イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

御地蔵様の気分で!

2008-06-25 | 第七章「光と復活体」

 昨日、近くの高幡不動尊により、あじさいを見た。写真は赤いちゃんちゃんこを着たお地蔵様とその上に咲いていた白いあじさいである。本堂近くの色ずいたあじさいのそばには、沢山のアマチュア写真家がいたが、奥の山の方は色づきもまだまだなのか、あるいは五重塔など見栄えする被写体がないのかひっそりしていた。

 御地蔵様は、村のはずれなど、ちょっとしたところにいらっしゃることが多い。ちょっとした花が手向けてあったり、一円玉のお賽銭が置かれたりする。わたしはそんな御地蔵様が好きである。

 おそらく、大昔から、こうしたちょっとしたところに御像があったのだろう。人間にとって像は不思議な存在である。今日出会った御地蔵様、数年前に出会った同じ御地蔵様、自分は変わっても、お地蔵様の本質は時間を越えているようにも見える。

 自分の心と身体は、時間軸の中で、さまざまに変化していく。感情の世界も悲しみあり、悔しさあり、楽しさあり、喜びあり・・・。この中で、もし自分に魂があり、それが、病むことのなく、老いることもなく、永遠不変のもので、愛そのもの、臨終のとき、身体から離脱する知的生命体と考えてみるとどうか。御地蔵様ではなく、自分のうちに魂を考えてみるのだ。

 そして、気になる他人の中にも、同じような魂が存在すると考えるとどうか。魂の声は身体やこころ(成育史)をとおして伝言ゲームのように変わり、実際の声は判りにくくなっていても、どこかにその面影があると考えてみる。

 暗い感情(不安、怒り、鬱、錯乱・・・)を明るい感情(平安、友好的感情、健康感、幸福感、統御感・・・)に変化させる基本は、どのように思考(考え方)するかである。日々の思考の中に魂の考え方を追加してみると、どうだろうか。

 何でも考え方一つである。考え方一つが間違うと悲惨な結果を産みだす。幸福を産みだす考え方が大事だと思う。

<光2/4>

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青い照明を思索する!

2008-06-24 | 第七章「光と復活体」

 学生のころ、教科書の宮沢賢治の「永訣の朝」に感激し、その詩集「春と修羅」の文庫本を購入して読んだ。その最初の序。なんという不可解極まる詩だと思った。ちょっと長いが著作権の問題がないこともあり、全文引用してみる。

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わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鉱質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
 みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケツチです

これらについて人や銀河や修羅や海胆は
宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
 みんなのおのおののなかのすべてですから)

けれどもこれら新生代沖積世の
巨大に明るい時間の集積のなかで
正しくうつされた筈のこれらのことばが
わづかその一点にも均しい明暗のうちに
  (あるいは修羅の十億年)
すでにはやくもその組立や質を変じ
しかもわたくしも印刷者も
それを変らないとして感ずることは
傾向としてはあり得ます
けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
記録や歴史 あるいは地史といふものも
それのいろいろの資料といつしよに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません
おそらくこれから二千年もたつたころは
それ相当のちがつた地質学が流用され
相当した証拠もまた次次過去から現出し
みんなは二千年ぐらゐ前には
青ぞらいつぱいの無色な孔雀が居たとおもひ
新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層
きらびやかな氷窒素のあたりから
すてきな化石を発掘したり
あるいは白堊紀砂岩の層面に
透明な人類の巨大な足跡を
発見するかもしれません

すべてこれらの命題は
心象や時間それ自身の性質として
第四次延長のなかで主張されます

 大正十三年一月廿日
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因果交流電燈のひとつの青い照明

私が幼いころ不思議に思ったことがある。夜寝るとき、眼をつぶっていると見えてくる不思議な光(内部閃光と言うらしい)である。その光の動きを見つつ、眠っていった。

光、魂、聖霊、無・・・

様々なことが雑然と浮かんでくる。宮沢賢治は熱心な仏教徒であったそうだ。今日はじっくり味わってみたい。

尚、この詩が書かれた大正十三年、私の曾祖父が亡くなり、亡き父が生まれた年でもある。

<光1/4>

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クラスメイト・ドット・コムに登録する日!

