皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

桃李不言下自成蹊 さいたま新都心 本格四川料理 成蹊 後編

2023-11-27 21:25:59 | 食べることは生きること

さいたま新都心の街開きは平成十二年(2000年)の事です。公官庁の出先機関を集めた街づくりで翌年平成十三年には浦和市、大宮市、与野市が合併して「さいたま市」が誕生します。この時旧浦和市、大宮市にはそれぞれ「浦和区」「大宮区」が名称として残りますが、与野市だけは「与野区」とはならずに「中央区」となりました。
そもそも明治のころから浦和と大宮は隣接都市としてライバル関係にあり、文化歴史の上でも競い合ってきたことから合併に反対する意見も多くあったといいます。そこに政令指定都市を指定を目指し、東京の機能にも負けない大都市構想を遂げるために加わったのが与野市であったといいます。だからさいたま市区名選定委員会にて議論された際、公募の結果「与野区」が一位、「中央区」が二位になりましたが当時の与野市議会は「新都心に移り住む人々の未来のため」に歴史ある名前ではなく中央区を選んだそうです。行政区からは「与野」の名はなくなりましたが、駅名や公共機関の名前として今も生き続けているといいます。そんなさいたま新都心駅から歩いて五分の中華料理「成蹊」
祝日の「東方美人ランチコース」は一人前3500円です。11:30の予約で時間丁度に店に着くことができました。予約のためかよく冷えたお皿に4品目の小皿の乗った前菜が色鮮やかに即提供されます。
二品目は薬膳スープ。すべてが口当たりがよいのでは中華の良さが逆に味わえないかもしれません。身体によい雰囲気で、「良薬は口に苦し」という先人の教えを味わいます。小籠包の後に主菜としてエビチリと牛肉のとなすの甘辛炒めが選べます。夫婦で食事に来られましたので、一品ずつ選び取り分けて両方味わうことができました。「他人の作った料理はおいしいね」というのが妻の感想です。これは正直なところで、食材、調理法、雰囲気を含めお客さんとしておもてなしを受けていることへの感謝の気持ちかもしれません。
食事メニューも担々麺とあんかけおこげを選べますが、ともに一品ずつお願いして取り分けます。炒飯ではなくおこげというのが珍しくうれしいメニューです。中華コースの特性でしょうか、品数がありますので後半はあじは濃い目で少量に盛り付けられてます。スパイスが効いていて満腹感があっても美味しくいただくことができます。

デザートも少量ですが一人二品提供され、ゴマ団子の餡は程よい甘さで杏仁豆腐は癖がなく非常に口当たりが良かったです。

お酒は注文しませんでしたが、国内外で評価の高いイチローズモルトを置いています。店内は中華の雰囲気がよく伝わり、忙しいランチタイムでもその良さが目に留まります。

ブログとしてはもちろん勤務先の勉強の一環として食レポを作成しています。写真やメモを取らせていただきますと伝えると、「いいレポート仕上げてくださいね」と笑われてしまいました。やはりどんなところでもひとこと添えることで礼儀も伝わりまたお互い様の気持ちも生まれ、より楽しい時となります。
レポートの課題として評価を星の数で示せとありましたが、そうした指標はあまり好きではありません。もし星の数で表すならば
「満天の星」ということになるでしょうか。
~星空のライブ さいたまスーパーアリーナ~に輝く星を加えてくれた成蹊の料理。
これからもおおくの埼玉の人たちに愛されていくことでしょう。
さいたま新都心から~ごちそうさまを込めて~



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桃李不言下自成蹊 さいたま新都心 本格四川料理 成蹊 前編

