験問題で、五街道の起点は何処かといふ問題がよく出たものです。またキー局のアナウンサーが旧中山道をきゅちゅうさんどうと呼んだ映像が繰り返し流されていました。

「中山道分間延絵図」には当時の中山道上尾宿の中心部が描かれているそうです。沿道に沿って182軒の家々が立ち並び、八百人近くが生活していたようです。参勤交代で江戸に上る大名が泊まった本陣が1軒、脇本陣が三軒、庶民向けの旅籠は四十一軒あったとされます。

 上尾宿の中心にあった氷川鍬神社にも上尾宿の歴史が記されています。
 江戸時代宿場町として栄えた上尾の町並みは、江戸末期から明治初期にかけての三回の大火により多くが失われたそうです。大火の際に難を逃れた屋根の上に鐘馗様が乗っていた家が数件あり、その後火伏の守として流行ったそうです。また通り向かいの鬼瓦が自分の家に向いていると縁起が良くないため、鬼より強い鐘馗様を屋根にののせるようになったともいわれてます。
 今日の栄えた街並みを鐘馗様はどう眺めているのでしょうか。
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正直は一生の宝

2017-09-28 22:03:03 | 政を為すは人にあり

 知恵伊豆の異名をとった松平伊豆守信綱。忍藩三万石の藩主を務めまた徳川家光、家綱の代老中として有能に実務を取り仕切ったといわれています。
 彼の幼少期のエピソードとして「正直」にまつわる話が残っています。
 信綱がまだ長四郎という幼名時代、竹千代(三代家光)と共に千代田城(江戸城)で遊んでいたころ、ある日将軍家の大切にしていた屏風を破ってしまったそうです。将軍徳川秀忠の怒りは凄まじく、だれもが咎をうけるか恐れていたところ、「私が破りました」と正々堂々と名乗り出て「大変申し訳ないことをいたしました」謝った子供が長四郎だったといわれます。すると将軍秀忠は「よくぞ正直に申し出た」と長四郎をほめ、「これからはかような過ちをしないように」と一言だけ戒めると、特に信綱を咎めることなくその場を去っていったといいます。
 「正直は一生の宝」という言葉がありますが、根底に正々堂々の気持ちがあれば、自然とその人間には威厳が生じるようになるとう意味合いがあるのではないでしょうか。その威厳が自信となりその人を後々大きくするのです。信綱が老中である間、幕府は安泰であったのは間違いありません。
 「大儀」という名のもとに、議会は解散されました。ハロウィン、そして神無月を前にとても日本中騒がしくなってしまいましたが、今問われるのはそこなのかと疑問に思う人はたくさんいるのでしょう。穏やかな実りの秋の刈り入れが終わることを切に願います。

 
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十万石幔頭と甲斐姫

2017-09-25 20:58:21 | 食べることは生きること
 
 行田名物と言えばB級グルメゼリーフライ、郷土料理フライなどがありますが、行田発祥でかつ埼玉銘菓と称えられるのが「十万石饅頭」です。
市街地にある本店の蔵は文化財に指定もされていますが、私はいつも水城公園店で買い物をします。今日は中日を過ぎましたが、鴻巣の親戚に彼岸参りの土産としてよらせてもらいました。

来月スタートのTBS日曜劇場「陸王」のパッケージの5個入り饅頭があり思わず買ってしまいました。ドラマもとても楽しみにしています。

中身の刻印に陸王の字が入っています。娘は2個食べていました。

 十万石のHPには饅頭のこだわりの歴史が紹介されています。
昭和20年太平洋戦争終戦後まもなく砂糖の統制が解かれ、行田の地に十万石饅頭は生まれました。ところで、砂糖は貴重な物資として、戦争前から流通統制が敷かれていました。現在でも解除後の特約店制度の名残があり、流通経路は大手商社を頂点とした旧態依然とした仕組みが残っているようです。通常仕入れから支払いまでほかの食品問屋であれば60日前後の猶予がありますが、砂糖に関しては極端に短い期間で支払期日が来てしまいます。実は以前砂糖の問屋に勤めていたことがあり、営業社員としてはたらいていました。十万石にも砂糖を届けたことがあります。(担当ではありませんが)


十万石饅頭の箱や袋に使われている絵です。戦後の名匠、棟方志功の絵だそうです。実は饅頭を食べているのは忍城主成田氏長の娘、甲斐姫が描かれています。
 昭和28年世界的板画家、棟方志功はまだ世間に認められていなかったころでした。氏と親交を深めていた行田市の書道家渥美大童氏の紹介で棟方氏の作品に触れた社長が「これからの菓子屋は先生のこの人間味あふれる暖かさ、そしてバイタリティーが必要だ」と開眼。
 早速、十万石まんじゅうを抱えて、尋ね「是非この饅頭を食べてみてください」と差し出したそうです。無類の甘党だった棟方氏は「あんたが作ったのかい」と一口食べ、一気に5個も召し上がったといいます。6個目の饅頭に手を伸ばしながら、
「うまい、行田名物にしておくにはうますぎる」
といい、直ちに絵筆をとりました。忍城の姫が生きていればきっと同じことを言ったに違いないと、かの絵を描いたといわれています。
ところが、十万石幔頭と書いたそうです。
社長がすかさず「幔は食片の饅です」と指摘すると
「このまんじゅうが全国に広く知れわたることを願ってこの字(幔)にした」と答えたそうです。

「私は私でなければ描けない絵を描く、あんたはあんたにしか作れない美味しい菓子を作りなさい」と続けたそうです。
十万石にとって棟方氏の絵は菓子作りの原点となり、その絵を使い続けることが、氏との約束した、十万石にしか作れない美味しさを届ける心の証だそうです。

歴史を知ることでものの見方、見え方は変わります。十数年前、こうした物語に気づかなかったことが残念であると共に、今日こうして知ることができた運命を感じます。

自分にしかできない仕事、生き方を求め積み重ねていくこと、それがそれぞれ与えられた使命なのではないかと思います。
 
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乃木のお菓子となつめの木

2017-09-24 21:28:05 | 日記

 昨日、お世話になった方のお嬢さんが結婚式とのことで、祝電を打たせていただいた。
乃木神社の乃木会館とのことだった。近年氷川神社や明治神宮など大きな神社での神前結婚が人気のようだ。海外挙式での挙式も著名人では多いようだが、国内回帰の流れは確かにあると思う。
 昨日の今日にもかかわらず、私の職場まで返礼をもって訪ねてきてくれた。異動した前の店舗の従業員さんで、古河まで出向いてきてくれた。仕事のつながりは終わっても人のつながりは続くもの。半月ぶりにお会いし、とても懐かしく感じた。
 頂いたのは「棗のマドレーヌ」

日露戦争後、乃木大将とロシアの将軍ステッセルが互いの健闘を称え、会見した際に庭にあった木が棗(なつめ)の木だったといわれます。現在は乃木神社の御神木だそうです。乃木大将に関する歴史的評価は様々あるようですが、今の日本の平和と繁栄の礎であることに変わりありません。
 二十代のころ友人の結婚式に招待されたのにも関わらず、仕事を理由に欠席してしまったことがあります。せめて祝電を打つことくらいできたのにと後悔したことがあり、知人のお祝いのは電報を打つようになりました。価値観とは、心の中の優先順位を決めること。
Wさん、お嬢様のご結婚本当におめでとうございます。
素晴らしいお返しまでいただきありがとうございました。
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