自分のほんとの本音や感情が分かってくることは、支援という領域で大切な働きをするが、それを如何に表現するかということで大難関がある。
私は、7歳の時にアラスカで暮らし、また日本に戻ってきた経験がある。また、学園紛争時代の高校を過ごしてきた経験もある。さらに、社会人になってからも外資系IT企業の経験(関西に住んだ時期もある)、福祉業界、そして現在といろいろな世界にふれた。
そして、つらつら思うのだが、同じ思いをいかに表現するかとなると、同じような一言が、ある領域では受けるのに、別の領域ではひどいねなどと変わることだ。米国ではほめられ、日本では先生に立たされるなどなど。
最近フェイスブックが、イイネボタンを、イイネ、超イイネ、うけるね、すごいね、悲しいね、ひどいねと絵文字付きに変更をしたが、おそらく日本であっても地域により、業界により表現の受け止めかたは大なり小なり異なるだろう。また、多言語の外国であったら、さらに違ったりするだろう。共感という重要なリアクションをどう表現するか。興味のあるところである。
脱線したが、特に、自分の所属する生活文化が変わるとき、あるいは、違う文化の方と交流するときは表現に十分に注意をする必要がある。支援するつもりが、傷つけるという結果を招きかねないからだ。
ただ、さまざまな文化の差(倫理道徳を含む)があっても、人間の想いはある意味共通だと思う。いろな難関はあるものの、それを越えていかに表現するかは大事だ。・・・もちろん表現の仕方の難関はあっても、自分のほんねのつかみ方のほうが大事で、意外に伝わるからだ。ハリウッド映画でも、日本の昔の映画でも、感動を誘う素晴らしい映画は文化を越える何かがある。
困難な人を支援するために 5/10