2023-11-27 20:04:21 | 食べることは生きること

勤労感謝の日にお休みをいただき、さいたま新都心までで出かけました。目的は応援しているアーティストのコンサートとその前に中華料理のコースをいただくことでした。普段食品販売流通業に従事していますが、近年では業務も様変わりし、デジタル化も推進され、多くの新しい知識を得ることが求められます。会社の業務の一環として、
外食の食レポをしてみなさいということになりました。自分で調べ、興味を持ち、実際に食べた感想を伝える。ただ今まで通り日々の業務だけをこなしていたのでは生き残れない時代です。こう言った取り組みを『面倒だ』と思う人もいれば、『楽しみだ』と思う人もいるでしょう。私は後者です。
東京の有名店に是非行ってみなさいとのことでしたが、 映画『翔んで埼玉Ⅱ・琵琶湖より愛をこめて』公開で賑わうさいたま新都心の本格四川料理の店『成蹊』を予約しました。SNS全盛の時代からでしょうか、外食に関する情報はあふれていて口コミはもちろん多くの評価がネット上に記されています。ただ本当に行って食べてみることが一番です。『百聞は一見に如かず』とは昔から言われていることです。新都心駅から徒歩5分。さいたまスーパーアリーナを見ながらけやき通りを真っすぐ降りた先にあります。周囲はマンション街で普段は地元の人が多いといいます。当日はコンサートに加え、多くのイベントがあったためか私たちのように他所から来たお客さんが多かっようです。
店内のBGMは中華風にアレンジされた日本のメジャー曲が流れます。『川の流れのように』『世界に一つだけの花』など非常に心地よい雰囲気を味わえます。
ひとことことわってから店内の撮影もさせていただきました。
『成蹊』とは中国の故事に由来する言葉で日本でも成蹊大学を始め、その精神を受け継ごうと多くの店や学校がその名を冠しています。
李不言下自成蹊
当日の予算は1万円です。祝日ですので平日とは異なるコース内容です。「東方美人ランチコース」一人3500円でした。客席15席ほどでしょうか、7割方は予約のようで、4,5席が当日のお客さんが座っている感じです。
店舗のHPがありますが予約は電話での対応です。実際のところすべてネットで完結よりも電話で予約を取るほうが何となく私は安心感がありました。年齢のせいかあまり便利すぎるのがかえって苦手なようです。

食前酒ではなく烏龍茶をお願いしました。この後大事な予定が入っているため(普段からほとんどお酒飲みませんが)アルコールなしで乾杯です。
(後編へ続く)
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古河市 富士山浅間神社

2023-11-20 21:28:23 | 麻久良我乃許我の里

古河市総合公園には小高い塚があって、その上に浅間神社が建っています。古河のパワースポットとなど名所地にしようとする活動も行われているようです。

境内の由緒書きがありますので読んでみました。

室町時代末期に角行という人が世の中の乱れに苦しみ、富士山に登り天下泰平五穀豊穣の祈願をしたところ天下が治まったことから富士信仰が起こります。東講の大先達である南沢正兵衛という人が江戸にこの富士信仰を広く布教しました。
鴻巣の冨士塚は模造の富士山で文政四年ごろ(1831)の構造と考えられています。鴻巣村の小森谷家広く浄財を募り富士浅間神社を勧請します。東講は富士山信仰の集団、いわゆる富士講の一つ。富士山信仰は室町時代末期ごろに起こり江戸時代中期には非常に盛んになった。それに伴い江戸をはじめとして富士講があちこちで結成され、江戸近郊の冨士塚は50有余を数えます。しかしながら今に伝わる塚は少ない。この冨士塚は高さ6M直径30M塚は一から十合目まであり原型がよく保存されている。原型保存が状態が良好な冨士塚は関東に少ない。
紫峰筑波山も近く、平地ながら山岳信仰が深かったことが伺える下総の南端古河市。
城下町に残る冨士塚は今なお霊験あらたかにそびえているようだ。
(平成29年登拝)

