国道17号を熊谷市中心部へと向かい、駅前通りの陸橋の手前500mほどのところに伊奈利神社が鎮座する。市街地の一角で信号の脇にある鳥居とも看板ともいえる門が目印だ。地元の人々には『稲荷木伊奈利(とおかっきいなり)』とよばれているという。
また社殿の篇額には『白髭伊奈利』とありまるで熊谷市街地への導きの神のような佇まいをしている。
ただし御祭神は倉稲魂神(うかのみたまのかみ)の一柱であり、『稲荷木』の言葉の意味についても詳しくは不明であるという。
神名帳によれば創建は文明十八年(1486)と古く宝永元年(1704年)の洪水によって社殿を流出している。
明治なって無各社となり、昭和19年に村社となるものの、翌年の熊谷大空襲によって町もろとも全焼したという。
戦後の復興によって目覚ましく発展した熊谷市の中心部のお社として、昭和二十年代から社務所、本殿と再建を果たし昭和47年鳥居も再建され現在に至るという。
場所柄、交通安全、商売繁盛の神として信仰を集め、氏子だけに限らず花柳界からも『袖引き稲荷』とよばれ信仰された。
当初は初午の日を御例祭日としたが後に三月の春祭りと九月の秋祭りに特化していったという。
今でこそく熊谷駅前を中心に新幹線の通る『埼北の雄』熊谷市であるが、終戦時に受けた空襲により、町全体が焼け野はらとなったことは近現代史において特筆すべき事柄である。熊谷の復興は戦後日本の復興のまさに象徴的歴史であって、北埼玉における苦難を乗り越えた人々の魂の歴史である。
かつてこの地は利根川水系の湿地帯であり、一面の萱原が広がっていたという。中仙道熊谷宿から離れたところであり、人家揉まばらであった。当時通っていた道は行田街道とか忍街道とよばれた小道であって周囲は昼なお暗い鬱蒼とした狐狸の住みかであった。
ところが昭和七年国道17号が開通し状況が一変する。行田街道は立派な幹線道路となりその両側に家並みができていったという。これは戦前の内務省による不況対策の一貫として行われたもので、当時国道17号に柳が立ち並んでいたことから、東京の銀座の柳並木にみたてて
熊谷銀座と名付けたという。当初銀座と呼ぶにはほど遠い町並みであっものの、戦後の復興によって銀座の名にふさわしい町となっている。
毎年七月のうちわ祭りには銀座区として屋台と御輿をだし、大いに賑わいを見せている。
本年二月より縁あってこの地に勤務することとなり、銀座の氏子として熊谷の町にお世話になっている。
『北埼玉の雄』熊谷市に恥じない仕事をしたいと切に願っている。