2008-06-23 | 第七章「光と復活体」

 親密な関係が突然崩壊し悲しい経験をすると、無意識のうちに親しい関係を避ける傾向になることがある。そんなことを「生き甲斐の心理学」で学んだ。

 自分では、こうした傾向はないのではと思っていたが、思考・感情・行動をいろいろ考えていると、ふと不思議な傾向があることに気づいた。ある言葉に異常に不安になる。ある行動をとろうとすると、やたらと防衛機制が働く。などなど。既に問題は決着していると、意識の上では気にしていないつもりが、どこか変なのである。

 辛い経験は、人間のこころを岩のように固くする。

 自分のこころの岩に遭遇したときは、自分のこころの底にある愛そのものの魂を信じ、辛かった日々の自分自身を優しく受け入れよう。こうした自問自答の中で、時に熱い感情が噴き出す。

 話は変わるが、クラスメイト・ドット・コムなるものを発見した。7歳の時に、アラスカで1年弱いた小学校のサイトに登録してみた。クラスメイトの再会促進サイトである。50年前の私を覚えてくれる人がいて連絡がとれれば嬉しい限りである。

 特に、優しかった担任の先生、近所のBさん・・・どうしているかな?この世で会わないであの世で会うのもいいかもしれないけど。

 ふと思ったが、辛い経験もこの世の中のこと。あの世、天国ではお互いに許しあい、笑い話になるのかもしれない。

<岩4/4>

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爽やかな雨の日曜日!

2008-06-22 | 第七章「光と復活体」

 自分の日々の感情の流れを注視していると、何と暗い感情が多いのだろうと思う。明るい感情もあるが、やはり暗い感情が多い。特に仕事をしていると、期限や成果への期待等もあり、暗くなることが多い。仕事自体がだいたい理想と現実の差そのものであり、人によるがストレスになりやすいのだろう。

 暗い感情は人間の本質と「生き甲斐の心理学」で学んだが、それを聴いてほっとしたものだ。勿論、暗い感情をより明るくすることは大切ではあるが・・・

 さて、十年以上とても気がかりであったことで、昨日一つの区切りを迎えたことがあった。長女のことである。個性が強く思春期の頃からいろいろ心配していたが、この一年で仕事と家庭という面で大きく飛躍したのだ。先のことは自分のことすら判らない私だが、ほっとしているのも事実である。

 私は安定したサラリーマンの人生を送るという選択を5年前捨ててしまったが、娘のことを考えると辞めた方がよかったように思う。

 他人を変えるというのは不可能に近い。それより、自分を変えることの方が実りは多い。自分が変わる中で、他人に不思議な影響を与えることもあるようだ。

 今日は雨の日曜日であるが、爽やかである。

<岩3/4>

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あわて癖を考える!

2008-06-21 | 第七章「光と復活体」

 5年前にサラリーマンを辞めてから、全く未経験の分野で仕事をすることが多くなった。キャリアを無視して新しい仕事をすることは、全くの新人を経験することでもある。

 教育機関で勉強し、資格をとっても、現場の仕事は厳しい。若い先輩にいろいろ叱られたりする。ただ、継続は力であり、3か月、半年、そして一年と仕事をしていけばそれなりに慣れていくことを覚えた。

 ある時、新しい仕事をする中で、自分はあわてものであることに気がついた。どういうわけか、ある環境の中で、慌てグセが炸裂する。

 小学校の時通信簿に、「早飲み込みなので注意するよう・・・」と書かれたことがあったが、気が急くといろいろ慌て失敗することが昔からあった。感情・思考・行動がある状況下でおかしくなるのだ。

 自分の成育史を振り返ってみると、錯乱の原型があることに気づく。3-4歳のころ、私が寝ている間に母が妹を連れて隣の祖母の家に行き、その合間に目覚め、大慌てするという経験である。それだけではないと思うが、自分の慌てグセは幼いころの経験に原因があるのだろう。

 錯乱感があっても、その感情を冷静に観察し、付和雷同することのない岩のような人間になりたいものである。

<岩2/4>

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