主丘部への通路が発達して祭祀場になったという本命説も、対抗馬である墓道起源説も今ひとつ納得できず、つまりは前方後円墳や前方後方墳の前方部は祭祀場でもなく葬列が通る墓道でもないというのが私の結論です。ただし、いずれの説も可能性を否定するものではなく、もしかしたら祭祀場だったかもしれないし墓道だったのかもしれません。同様に前方部は古墳の玄関として設けられたのかもしれないし、前方後円墳は円墳と方墳が合体したものかもしれません。また、器物模倣説とて否定されるものではなく、盾の形を真似たのかもしれないし家形かもしれません。しかし、結局は私にとってもっとも納得できる説は壺形古墳説だと改めて認識できました。
壺形古墳説については以前に「前方後円墳の考察」として16回シリーズで投稿しているので、そちらを参照いただけるとありがたいのですが、私の理解をもとに私なりの解釈を含めて以下に簡単にまとめておきます。
・壺形古墳は不老不死を求める神仙思想に基づいて発想された古墳である。
・神仙思想では壺の中に神仙界が広がると考えられた。
・神仙界とは不老不死の仙人、祖霊となった霊魂が住む場所である。
・被葬者を神仙界に送り届けるために墓を壺の形にした。
・埋葬施設に不老不死の仙薬の原料である朱を撒き、神仙界を表した鏡を副葬した。
・葬送儀礼では壺を供献し、穿孔または破砕して埋葬施設に神仙界の空気を送った。
前方後円墳は円形の主丘部に前方部が付設された形状になっていますが、その前方部が祭祀場や墓道であったという説に対して一貫して疑問を呈し、弥生時代以来、数百年も続けてきた円形の主丘部をわざわざ前方後円形にするということは、そこに何らかの意図や目的があったはずで、これは形が変化したと考えるよりも、造墓思想の大転換があったと考えるべきだと述べてきました。その新たな造墓思想とは、亡き先王を祖霊として神仙界に送り届けんがために墓そのものを神仙界である壺の形にすることでした。神仙思想を全面に押し出した造墓思想のもとで創出された古墳が壺形古墳です。
前方後円墳が壺の形を模した墓だと考えると、前方部は壺の頸の部分にあたり、そこも壺の中であるので埋葬施設があることに何ら問題はありません。また、上から見ないと壺の形であることがわからないので意味がないという批判に対しては、そもそも被葬者を壺に入れることが目的なので、人に見せることを目的として壺形にしたのではないと考えます。
松木武彦氏は「初期前方後円墳の前方部の形がいろいろである事実は、前方後円墳の形が、壺などの特定の器物をかたどったものではないことをしめしている」として壺形古墳説を否定します。たしかに纒向型前方後円墳と讃岐型前方後円墳の前方部の形は違っているし、いずれにも属さない前方後円形の墳墓もあり、たしかに前方部の形状は様々ですが、そもそも壺の形も様々にあるのだから、前方部の形がいろいろあることが壺形古墳説を否定する理由にはなりません。しかし、氏は「前方後円墳とほぼ同時に前方後方墳もあらわれ、しばしば前方部の形をともにしていることは、壺説などには決定的に不利だ」と痛い所を突いてきます。しかし、これは私の疑問でもあるので、ここからようやく前方後方墳も壺形古墳なのか、について考えていくことにします。ちなみに近藤義郎氏は、壺形古墳説は墓道起源説と相容れず、考古学的検討を省いた観念の産物であるとして切り捨てますが、これは批判になっていないですね。ここでは前方後円墳との比較で前方後方墳を以下のようにいったん整理しておきます。
全国で発見されている前方後方墳の数は約4,800基の前方後円墳に対して約1割の500基ほどしかありません。出現時期はいずれも3世紀前葉で、植田文雄氏によれば前方後方墳としては近江の神郷亀塚古墳などが、一方の前方後円墳は大和の纒向石塚古墳などがもっとも早く、いずれも200年から220年の間に出現しています。また、前方後方形周溝墓や前方後円形周溝墓の出現も同じ時期と考えてよさそうです。前方後方墳、前方後円墳ともに出現以来、前方部が次第に幅を広げながら高さを増していくという変化が認められ、その点も含めて墳形の違いは主丘部が方形か円形の違いに過ぎず、埋葬施設や副葬品についても少なくとも同じ規模であれば両者の間にまったく差異が認められないと言われています。また、同じ時期の最も大きい両者を比較すると、前方後方墳の規模が前方後円墳を上回ることはない、つまり前方後方墳は数の点でも規模の点においても前方後円墳の後塵を拝していることになります。
(つづく)
<主な参考文献>
「古墳とは何か 認知考古学からみる古代」 松木武彦
「前方後方墳序説」 大塚初重
「前方後方墳の謎」 植田文雄
「古代日本と神仙思想 三角縁神獣鏡と前方後円墳の謎を解く」 藤田友治
↓↓↓↓↓↓↓電子出版しました。ぜひご覧ください。
壺形古墳説については以前に「前方後円墳の考察」として16回シリーズで投稿しているので、そちらを参照いただけるとありがたいのですが、私の理解をもとに私なりの解釈を含めて以下に簡単にまとめておきます。
・壺形古墳は不老不死を求める神仙思想に基づいて発想された古墳である。
・神仙思想では壺の中に神仙界が広がると考えられた。
・神仙界とは不老不死の仙人、祖霊となった霊魂が住む場所である。
・被葬者を神仙界に送り届けるために墓を壺の形にした。
・埋葬施設に不老不死の仙薬の原料である朱を撒き、神仙界を表した鏡を副葬した。
・葬送儀礼では壺を供献し、穿孔または破砕して埋葬施設に神仙界の空気を送った。
前方後円墳は円形の主丘部に前方部が付設された形状になっていますが、その前方部が祭祀場や墓道であったという説に対して一貫して疑問を呈し、弥生時代以来、数百年も続けてきた円形の主丘部をわざわざ前方後円形にするということは、そこに何らかの意図や目的があったはずで、これは形が変化したと考えるよりも、造墓思想の大転換があったと考えるべきだと述べてきました。その新たな造墓思想とは、亡き先王を祖霊として神仙界に送り届けんがために墓そのものを神仙界である壺の形にすることでした。神仙思想を全面に押し出した造墓思想のもとで創出された古墳が壺形古墳です。
前方後円墳が壺の形を模した墓だと考えると、前方部は壺の頸の部分にあたり、そこも壺の中であるので埋葬施設があることに何ら問題はありません。また、上から見ないと壺の形であることがわからないので意味がないという批判に対しては、そもそも被葬者を壺に入れることが目的なので、人に見せることを目的として壺形にしたのではないと考えます。
松木武彦氏は「初期前方後円墳の前方部の形がいろいろである事実は、前方後円墳の形が、壺などの特定の器物をかたどったものではないことをしめしている」として壺形古墳説を否定します。たしかに纒向型前方後円墳と讃岐型前方後円墳の前方部の形は違っているし、いずれにも属さない前方後円形の墳墓もあり、たしかに前方部の形状は様々ですが、そもそも壺の形も様々にあるのだから、前方部の形がいろいろあることが壺形古墳説を否定する理由にはなりません。しかし、氏は「前方後円墳とほぼ同時に前方後方墳もあらわれ、しばしば前方部の形をともにしていることは、壺説などには決定的に不利だ」と痛い所を突いてきます。しかし、これは私の疑問でもあるので、ここからようやく前方後方墳も壺形古墳なのか、について考えていくことにします。ちなみに近藤義郎氏は、壺形古墳説は墓道起源説と相容れず、考古学的検討を省いた観念の産物であるとして切り捨てますが、これは批判になっていないですね。ここでは前方後円墳との比較で前方後方墳を以下のようにいったん整理しておきます。
全国で発見されている前方後方墳の数は約4,800基の前方後円墳に対して約1割の500基ほどしかありません。出現時期はいずれも3世紀前葉で、植田文雄氏によれば前方後方墳としては近江の神郷亀塚古墳などが、一方の前方後円墳は大和の纒向石塚古墳などがもっとも早く、いずれも200年から220年の間に出現しています。また、前方後方形周溝墓や前方後円形周溝墓の出現も同じ時期と考えてよさそうです。前方後方墳、前方後円墳ともに出現以来、前方部が次第に幅を広げながら高さを増していくという変化が認められ、その点も含めて墳形の違いは主丘部が方形か円形の違いに過ぎず、埋葬施設や副葬品についても少なくとも同じ規模であれば両者の間にまったく差異が認められないと言われています。また、同じ時期の最も大きい両者を比較すると、前方後方墳の規模が前方後円墳を上回ることはない、つまり前方後方墳は数の点でも規模の点においても前方後円墳の後塵を拝していることになります。
(つづく)
<主な参考文献>
「古墳とは何か 認知考古学からみる古代」 松木武彦
「前方後方墳序説」 大塚初重
「前方後方墳の謎」 植田文雄
「古代日本と神仙思想 三角縁神獣鏡と前方後円墳の謎を解く」 藤田友治
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