白石太一郎氏、赤塚次郎氏はともに、方形周溝墓の通路が発達して前方後方墳の前方部になったとします。ただし白石氏は「主丘部への通路を、死者の世界と生者の世界をつなぐ通路と解して、この部分が次第に祭祀・儀礼の場として重視されるようになった」と付け加え、通路が発達した前方部は祭祀・儀礼の場であったと説きます。植田文雄氏も『前方後方墳の謎』において「前方部は当初、棺のある後方部にのぼる通路だったものが、のちに祭祀場としてひろくなった」とします。あらためて前方後方墳あるいは前方後円墳の前方部の成り立ちについて諸説を確認してみます。
前方後円墳の形式の起源について濱田耕作氏は、昭和14年(1939年)発刊の著『考古学研究』の中の一節『前方後円墳の諸問題』において、「古くは清野謙次博士が学生時代に提出せられた主墳陪塚連接説、喜田貞吉博士や梅原末治君の前方部祭壇付加説、故高橋健自氏の前方部玄関説、故森本六爾君の志那古墳模倣説、更に亦梅原末治君の新説方墳円墳結合説をはじめ、西洋人ではガウランド氏の円墳三角墳結合説(大和民族の好む円形と三角形とを装飾的意匠とする墳形)などがあり、又私自身の提出した丘尾切断説とも呼ぶ可きものがある」と整理されています。すでに100年前にこれだけ様々な説が主張されていたのは驚きです。
前方部について高橋健自氏は「古墳を奥深く森厳に見せるための施設で、いわば玄関のような役割をするもの」とし、喜田貞吉氏は、中国や朝鮮半島では霊柩の安置場所が常に低位置にあるのに対して日本では墳丘の頂上にあることから「高い参道または拝所が墳丘に接続して設けられた」とします。また、小林行雄氏は「前部は後円部よりも一段低い位置に儀式場とよんでも、祭壇とよんでもよいような広場を設置しようとする計画によって生まれたもの」と説きました。先の濱田氏はその後、発達期の前方後円墳に盾の形が移入されたとして、器物模倣説の立場を取ります。また、原田淑人氏は弥生時代の家屋(竪穴住居)の形状にその起源を求めます。また、前方後円墳が壺形古墳であるとする説も器物模倣説のひとつになります。
これらの諸説に対して近藤義郎氏は、1968年の考古学研究会第14回総会で発表した『前方後円墳の成立と変遷』において、これら諸説の中から有力説として生き残ったのが前方部祭壇説であるとする一方で、前方部という祭壇を設ける必要性や祭壇が方形であることの理由が説かれていないことなどを指摘して前方部が祭壇でない可能性に言及するものの、考古学的に実証できないことをもって「祭壇説は無敵」とし、さらに最古または最古に近い古墳で前方部に埋葬された例がないことから、結局は祭壇または何らかの象徴あるいは形象であったとします。そして、弥生時代の方形墓が首長に対する共同体的な祭祀儀礼の場であったとの推定から、飛躍的に権力を高めた首長が葬られる壮大な円丘または方丘に対して、かつての共同体的祭祀場の象徴である方形墓が形象化した一種の象徴的な祭壇として付設されたのが前方部であると説きました。
氏はその後、四隅突出型墳丘墓など弥生時代の墳丘墓と最古式の前方後円墳との比較をもとに弥生墳丘墓の突出部に注目します。とりわけ楯築遺跡の検討においては、その突出部は「主丘にいたる一種の“道”=通路」と考え、主丘上で行われた埋葬祭祀に参加する葬列が通る「墓道」であるとして、その上で、前方後円墳の前方部はこの機能を引き継いで形骸化したものと考えました。氏はこの考えを自ら「墓道起源説」と呼びます。
また、都出比呂志氏は「日本古代の国家形成論序説 ―前方後円墳体制の提唱―」において、2世紀後半から3世紀初めにかけて出現した楯築遺跡や四隅突出型墳丘墓に見られる突起部は中心の埋葬施設に付設された祭祀場であり、3世紀中葉になると各地に円墳の一方向に祭祀用の突起部を付設した前方後円墳の墳形に近いものが登場し、この墓制を基礎として定型化した前方後円墳が成立したと説きます。
