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国道16号線見沼区丸ヶ崎交差点には多聞院というお寺があり、かつては氷川神社(丸ヶ崎)の持ち寺でありました。神仏分離政策により、神社は寺からはなれ、明治四十年以降、政府の合祀政策により、無格社の村社への合祀が進められます。合祀後も祟りが起こったり、信仰が厚かったりなどの理由で、社や祠としてその地に残された神社も数多くあります。
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その一つが子鱠神社です。鳥居がなく祠として残っています。
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弁天様として小さく祀られており、次のような逸話が残っています。
永仁の頃、(1293-99)辻谷の里にお寅という美しい娘がいて、近郷にはお寅を慕う者がたいへん多かった。その思いに挟まれて苦しんだお寅はついに「自分を望んだ男たちに自分の身体を料理して食べさせ、その希望を満たしてもらいたい」との遺言を残して命を絶った。親は娘の気持ちを哀れに思い、遺言通りに男たちを招き、お寅の股肉を鱠にして食べさせた。その後事の次第を知った村の男たちが供養搭として建立したのが、寅御石として残り、お寅の霊を祀ったのが子鱠神社と言われています。
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推測でしかありませんが、天災や村の争いを鎮めるのに人柱が立つという伝承は各地に残っているように思います。お寅はどうして犠牲になることを選んだのか。村のいさかいを鎮めるのに若い命が犠牲になり、それをもって村がまとまったというような哀しい歴史があるのかもしれません。合祀という時の権力にたいする、村の抵抗もあった事でしょう。
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武蔵の国の大動脈と呼ばれる国道脇には、今もこうした祠が今も静かに立っています。