皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

弥生の終わりに

2022-03-31 16:01:35 | 皿尾城の空の下

今日の皿尾城公園の桜です。いつを以て満開とするかわかりませんが、まだ八分から九分咲きでしょうか。
風が吹いてきましたが、まだ散ってないようです。



何度かブログにも書きましたが、皿尾城公園の桜は50年ほど前の食植樹事業で、当時の自治会青年部の皆さんが植えたと聞いています。私が生まれる少し前のこと。
当時世話してくださった方も、亡くなってしまったかたがほとんどです。




二年前から毎年二本ずつ自分で桜の植樹を始めました。鳥居前の二年桜も逞しくなりました。

休耕田を使った花の育成も始めています。なかなかな追いつかず、現在つくしのさととなっています。

花の里が立派になるまで何年かかるかわかりませんが、何とか世話して行きたいですね。
もう暫く桜の花に囲まれて、浮世離れした皿尾城を愛でる日が続きます。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

皿尾城跡

2022-01-18 18:16:13 | 皿尾城の空の下

永禄四年(1561)三月上杉謙信輝虎は再三忍を攻め皿尾の地に築城し、木戸監物入道玄斎に守らせたが成田氏と通じたため、謙信は怒って城を焼き払うと『北越軍記』にあるが今は外張という地名を残すのみである。
昭和五十四年三月 建立行田ライオンズクラブ
         協賛 新井 福次

忍領行田市内に上杉謙信の築いた城があったことを知るひとは少ない。皿尾の久伊豆大雷神社の裏手にある土塁の名残がわずかに残るだけである。城郭領域は広かったが、いわゆる砦に近い物だったのだろう。『関八州古戦録』『成田記』に『皿尾城』と記してある。
天文二十二年(1553)上杉謙信は五千の大軍で関東に入り、忍城を攻めた。城主成田長泰(16代)は用意周到で、小田原の援軍を待つようにして戦いを避け、上杉も越後へと兵を引いた。

二度目は永禄二年(1559)年のことで謙信の電光石火の焼きうちにより、長久寺遍照院の薬師堂、雷電神社等皆兵火に焼かれたという。
その年謙信は九万の大軍勢を率いいて小田原を攻めたが、関東管領就任の祝いのれ列に置いて成田長泰のみが馬上の上から対面に望み、謙信が激怒したことは、複数の軍記に記されており、成田と上杉の関係を非常によく伝える記述である。
関東の国衆の有力者として、越後上杉の支配下には入らないという意思表示である。
関東の諸侯はこれにならい、それぞれ居城に引き上げており、上杉も越後へ戻る際、皿尾付近に砦を築き、成田を急襲したという。
大沢俊吉先生の行田史跡物語によればこのとき皿尾城を守っていたのは羽生城主木戸玄斎とされているが、近年の研究において、当時皿尾城に入ったのはその父木戸伊豆守忠朝とされている。また攻め入ったのは皿尾城方ではなく、成田の方でその急襲を聞き付けて援軍に岩槻城太田資正が駆けつけたとあるが(成田記)、おそらく助けに入ったのは木戸忠朝の兄、羽生城城主広田直繁であったと考えられている。


いずれにせよ忍城のわずかばかりの距離に、上杉謙信の勢力下の城(砦)が築かれて、成田軍と戦ったことは史実である。
上杉にとってこの地を征し、関東の覇権を握れたならば戦国の歴史も変わっていたはずであろう。
今はただ夕日に照らされる美しい田園の風景が残されるだけである。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

皿尾城のこれからは

2018-01-11 22:08:07 | 皿尾城の空の下

 昨年末に始まった中世城郭跡としての皿尾城遺構調査。今日四日目を迎え、おおよその発掘調査が終わりました。高鳥邦仁先生の著書「歴史周訪ヒストリア」に取り上げていただき、羽生城の出城として忍城と争い、幾度となく成田氏を退けた皿尾城。その物語に触れ、当地に住む世襲の神職として、夢中で市の文化財保護課の中島先生にお願いし、教育委員会審議会の議題にも取り上げていただき、こうして調査していただくことができました。

皿尾地区は治水が悪く地盤も柔らかいため、前の日に掘った場所はかなり浸水しています。
また神社裏手の堀と考えられる場所はかなり地盤が緩く、掘ってすぐに崩れてしまうようです。

堀の継続性など時間をかけて調査していただきました。結論につては述べられませんが、史跡としての調査をこちらからの提案で行田市にしていただいたことに本当に感謝しています。そして氏子の方はもとより今日まで地域を守ってきた先人に対して。何よりこうしたことに気づかせていただいた高鳥先生や、富田勝治先生に心から感謝しています。

