古代日本国成立の物語

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前方後方墳の考察③(周溝墓の通路状遺構)

2024年06月13日 | 前方後方墳
方形周溝墓の周溝の掘り残された通路部分の意味あるいは目的を考える前に、方形周溝墓との比較において円形周溝墓について少し考えてみます。円形周溝墓とは円形の台状部を囲むように溝が掘られた墓で、墳丘の造り方や埋葬施設などは方形周溝墓に類似する円形プランの墳丘墓です。

弥生時代前期中葉に瀬戸内に出現し、岡山県や香川県などが分布の中心となります。その後、兵庫や大阪など畿内各地、さらには関東、東北、あるいは九州へと広がりますが、方形周溝墓と比べるとその数は圧倒的に少ない状況です。また、方形周溝墓は一人を埋葬する単数埋葬に加えて、2~3人あるいは5人以上の複数埋葬が一般的ですが、円形周溝墓の場合は単数埋葬が基本とされます。このように方形周溝墓との違いは或るものの、いずれも同じ弥生時代の墓制です。

香川県善通寺市の龍川五条遺跡では、弥生時代前期中葉から後葉にかけての方形周溝墓1基と円形周溝墓2基が見つかり、うち1基の円形周溝墓からは木棺墓と思われる主体部が1つ検出されていますが、通路部は確認されていません。また、佐古川・窪田遺跡でも前期後半から中期初頭にかけての40基の周溝墓が報告されており、円形周溝墓は最大で8基、うち3基に各々1つの主体部が、また6基で通路部と思われる遺構が確認されています。

隅をもたない円形周溝墓の場合、方形周溝墓のように掘り残しの場所の違いによって、それが通路なのか、それとも単なる掘り残しなのかを判断することができません。しかし、それが周溝の1カ所にしか見られない場合は通路と判断することが可能ではないかと考えます。逆に2カ所、3カ所というように複数カ所の通路状遺構がある場合は掘り残しの可能性が高い。というのも、円形の場合であっても場所によって掘り方にムラが生じて深い部分と浅い部分ができ、浅く掘った所が後世の削平によって通路状になってしまう可能性があります。この想定をもって、通路が複数あれば掘る際のムラによるもので、1カ所の場合は意図をもって掘り残した、と考えたいと思います。ただし、通路部が周溝の半分程度を占めるもの、つまり周溝が半円状にしか残らない場合は削平によって半分の周溝が失われたと考えることにします。

さて、方形周溝墓は一辺または対向する二辺のそれぞれ中央部に通路がある場合、円形周溝墓の場合は1カ所に通路がある場合に、何らかの意図をもって通路を敷設したと考えました。次にその意図を考えてみます。

石黒立人氏は「方形周溝墓の時期決定をめぐる二、三の問題 — 伊勢湾岸域を中心として —」の中で朝日遺跡の長辺30mを超える超大形方形周溝墓に言及して、周囲をめぐる溝が幅広く(7m以上)深い(1.5m内外)、故に墓葬にかかる祭儀の執行に際しての障害となり、よって人々が支障無く移動可能な経路を確保しようとすれば、溝に木橋をかけるのではなく「掘り残し」(「陸橋部」あるいは「土橋」)が最適であった、と述べています。単純に考えれば、溝をまたいで渡れない、あるいは橋を架けたとしても危険な場合に通路を掘り残したということだと思います。

台状部には盛土があり、その盛土に竪穴を掘って木棺墓あるいは土壙墓として遺体を埋葬したとの前提で、造墓から埋葬の手順を想定してみると、①周溝を掘る、②盛土をする、③主体部を掘る、④遺体または遺体を納めた木棺を運び込む、⑤埋葬する、という順番が想定されます。つまり、遺体または遺体を納めた木棺を台状部に運び込む際、運び手が溝に落ちないよう、安全に溝を渡るために通路を設けた(通路として掘り残した)と考えられます。逆に言うと、通路がない周溝墓は危険ではない程度の広さ、深さの溝であったということです。

ただし、周溝墓が発掘される時点では基本的に台状部も周溝部も削平されているため、造墓時点での周溝の広さや深さを特定することはできません。したがって、発掘時点での溝の状態をもって造墓時点における溝の危険度(広さ・深さ)を判断することはできません。発掘時点での溝が浅かったとしてもそこに通路部があれば、造墓時には深く掘られていた可能性があるということです。たとえば、愛知県一宮市の山中遺跡で見つかった遺構SZ11はA1aタイプに分類できる方16.5mの方形周溝墓で、発掘調査報告書によれば溝の幅が2.6~3.8mで深さが0.4m、台状部から深さ25cmの2基の主体部が検出されています。50cmほどが削平されたと考えると造墓時の溝の深さは0.9m、幅は4m程度となります。造墓者はこれを危険と判断して通路を設けたのでしょう。

このように考えると、浅く掘った部分が削平されて通路状になった、とした四隅についても安全性を考慮するという意図をもって通路を設けた可能性もありますが、そもそもなぜ四隅の溝を渡る必要があったのか、ということを考えると、通路の利用目的が今ひとつ明確にできません。石黒氏は四隅の通路について、大規模な周溝墓を造墓する際の効率性、つまり溝の掘削にかかる作業の軽減(移動の短縮)の可能性を指摘しますが、弥生時代前期に現れた山中遺跡の四隅切れ、つまりA4タイプの方形周溝墓はその大きさがせいぜい数m~10m四方なので、掘削作業の効率性という視点は少し違う気がします。いずれにしても通路を設けた意図とは、埋葬時に遺体を運び込む際の安全を確保すること、と考えたいと思います。

(つづく)

<主な参考文献>
「四国横断自動車道建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告 第二十三冊 龍川五条遺跡Ⅰ」 香川県教育委員会ほか
「一般国道32号綾歌バイパス建設に伴う理蔵文化財発掘調査報告 第1冊 佐古川・窪田遺跡」 同上
「愛知県埋蔵文化財センター調査報告書 第40集 山中遺跡」 財団法人愛知県埋蔵文化財センター1992
「方形周溝墓の時期決定をめぐる二、三の問題 — 伊勢湾岸域を中心として —」 石黒立人


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