多摩センターのイルミネーションも復活して2年目。そして、昨日からキリストの誕生を待つ待降節(アドベント)が世界的に始まっている。
3.11の時のクリスマスのころは、節電で街の明かりも控えられ、当然ながら多摩センターのイルミネーションも中止であった。それから2年。街は活気を取り戻しているようだが、積み残している本質的な問題は何が変わったというのだろうか?見えないだけに不安を抱いたままである。
一見華やかな中に、そんな疑問も湧いてくるが、こうしたことは縄文時代の歴史を残す多摩センターでは、昔から当たり前だったかもしれない。
ただ、何かへんな時代にあっても、へんな私であっても、一方的にクリスマスが訪れる。これは、実に不思議で神秘的だという考え方が私は好きだし、実感できる。
愛の孤独という問題がある。孤独を感じる時、生き甲斐の心理学を学んでくると、孤独を三つに分類して考えるようになる。身体の孤独。生育史からなるこころの孤独。そして宗教・哲学の領域の魂の孤独。
今味わっている孤独は、身体の問題か、こころの問題か、魂の問題か。孤独感を感じた時に、一歩進んでこう考えると、何か見えてくることがある。
普段はあまり考えない、罪悪感の問題。冬至を迎えるこの季節は、キリスト教もそうであるが、人が罪悪感を乗り越え、新しく生まれ変わる季節のように思えてならない。死と再生の時なのだろう。
ちなみに、昨日読んでいたユングの文献に、魂を基本的に大事にしていたユングは、患者の中でキリスト教・カトリック信者には、告解(ゆるしの秘蹟)を受けるように勧めていたそうだ。こころの問題でも、魂の領域があり、それをケアすることは人類の歴史くらい長い。
愛を思索する旅① 3/10