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防災体験学習~災害時中学生は避難所で何ができるか

2023-11-20 20:19:36 | 生涯学習

地元中学校にて家庭教育セミナーに参加しました。防災教育体験学習として行われ、テーマは「災害時に中学生は避難所で何ができるか」令和元年10月の台風の際、ここ忍中学校も避難所として開設されたことがあります。私はPTAの役員として参加しました。
主催は地元自治会も合同ということになり多くの参加者が集いました。
実際の中学校での避難所開設を想定して、全体の指揮運営は校長先生が行ってくださいました。防災の専門職の方を招聘せず、校長先生ご自身が工夫して指導する素晴らしい中学校です。
教育目標は「自ら学びともに鍛え未来を拓く」私が中学生時代から変わらぬ校訓「自治・共同・勤勉」の精神が脈々と受け継がれています。
取り組みの一つとして段ボールベットの作成です。令和元年の台風避難の際私も地元小学校へ家族と避難しました。一晩学校で過ごす際には毛布の配布がありましたが、床で横にならざるを得ず、非常につらい時間であった記憶があります。段ボール箱の中に「補強板」を入れ強度を増し、6個並べてひもで固定します。段ボールの上にブルーシートをかけ毛布を敷くと弾力と保温性が向上し、とても寝心地の良いものができました。
中学生の班は皆で寝転がってしまいます。取り組みの二つ目は非常食の調理です。アルファー米と呼ばれる乾燥米を水でもどして食べます。味を付けるためわかめご飯にしたり、ストーブで沸かしたやかんのお湯からも作ります。非常食というと缶詰や乾パンというイメージがありますが、水が確保できればこうしてごはん類も作成できることを知りました。5㎏のアルファー米に対して8Lの水(お湯)を加え約50人前のわかめご飯ができます。
出来上がったわかめご飯は塩気もあり十分おいしく食べることができました。
中学校の体育館で行われた今回の防災体験学習で最も強く感じたことは、世代間交流の大切さです。普段同じ地区で生活していても小中学校と地元住人との交流は非常に少ないのが現実です。一方公民館活動などを通じ、地元の高齢者の方は同世代で活発に生活していることがわかります。災害時に一緒になれば協力して助け合うことは勿論、こうした普段の生活でこそ交流の場を持つことが大事なのではないかと感じました。終了時の挨拶では自治会の方から、非常に楽しかった、中学生と一緒にできて本当に良かったとの声を頂きました。残念ながら共同で声をかけたPTAからの参加者ほとんどなく役員である私を除いてほとんどいらっしゃいませんでした。
このあたりに今の日本の閉塞感、もどかしさを覚えます。極端に少なくなった子供世代、子育てにや仕事に追われる現役世代、活力はあるが活躍の場を求めている高齢者世代。
「縦の糸、横の糸、織りなす布はいつか誰かを温めうるかもしれない」
こうしたことに多くの人が気づいてほしいと願います。
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黒浜式土器と縄文時代の生活~蓮田市文化財展示館

2023-11-16 22:00:36 | 歴史探訪

今から1万6000年前氷河期が終わって地球が温暖化します。日本列島では針葉樹の森が北に退き、北日本では落葉広葉樹林、西日本では常緑広葉樹の森が広がる世界へと変わりました。
特に落葉広葉樹の森には食べ物が豊富で、木の実の多くを食用として採取したといいます。栗やドングリなど食べるには灰汁抜きが必要でしたので、そのための土器が縄文土器として発達したのです。
気候の温暖化にともなう雨量の増加や海水面の上昇で陸から土砂が流れ込み、遠浅の海岸をつくることでそこに生息する貝類や回遊魚も食材に加わり食生活の大幅に進化したといいます。海面の上昇のことを「縄文海進」といい、東京湾は現在の埼玉内陸部まで進出していたことがわかっています。


黒浜貝塚は関東地方を中心とした縄文時代前期中葉「黒浜式土器」の標式遺跡として昭和50年に埼玉県指定史跡となって以降、発掘調査が進み、平成18年年には縄文時代前期の集落にともなって形成された貝塚として、また南関東自然環境の変遷や当時の生業を考える上で重要であるとともに環状集落の構造をなし、集落の変遷を考える上でも貴重」として国指定史跡となっています。展示の黒浜式土器は5500年ほど前のものと考えらえrていて、地紋の斜め方向の線が強調された美しい模様を見ることができます。
海の恵みと山の幸。ともに得られた穏やかな気候の中で、煮炊きに用いる土器が発達し、程よく定住生活を送れた縄文時代。そうした当時の様子を知ることができる貴重な資料館です。
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