大栗川沿いでのいつもの水鳥ウォッチングを昨日したが、堰のところで4羽の水鳥が仲良く泳いでいた。見ているとその中の一羽が堰になんとなく近づき、あわや落ちるかというタイミングで飛び立った。
それを見た他の水鳥も、「これは面白い」と思ったのか、つぎつぎに堰でのスリルを楽しみつつ飛び立って行った。
こんな風景に出会い・知覚し感動したのも、ちょうど私が間について考えていたからかもしれない。
傾聴では当然ながら大きなテーマだ。どんなタイミングで何を話すか、何をお聴きするか、一方的な、押しつけっぽい傾聴はうまくいかないものだ。
もう一つ、大事な人生でも間は大切だ。例えば私は年末に縄文小説を論文の中で書いたが、いつかこれを本にしたいと考えている。しかし、何時、どんなタイミングで、あるいはどういう風にアレンジして、何のために・・・
機を観て敏という言葉がある。機はさまざまな要素があり、人それぞれにとって機は異なるかもしれない。そして、事前には誰にも正解はわからないものだと思う。そして、それは縄文時代も今も変わらないだろう。機をどのように見るかは、結構神秘的なことのように思う。
しかし、水鳥のように自然体で機をこなしたいものだ。
こころを聴く 6/10