心理学とか哲学はいいけど、ほんとに役にたつの?このような疑問を投げかける人は多い。私も20年くらい前まではそうだったかもしれない。しかし、今考えると役にたたないのは、役にたつようにしていないという原因があるようだ。生活の中でどう役立てるかという切り口が見つけにくいという問題があるのだろう。
私が出会った「生き甲斐の心理学」は、その点かなり驚異的だ。U先生に教えられたことが大きかった。テキストは147ページに過ぎないが、私は数えきれないくらい読み込んだ。なぜなら、読むたびに発見があり生活に活かせるからだ。切り口は自分の生育史(過去)から事例をもとめ理論を実感することだ。
さて、昨日から縄文時代中期の火炎土器や三内丸山遺跡の六本柱などに思いを巡らせている。多くの人が縄文に興味を何故持つかということでもあるが、そこには真善美があるからなのだろう。
火炎土器の美しさ(縄文は全く使われていない縄文土器なのだが)。その中にはくり返し表現されている文様があり、非対称の部分もあり、何か物語性を感じることができる。深鉢の開口部には4つの山があるが、この山も縄文土器の形式により3つだったり、4つ、5つだったりする。なぜ4つなのかも気にかかる。
縄文時代に数の神秘(追求すると縄文晩期のユークリットのような数学者が誕生するかもしれない)に興味を持つ人がきっといたと私は思ってしまう。
物語は、縄文の文字が伝わっていないのでどんなものだったかははっきりしないが、古今東西の神話や、日本神話などが理解のトリガーになるかもしれない。火炎土器の縄文中期には西アジアではシュメール人が文字を操りはじめ神話などを残している。そこには人の想い・真善美が隠れているのではないだろうか。
私は普遍性を備えている宗教や哲学にとても興味があるが(実際カトリック信徒だが)、そうした宗教や哲学は真善美と繋がりが深いように思えてならない。そして、自分の人生を考えてみても、真善美・・・その時々で偏りはあるが、その真善美をどこかで追い求めてきたように思うし、これからもそうかなと思う。そして、それは物理的な食物ではないが、同じような糧だと思う。
真善美という切り口で、今自分は何を求めているかと意識すると、傾向をしることができるようだ。
写真は大湯遺跡のウッドサークル。
解釈の傾向 9/10