記憶というのは不思議なもので、何か脈絡がない形で、ある思いでが蘇ってくる。
今日は、何故か高校生の時に、卒業生として講演で来られた小説家の柏原兵三氏のことを思い出した。飄々として来場され、小説家とはこういう方なのかと、妙に感激した(古びた、皮のカバンを持たれて登場されたことを、何故か印象に残っている)ことを思い出した。
氏は、若くして亡くなり、私もその後、全く小説と接点のないサラリーマン生活の中で忘れてしまっていた。
氏が講演で話したことは、細かなことは忘れたが、小説の推敲の話を随分された。二三日、文章を寝かせて、後で推敲するとか・・・かなり怪しい40年くらい前の記憶であるが、そんな話を不思議にも覚えている。
文章を「あたためる」・・・企画をあたためる・・・どちらかと言うと、物理的なものとも言えないものをあたためる。英語でいうとケアするかな。手間をかける、良いなと思う。
こうした、「あたためる」ということは、自分の生活の中に、最近は良く出てくるようだ。ボランティ活動、家族との交流、ブログ・・・
ブログの文章も、写真ももっと「あたためたい」。あるいは、本当に大事なことを(例えば、生き甲斐の心理学の論文作成)もっとあたためたい。・・・そう思うが、短い人生、時間があっというまに過ぎ去り、思うように行かない。
丹精をこめて、「あたためる」と何か自分とは別に、その対象から湧きあがるかのようなものを感じることがある。柏原兵三氏が、時間をかけて若い高校生を前に語りたかったこと。小説書きのテクニックだけではなかったのだなと、今感じている。
<愛と行動 4/4>
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