皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

落合門樋

2021-04-29 22:23:24 | 郷土散策

旧騎西町外田ケ谷は騎西町の西端に位置し、行田市関根、加須市阿良川、川里町(鴻巣市)北根と接する市境の村であり、この落合門樋か北へ500Mの地点には三国橋という名の橋もかかるという。こうした行政区画の端区域は昔の面影を残す史跡が多く残り、開発の遅れよりも歴史の発見がありとても興味深い。

大正期までは星川落合橋付近には落合橋という見沼通船会社がおかれていたという。

「落合」とはそもそも川と川との合流地点をいうそうだ。落合門樋は見沼大用水(星川)とそれに合流する悪水路(古川落)との合流地点であった。古川落の上流は会の川の改修した跡であり昭和初期に大改修され彦八郎用水へと変貌している

明治三十六年(1903)に建造された落合門樋は大雨の際に見沼大用水から古川落へと水の逆流を防ぐために作られたという。こうした治水に悩む区域において、明治期に煉瓦水門を開設した歴史は私の住む皿尾村も同じである(松原堰・堂前堰)

昭和二十年代まで大田村(行田市小針、関根、真名板)と加須市志多見村の境には阿良川堤と呼ばれる堤防が存在し、古川落から水があふれると、太田村一帯に滞留することとなった。

そこで木造の樋門を煉瓦造りへと改良し外田ケ谷村がその建設を請け負ったそうだ。県の技術指導を受け、県税の補助も受けている。

当時の建設を受け持った技術師に野村武という人物がおり、野村氏は北埼玉成田村(熊谷市)で建設した杣殿分水堰も請け負っている。

日露戦争前年にこうした北埼玉においても、土地開発改良工事が盛んで、所謂古き良き時代であったことが伺える。深谷の日本煉瓦製造が稼働したのが明治20年(1887年)のこと。

土地を開き、作を広げ、多くの人々が豊かな明日へと夢を持ったころだろう。

褐色の赤レンガの積み跡が、激動の昭和から平成令和へと続く時の重さを今に伝えている。

 

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明神様のお使い(旧騎西町外田ケ谷)

2021-04-29 20:59:04 | 昔々の物語

鴻巣市、加須市、行田市の三市境を流れる星川。旧騎西町外田ケ谷の西に久伊豆神社が鎮座します。地元ではクイズ社とも呼ばれます。このお社はかつて明神様と呼ばれ『いざと云う時は神様のお使いが現れて村を守ってくれる』という言い伝えが残っています。

明治43年(1910)の夏のこと。大雨のためこの辺りが大洪水となりました。外田ケ谷は周りが堤で囲まれた土地であったため、流れ込んだ水はたちまち村に溢れました。

『このままじゃ田んぼはおろか、家まで流されちまうぞ』

『堤を切りに行こうにも、こう流れが強くちゃ、命の方があぶなかんべ』

そうこうしているうちに、水はどんどん増えてゆき家の押し入れの中にまで水は押し寄せてきました。

そんな時どこからともなく一匹の大蛇が現れて、大水にもまれながらも、頭を出して南の方へと泳いでいくではありませんか。

『もしかして明神様の【お使い】じゃなかんべか』

堤に何度かぶつかると遠くへ消えてゆきました。

すると堤に切れ目ができて、そこから水があふれ出し、村の水はどんどん引いていきました。大蛇の働きで村は大きな被害を受けずに済みました。

 村人は「明神様のお使い」(大蛇)に深く感謝したということです。

「埼玉の神社」にはこの話が明治43年のことで大蛇を見たものが何人もあったと記しています。昔話といえば、新しくとも江戸期の話というイメージを持ちますが、維新後の明治期の話が実際に残っていて、逸話のように実際に伝わっていることに驚いています。

しかもこの話には続きがあって、隣村の道地には泳いでいった大蛇の話の続きがあるのです。

暫くして道地の愛宕様(大正期に稲荷社に合祀)の沼にどうしたわけかこの大蛇が住み着いてしまい、祟りを恐れた村人たちは毎日酒や米を供えて拝んではやっとのことで沼から出て行ってもらったということです。