神社裏手の土塁跡として見られる部分も、平城としての土塁としてよりむしろ神社境内整備の際利根川方面からの洪水を防ぐため積んだとみるほうが自然かもしれません。但し村の北端、忍城の戌亥鬼門として神社が重要な場所であったことは間違えありません。
今日までの調査結果は後日まとめていただけるそうですが、いずれにしても私がこの地の神職として郷土の歴史を伝え、祭祀を次の世代に継承すべく努力すべきことに変わりはありません。意外なところに歴史は眠っている。その息吹に触れたとき人は心動かされる。
 皿尾城のこれからを守り伝えること。それが私に課せられた使命だと心に刻んでいます。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

皿尾城の歴史⓸

2017-06-26 21:38:49 | 皿尾城の空の下

【久伊豆大雷神社裏手=皿尾城土塁跡か】
皿尾城川田谷忠朝の援軍に駆け付けたのは、岩付城主太田資正でした。太田資正は上杉謙信からの信任も厚く、武勇に秀でた武将であったといわれています。ある歴史講座にて、太田資正は真田昌幸のような知略家であったと聞いたことがあります。
『成田記』巻三『皿尾砦』の項の続きでは「太田が軍勢真知近く迫り鯨波を揚げて馳せ来れば、寄せ手の勢大に驚き、(略)忍の勢ハ度ヲ失ひ崩れ立て敗大将長泰城に引事能ずして西を指して逃退き(略)其夜は荒川二陣を据、翌備を全うして大宮口より入城しけり」と表記されています。成田長泰にとって
屈辱的な敗戦であったことが読み取れます。
その後永禄12年(1569)越相同盟によって皿尾城の木戸氏による支配は終わります。羽生城主広直繁が館林城を拝領し弟、木戸(川田谷)忠朝が羽生城主となったからです。あくまで当時の政治的策略によって皿尾城は上杉の勢力下から離れることになるのです。
その後皿尾城が歴史の舞台に登場することはありませんでした。上杉に最後まで忠義を尽くした木戸氏ともに、消えゆく運命にあったのかもしれません。

歴史書においてここ皿尾城において忍勢と羽生勢が争ったことは伝えられています。
遥か時を超えその時代に生きた人々の息遣いが聞こえてくるようです。
皿尾城の空の下、今日もゆたかな緑が大地に広がっています。
参考文献 高鳥 邦仁『歴史周訪ヒストリア』(まつやま書房)
     行田市史 資料編 古代中世
       同  別冊 『成田記』
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

皿尾城の歴史③

2017-06-21 21:47:59 | 皿尾城の空の下

『成田記』によれば皿尾城は上杉謙信が築いた砦とされます。しかしこの地の久伊豆大雷神社が成田氏により鎌倉初期に勧請されたことを踏まえれば、成田氏による小規模の軍事的拠点が存在したと推測されます。郷土史家の富田勝治先生が作成した「皿尾城址図」によれば堀跡と思しきものが残っています。私が小学校低学年(昭和56年頃)まで神社西側には自然の水路がありました。また神社前後には自然要塞として水田が広がっています。


また神社裏手は明らかに土塁と呼ぶような土の盛り方です。現在社殿を囲むように土塁が残り、杉の木が茂っています。

皿尾城における忍城成田氏と上杉家方の武将が戦った記録が『上杉家文書』に残されています。河田谷忠朝という武将が上杉家の家臣に宛てた書状です。
 
  於当口両度得勝利候之上、弥以成田押詰可申候、此等之旨、可預御披露候


 六月二日付の書状で年号は永禄五年(1562年)と考えられています。
 河田谷忠朝とは羽生城主広田直繁の弟に当たり、後に木戸姓を名乗り兄の後を受けて羽生城主になる人物です。
当時皿尾城にいた河田谷忠朝はこの書状書状の中で、当口(=皿尾城)において二度の合戦に勝利し、いよいよ成田を追い詰めていくのでこの旨を謙信公に伝えてほしいとつづっています。
実はこうした皿尾城における攻防戦を記した資料は多いそうで、『成田記』、『鎌倉九代後記』『北越太平記』などにも記述があるそうです。それぞれが情報が錯綜し、内容が異なっているといいます。

『成田記』巻三『謙信騎西城攻併皿尾砦築事』の項の中でその戦いぶりを読むことができます。
上杉謙信は騎西城を攻めたたあと忍城に軍勢を差し向け、木戸伊豆入道らを守として置いた。謙信が武蔵国から一旦引き上げた後、忍城成田長泰は反撃します。(成田目の前に砦を築かれ安からず思ければ、速やかに踏み潰せと人数押し出し)成田側の兵力の違いからくる、勝って当然の思惑が読み取れます。
 「木戸父子精根限り死力を奮い防ぎと言え共、忍の大軍無二無三攻め近づき堀も柵も引き倒さんとするところ

助けに現れた武将がいました。岩槻城主、太田資正です。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする