人間らしく

日記です

写真は人生の記録ー私の写真行脚(5)・・・

2019年08月31日 06時06分07秒 | 日記

 このところ異常気象続きで、大震災・大災害・大洪水等自然災害が多発している。
日本の変化に富む四季折々の景色も失われつつある。
被災者の生活は難儀を極めるが、ボランティアの活躍も目覚ましい。
彼らの活躍する中で注目したいのは、被災者の捜索は勿論、必死で被災者の写真を探している姿だ。
泥だらけになった写真を丁寧に水洗いしている姿を見るにつけ、写真の持つ意義を痛感している。
写真は生きてきた貴重な記録であり、証でもある。
何気なく扱っている「アルバム」は、人生を集約した記録なのだ。
私にも約20冊余りのアルバムと、蓄積してきた数万枚の画像があり、宝物と云って過言ではない。
被災して初めて気付く写真の大切さだ。写真は生きてきたアカシなのだ。
失って初めてその大切さに気付くものかもしれない。ユメユメ疎かに扱ってはならない。                     



              山 紫 水 明 の 里 に 遊 ぶ



画像処理は楽しいー私の写真行脚(4)・・・

2019年08月30日 05時46分36秒 | 日記

パソコンで最初に撮ったままの原画像を見るのは、不安と楽しみが同居していて楽しい。
先ず駄作は消去し、まずまずの写真だけを残して、画像処理に入る。
画像処理とは「修正」することだ。
トリミングから始め、色調、輝度等順次修正し、作品に仕上げる。
長時間パソコンに向き合うのは目に良くないが、2~3時間没頭することがある。
仕上がった写真を「作品」として保存することとなるが、その数、数万枚に達している。
保存には、幾つかのカテゴリーと日付により、索引できるようにしている。
多分、この時が「至福」の一時なのだろう。
身体が不自由なために、最近は控え目だが、元気を取り戻して、撮影に励みたい。 ≪以下続く≫



                宮 島 の 水 中 花 火






花の美しさに魅せられてー私の写真行脚(3)・・・

2019年08月29日 05時21分32秒 | 日記

 夜露に濡れた「花」に魅せられて、私のカメラ行脚は始まった。
「花」はカメラの向け方が大切だ。背景は暗く、適度なぼかしが花の美しさを際立たせる。
撮る対象は、花から風景へと広がっていった。
作品を見て何かが足りないと思ったので、ニコンの「写真教室」を一年間受講した。
特に、「構図」と狙う対象の配置方法を主として学んだ。
対象を中心に置く撮影はしなくなった。同時に、シンメトリーという前後左右対称形となる撮影方法も学んだ。
佳き作品を作るには、カメラの種類も大切で、普通の35ミリカメラから、望遠と接写ができる一眼レフにした。
目にする光景をどのように収めるか、指でシミュレーションするようになった。
外出する時には、積極的にカメラを持ち歩くようになった。
パソコンにダウンロードする時は、楽しみの一瞬である。  ≪以下続く≫



        朝 霧 高 原 か ら ( 1 )


撮影は楽しいー私の写真行脚(2)・・・

2019年08月28日 05時23分23秒 | 日記

 カメラとの最初の出会いは、中学生の頃だった。父親からカメラの基礎知識を伝授された。
与えられたのは、蛇腹のベスト版カメラだった。今なら玩具のような代物、それでも写真を撮るのが楽しかった。
写真の基礎は、絞りにシャッター速度とピントの合わせ方だったように記憶している。
写したフィルムが写真に仕上がっていくのが楽しかった。将来はカメラマンにと思ったほどだ。
カメラにも興味がわき、カメラ屋のショーウインドウを眺めては、高級カメラに憧れたものだ。
セミ版カメラ(4×6cm)→二眼レフカメラ→35ミリカメラ→ライカ等と高級カメラに憧れたものだ。当時流行った二眼レフ(リコーレフ)を買ってもらって、アマチュア・カメラマン気取りだった。
暫くは見て楽しんでいたが、初めての北海道修学旅行の時、念願の自分のカメラを手に入れた。
35ミリカメラで、写真を撮りまくった。芸術性とは程遠く駄作の連続だった。
次に入手したのがコンパクトカメラであり、一眼レフの望遠レンズ付きのカメラであった。
撮影は楽しく、撮った被写体の美しさに見惚れては、本格的な趣味の世界に突入した。
最初の写真は「花の美しさ」に魅せられて、花ばかり集中的に撮った。       ≪以下続く≫



