北本市は慶長七年(1602)鴻巣宿に宿駅が移るまでは中仙道筋の宿場であった。江戸時代の元宿村は宿場の中心で、この天神さまが鎮守として祀られてきた歴史があるという。
元宿村の名主は「機屋(はたや)」の屋号を持つ岡野家で、二十五代を越える旧家で当初氏神として稲荷社を祀っていたが、寛文二年(1662)領地安全と五穀豊穣を願って京都の北野天神社の分霊を勧請したのが起源という。だから元宿村の鎮守であると同時に、岡野家の氏神であった。
江戸時代には当社東南に隣接する多聞院持ちとして寺の管理を受けていた。多聞院は多聞律師が文永年間(1264ー75)に創立した真言宗の寺院で本尊は毘沙門天である。
明治維新後神仏分離によって寺院の管理を離れ、明治六年に村社となる、現在参道の入り口には『旧一級社』という立派な石碑喪建てられている。また参道の脇には北本英霊記念碑が建っており、戦後もこの地が北本の中心であったことを物語っている。
学問の神としての信仰厚く、拝殿前にの絵馬には学業成就の願いがい多く寄せられている。また明治二十四年奉納の関流算法の算額は北本市の有形民俗文化財となっている。
例祭は菅公の命日である二月二十五日。三月二十五日の春祈祷は悪魔払いの行事として玉敷神社から借りてきたお獅子様と多聞時から借りてきた大般若経を拝殿に安置して氏子を迎える。
当社の境内のある中仙道東側の一角は徳道と称する地域でこの地名は江戸期以前あった永蓮寺というお寺の参道であったことに由来する。都市開発工事の結果住居表示も変更となって現在中央、東間、北本、本宿、中丸といった表記になったが、かつての中仙道沿いには多くの宿がたち、祖の名残を留めていたという。『質屋』『三軒茶屋』『鍛冶屋』『立場』などの屋号が近年まで残っていた。
尚、『三軒茶屋』とはお茶屋が三件ならんだのではなく、お茶屋が一軒、菓子屋が一軒、酒屋が一軒並んでいたことに由来する。(世田谷では三軒の茶屋が並んでいたそうです)ちょうどその辺りが草鞋を変える地点であって、たいそう栄えたことが伝えられる。
北本宿の名主は先述の岡野家であるが、明治十四年、岡野英蔵は実業家を志したものの、関東大震災の荒廃に直面し、宗教家を目指す。
独自の修行を重ねて昭和四年には解脱するにいたり、『解脱会』を創設した。
解脱会は『在家宗教』『超宗派』を掲げた新興宗教で、東京はもちろん海外にも支部を有している。
現在でも岡野家の菩提寺である多聞院や氏神である本宿天神社を大切にしていて、まさしく宗派を越えてその教えを広めている。