久伊豆様のお宮にはその名残を伝える弁財天と渡橋が今でも残っています。

参考引用先 加須インターネット博物館「明神様のお使い」より

 

 

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早く行きたければ一人で進め

2021-04-25 21:23:24 | 心は言葉に包まれて

 名言や格言も昔であれば読書であったり、仕事で先輩や上司に教わったり、あるいは学校で先生から教えてもらうということが多かっただろう。今ではSNSを中心に良い言葉、格言がインターネットにあふれている時代だ。良い言葉は人生良い方向へ導くきっかけになる。

最近では漫画を通して、素敵な言葉、人生を豊かにしてくれる表現を拾うことが多い。

30年前近く前に読んだ『SLAM DUNK』。バスケットバールの人気漫画で安西先生が言った「あきらめたらそこで試合終了だよ」は多くの若者の心を動かした。私は野球少年であったけれど、この漫画でバスケットも大好きになったし、単純なその一言で何度も苦しい思いを乗り越えることができたと思っている。

近年好んで読んでいる連載漫画で、アフリカの諺を知った。調べると著名人でも好んで発信している人もいて、やはり格言は多くの人の心を動かすのだと感心した。

『早く行きたければ一人で進め。遠くまで行きたければ皆で進め」

文字通り一人だと目的地まで早く着くことができる。ただし一人の限界を超えることはできない。

一方仲間と共に目的地へ向かえば、更に遠くまで行ける可能性もある。

自由と制約、時間と目的、多様性と効率、個人の努力と仲間との信頼。それぞれ相反的に結びつく概念を自分の人生の中で選び生きていかなければならない。

決してどちらが良いということではなく、その時々で自分で選んで進まなければならないと思う。

コロナ禍でこれまでの価値観や常識がひっくり返るような場面も多い。できればこれまでの価値観を早く取り戻したいと思う一方、よりよい社会を見出すためにより遠くへ行ってみるこが必要になっているとも思う。

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鶴ヶ島市 脚折 白髭神社

2021-04-22 22:13:04 | 神社と歴史

入間郡鶴ヶ島市脚折町の白髭神社。日高市の高麗神社を中心として猿田彦を祀る神社がこの地に多くある。

脚折は越辺川支流飯盛川の上流にあり、縄文期から平安にかけての集落跡も確認できる古くから開けた土地柄。

脚折の地名は脛から転じたものでなく、洲峰下りから来たものと考えらるそうで砂地の地形やその坂を示しているのだろう。

近辺を見ても北埼玉に広がるような稲作地域とは言えず、茶畑やその他の畑作に供しているようなところが目立つ。古代から水稲稲作に適さない土地柄だったのであろう。

社記によれば天智天皇の御代、朝鮮半島の戦乱を避け一族と共に渡来した高麗若光王(こまじゃっこうおう)は霊亀二年(716年)西武蔵野を賜り、高麗郡を設けて東国七か村に居住する高麗郡の人々千八百名近くを集めた。若光王は導きの神である猿田彦命と竹内宿禰を白髭大明神として郡中央に祀り一族の繁栄を図ったと伝わる。当社も其のうちの一社という。

本殿に掲げられる扁額は海軍大将東郷平八郎の揮毫である。

戦前までほぼ農業地帯であったものの、近くに関越自動車道インターができ、近年になって圏央道の開通とともに一層の宅地化がすすめられている。

脚折の白髭神社で最も有名な祭事が雨乞い神事である。

雷電様が飛び地に祀られ、近くに雷電池が残る。昔は広く大きな池で池の主である大蛇が住んでいたという。

ところが江戸期になって寛永のころ干拓されて池が小さくなり大蛇は板倉の雷電様に引っ越してしまい、以来この地で雨乞いしても雨が降らなくなったという。

このため雨乞いの際には上州板倉まで行ってお水をもらい受け、大蛇を作って池に入れたところ雨に恵まれたという。

現在では四年に一度盛大な雨乞い神事として国指定無形文化財に指定されており、巨大な竜神を担いで池に入るというが、昨年は残念ながらコロナウィルス感染拡大のため中止となった。