                エ ピ デ ン ド リ ム


写真が趣味の世界へー私の写真行脚(1)・・・

2019年08月27日 05時14分16秒 | 日記

 "僕はアマチュアのカメラマン、小さいカメラをぶら下げて・・・"のコマーシャルソングに乗って、カメラブームがあった。
当時はフィルム全盛の時代だったが、撮った後はカメラ屋へ直行して、画像処理を依頼したものだ。
写真のデジタル化により、D(現像)・P(プリント)・E(引き伸ばし)という言葉は死語になってしまった。
1990年頃、デジタル・カメラが登場した。当初は画素数も少なく、未完成の感が強かった。
カメラの機能と並行して画像処理ソフトの進歩は素早かった。
撮った写真を自由自在に修正できるようになって、一段と興味を持つようになった。
また、カメラ屋の手を煩わさずに、自分で写真を仕上げられるようになった。
この楽しみが趣味にまで高じ、いよいよ写真に嵌りこみ、カメラに凝りだした。
デジカメは、無駄な写真は消去すればよく、躊躇なく撮ることができる。
写すだけでなく、画像処理をするのも楽しみの一つだ。       ≪以下続く≫




                  九 十 九 島 の 朝





生きる目的・目標を変える・・・

2019年08月26日 05時43分41秒 | 日記

長寿社会と云われて久しくなる。人生100歳時代の到来だ。
現世を生きている人は、「人生設計」を当初計画とは大幅に変えざるを得ない。
その結果がいま問われてきている。長寿社会に変わってきたからだ。
若い頃、人生65歳までは生きたいと思っていたが、当時は子供達が成人する年齢を想定していた。
八十路の坂を越して大病を患って、初めて長生きした実感が湧いてきた。
何人もの友人を失ってしまって、淋しい。
この先、何時まで生き永らえるのか、「神のみぞ知る」こととなってしまった。
人の誕生と死期は、己の意思では決められない。だとすれば、天命を待つよりほかない。
老いて、「生きる目的・目標」が必要となっている。何を生甲斐とするのか、迷うところである。



                    水 に 戯 れ る



何を血迷ったか韓国!、《GSOMIA》の破毀・・・

2019年08月25日 05時22分21秒 | 日記
日韓関係が最悪の事態になってきた。
韓国政府から「軍事情報包括協定(GSOMIA)」を破棄してきた。
貿易問題が「安全保障の問題に飛び火した。凡そ冷静な決断とは思えない。
韓国にとって「メリット」があるのか、理解に苦しむ。日本にとっては、「デメリット」は少ないと思う。
「ホワイト国外し」の報復措置だろう。文氏個人の終わりなき怨念と偏見と思い込みによるものだ。
感情的な「報復措置」は、いずれの国に於いてもプラスにはならない。
日本政府は、冷静に粛々として対処すればよい。国と国との約束を守れない国とは国交断絶も止むを得ない。
恐らく、世界中から、特に「NATO諸国」から、顰蹙を買い、信用を失墜することになるだろう。
韓国国内の動きと、今後の世界の反応に注目し、冷静に静観することにしよう。
国民を煽動するのではなく、事態の落とし所を探りだすのが、一国の最高責任者の責任ではないか。



                 小 さ く 可 愛 く




誤った正義感には、落とし穴が・・・

2019年08月24日 05時47分49秒 | 日記
 以前、三重県松阪市の「正論おじさん」について触れた。公道を1センチでもはみ出せば、許さないという。
四角四面の「正論」には、地元でも手を焼いているようだ。
その後どのようになったかは定かでない。
今回常磐道で発生した「あおり運転殴打事件」は動機は不明だが、同種の事件ではないか。
本人達の意識は、世の中を糺す気になっていたのではないかと思う。
多分、自分達の行為は正しいと思い込んでいる節がある。
誤った独善的な「正義感」は、社会が迷惑する。
もし事件の動機が正義感からだとすれば、誰もが納得いく説明が欲しい。偏った正義感より、良識かもしれない。



                 福 山 の バ ラ 祭 り

ありがたい、パソコンの外部記憶装置・・・

2019年08月23日 05時10分11秒 | 日記
デジタルカメラが普及して、一億総カメラマン時代が到来した感がある。
何処へ行っても、スマホや携帯電話で、パチリ。パチリとやっている、平和な光景だ。
デジカメの普及は、フィルムレス、カメラの性能向上と画像処理技術等が格段に進歩したことによる。
中でもありがたいのは、パソコンによる処理能力・画像処理技術が向上したことが大きい。
摂り溜めた写真を、外部記憶装置に保存することができる。
私の場合、3テラバイトの外部記憶装置により、数万枚の写真が保存されている。
必要により取り出すことができ、写真不足になることはまずない。ありがたい記憶装置である。



                      黄 昏 の 宮 島






学歴は人格に非ず・・・

2019年08月22日 05時50分31秒 | 日記
 学歴社会と云われて久しい、人は何のために「学ぶ」のだろうか。
最高学府を卒業した人達の「生き様」を見ると、疑いたくなるような不祥事が頻発している。
学業は出世の為か、裕福な生活の糧を得る為なのか、疑いたくなる。
本来学業は「真理の追求」、「人格の形成」と世の為・他人の為に尽くすことを目的としたものと思う。
何時の間にか、道が外れてしまったようだ。
昨今の事件・不祥事を見るにつけ、教育の真髄は「人間教育」にあるのではないか。
人間社会に役立つ「学業」であって欲しいものだ。
学歴が世の妨げになっては、絶対にあってはならないのだ。



               六 甲 山 に 登 る