夏目漱石の三四郎を49年ぶりに読んでいるが、とても新鮮に読ませていただいている。40年以上の馬齢を積んだこともあるが、生き甲斐の心理学を勉強したことも大きいと思う。
新鮮だった一つに、三四郎の自己表現のへたさというか・・・そういう問題に、自分の生育史を重ねたことがある。自己表現はプロセススケールの一つであり、こころの状態を調べる大切な指標だ。私もこころが伸び伸びとせず萎縮している場合、例えば楽しい語らいの場で、何か考えすぎるというのだろうか、本来はポンポンと軽快にボールのやりとりをする会話が、何か重く停滞し言わなくてはいけない時に言い損ね、とんでもない時に場が変わるような発言をしてしまうこともあった。人前であがるということも、そうかもしれない。
感情・思考・行動の三者が一体になり自己表現は快適に回るのだと思うが、どこかがずれると滞る。あらぬ方向の感情、浮ついた思考、ちぐはぐな行動、そしてへんになる。
今朝、U先生のブログに自己表現と疑惑・恥辱感の関係が書かれていて実に納得したが、三四郎の汽車で出会った女や好きな美禰子さんへの態度など自己表現との関係は教科書通りかもしれない。疑惑・恥辱感の問題についてエリクソンは、意志力や自律性の大事さを示唆するが、本当だと思う。名古屋で女から「度胸のない方ね」と言われないように、覚悟を決めるときには決めるのが大人なのだろう(後半、三四郎も覚悟を決めて美禰子さんに会いにいくのだが)。
暗い解釈は何故よくない 10/10