国道122号バイパス下岩瀬交差点を右に折れ、武州中島紺屋の手前、やや奥まったところに鎮守の杜が隠れています。社記によれば景行天皇の御代、日本武尊が東征の途中この地に陣を敷き、小さな祠を建立し、伊邪那岐命、伊邪那美命を祀ったことに由来します。秩父三社同様、神話の世界のお話です。
時代は下り、神亀三年(726)東征に向かう藤原宇合、高橋安麻呂が戦勝祈願し参拝したとも伝えられます。更に天慶三年(940)平将門の乱に際し、平貞盛はこの地で祈願し、将門鎮圧後、奉賽として社殿を再興している。また承安年間(1171~75)小松内府平重盛は熊野白山権現を勧請します。平重盛はあの平清盛の嫡男で武勇に優れていながら、温厚な人物とされている。浄土往生を願う平重盛ので本地仏に阿弥陀如来を祀っている。重盛の死後、重臣の筑後守貞能は出家し小松寺を造営している。その重盛の遺骨を熊野白山両権現のそばに埋葬し、目印として銀杏の木を植えた。
その脇に小松大明神が建立された。
よって鳥居をくぐって正面の本殿が熊野神社白山神社の合殿、銀杏の木の脇が小松神社の本殿とされている。
また小松と称するところは羽生のほかにも下総、加賀、出羽の国にもあり、それぞれ小松寺が建立され、小松内府の霊を慰めるべく造営されている。
重盛の遺骨が眠るとされる銀杏の木。季節が廻れば、青々とした葉が広がり、かつて落雷によって傷んだとは思えないほどの立派な木だ。新編武蔵風土記稿にも巨木が描かれているという。その昔お乳の出の悪い女がこの木に祈願すると不思議と治ったという。乳銀杏の伝説は全国各地にあるらしい。銀杏の葉の形に由来するという。時代が下っても乳銀杏の信仰は続き、神職が乳銀杏の小枝ともち米をふかして寒さらしにしたものを授与していたという。銀杏は煎じて食後に服用し、もち米の寒さらしは粥に入れて食べるとよいとされた。
小松といふ地名ももとは「駒津」が転じてなったとされ、かつて船運交通の要所であったことがうかがえる。