社殿裏には樹齢九百年を超える大欅が残っており昭和四十年代に上部が折れてしまったが、補修工事を施しその雄大な姿を今日も目にすることができる。

七月一日には「けつあぶり」という神事がある。当日早朝に麦殻を焼いて尻を炙る。これは昔坂上田村麻呂が蝦夷地討伐の折季節外れの雪に兵士が凍えたのを見て村人が暖を取らせたことに由来する。

其の礼としてとして田村麻呂はこの地に害を与えていた大蛇を退治したという。

多くの伝承と祭事が残る脚折の白髭神社。導きの神に誘われるように現在では近隣に多くの企業が進出し、東京近郊のベットタウンとして栄えるようになっている。

 

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鴻巣市天神 生出塚神社

2021-04-22 10:26:16 | 神社と歴史

国道17号を鴻巣方面に走、警察署を過ぎる頃になるとやや渋滞することが多く、町の中心部に近いことが伺われる。地名は大字天神であり、以前から天神様が近くにあろうことを想像していた。

江戸期までは天満宮と称し、菅原道真公を祀ってきたが明治四十年に稲荷社を合祀して、村社となり社号を生出塚神社と改めている。江戸期には地内に満行寺という修験があって祭祀を収めたが、神仏分離により廃寺となっている。

「埼玉の神社」によればこの地は元荒川右岸の大宮台地北端部に当たり、地内に多くの古墳が多く存在することからその名が起こったとされるが、境内に建つ改築記念碑にはさらに生出塚についての古いいわれが記されている。

 日本書紀安閑天皇元年(534年)武蔵国造の乱において、当地の豪族笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と争った同族の笠原小杵(かさはらのおきね)と関連するのではないかと推測している。この小杵を埋葬した古墳が近くにあり小杵塚から生出塚に転じたのではないかという。

 当社に纏わる文献は残っておらず史料の上での裏付けはないが古墳の上に社を祀る事例は多く、その小杵塚が削られたのちに田畑となり、のちに社殿が築かれ天満宮として代々この地に受け継がれてきたと碑文は結んでいる。

古墳の上に社が乗った事例としては行田市埼玉村の前玉神社や加須市樋遣川の御室神社など、由緒ある神社がここ北埼玉の各地に残っている。

鴻巣といえば人形の町として知られている。江戸期に宿場町として栄え、その地場産業として人形作りが盛んであったことは中山道の歴史としてよく知られているが、その鴻巣の雛人形の古形となる土偶天神はこの天満宮に会冷められていたという。

高さ30cmの天神座像は貞享四年(1687)京都五条烏丸通の仏師、左京方眼の孫弟子藤原善國が宿内の人々の依頼で作った旨を記して木片と共に収めていたが、昭和二十四年盗難にあって、行方不明となっている。

文化財保護が叫ばれているが、戦前戦後の混乱期も含め、貴重な資料が様々な理由によって紛失している事例も多い。盗難であることが一層残念なことである。

現在の境内は非常によく整備され、古い石柱の残り境内散策の道標として利用するなど、非常に考えられたつくりをしている。鴻巣市自体は高度成長期に人口が急増し、高崎線の快速列車が停車するなど都内へ向かうベットタウンとして環境も整ったが、かえって氏子氏神の関連系が薄れていまい、古くから伝わる祭祀の形が途切れてしまったともいう。お獅子様は古く騎西の玉敷神社から借り受け無病息災を願ったが、戸数の増加に伴い、高度成長期に継続を断念している。また農耕祭祀として雨乞い神事もなくなる一方、鴻巣夏祭りとして中山道沿いの天王様の際には各町内会からの神輿が盛大に渡御している。

生出塚には埴輪窯跡地があり、埼玉古墳群を始め元荒川流域の古墳に埴輪を提供していたことが知られる。

この地にそうした埴輪製造の優秀な職人集団が存在し、時代が下っても人形師がその技術をつなぎ、現在では花の町として栄えている。

ものづくりのDNAは恒久の歴史と共に受け継がれていくことが現れている素晴らしい神社だと感じている。

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