前方後円墳研究の第一人者である近藤氏や都出氏の論に対し、前方後方墳研究に注力した大塚初重氏は『前方後方墳序説』において、前方部は主丘への一種の階段的な存在であり被葬者に一段と接近しえた神聖な場所で、祭祀や祈念を催すことのできる地点であったとし、その前方部を必要とした条件に、墳丘の比較的高所に遺骸が埋葬される日本独特の葬法を挙げています。さらに前方後方墳の源流を大陸で盛行した方墳に求め、それが日本に取り入れられた当初から前述の理由により前方部が設けられた、ともします。
前方部が「祭祀の場」であったとの考えが概ね支持を得ているようですが、そんな中で近藤氏は、当初は祭祀場であることを否定する材料がないことから、やむを得ず同調していたきらいがありますが、楯築遺跡の考察を経て墓道起源説を主張するようになります。楯築を始めとする弥生墳丘墓の墓道である突出部は前方後円墳の前方部につながり、その前方部2カ所にある隅角のうち、勾配の緩いいずれか一方の傾斜が聖域に至る墓道として企画された、とします。たしかに各地の前方後円墳を巡った際、例えば岡山の作山古墳、宮崎の生目古墳群にある3号墳など、墳丘に登れる大きな古墳では前方部の隅角の斜面から登りました。ただし、棺を担いでこの傾斜を登る場合、かなりの危険を伴います。万が一、棺を落とすようなことがあれば取り返しのつかないことになります。果たして、そんな危険を冒すでしょうか。
前方部に関する論点は以下の3つに集約できそうです。①については前稿「前方後方墳の考察⑥(造墓思想の転換)」で触れましたが、それを含めて3つの論点について考えていきます。
①周溝墓の通路が発達して前方部になったのか。
②前方部は祭祀場であったのか。(①の通路が祭祀場に変化したのか)
③前方部隅角の斜面は墓道なのか。
(つづく)
<主な参考文献>
「古墳とヤマト政権」 白石太一郎
「東海系のトレース」 赤塚次郎
「前方後方墳の謎」 植田文雄
「前方後円墳の起源」 原田淑人
「前方後円墳の諸問題」 濱田耕作
「古代日本と神仙思想 三角縁神獣鏡と前方後円墳の謎を解く」 藤田友治
「考古学研究 第15巻 第1号 『前方後円墳の成立と変遷』」 近藤義郎
「前方後円墳の起源を考える」 近藤義郎
「古代史の海 第16号 講演録『前方部とは何か』」 近藤義郎
「国家形成過程における前方後円墳秩序の役割 ~考古学的成果から国家形成を考える~」 澤田秀実
「日本古代の国家形成論序説 ―前方後円墳体制の提唱―」 都出比呂志
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前方後円墳の形式の起源について濱田耕作氏は、昭和14年(1939年)発刊の著『考古学研究』の中の一節『前方後円墳の諸問題』において、「古くは清野謙次博士が学生時代に提出せられた主墳陪塚連接説、喜田貞吉博士や梅原末治君の前方部祭壇付加説、故高橋健自氏の前方部玄関説、故森本六爾君の志那古墳模倣説、更に亦梅原末治君の新説方墳円墳結合説をはじめ、西洋人ではガウランド氏の円墳三角墳結合説(大和民族の好む円形と三角形とを装飾的意匠とする墳形)などがあり、又私自身の提出した丘尾切断説とも呼ぶ可きものがある」と整理されています。すでに100年前にこれだけ様々な説が主張されていたのは驚きです。
前方部について高橋健自氏は「古墳を奥深く森厳に見せるための施設で、いわば玄関のような役割をするもの」とし、喜田貞吉氏は、中国や朝鮮半島では霊柩の安置場所が常に低位置にあるのに対して日本では墳丘の頂上にあることから「高い参道または拝所が墳丘に接続して設けられた」とします。また、小林行雄氏は「前部は後円部よりも一段低い位置に儀式場とよんでも、祭壇とよんでもよいような広場を設置しようとする計画によって生まれたもの」と説きました。先の濱田氏はその後、発達期の前方後円墳に盾の形が移入されたとして、器物模倣説の立場を取ります。また、原田淑人氏は弥生時代の家屋(竪穴住居)の形状にその起源を求めます。また、前方後円墳が壺形古墳であるとする説も器物模倣説のひとつになります。
これらの諸説に対して近藤義郎氏は、1968年の考古学研究会第14回総会で発表した『前方後円墳の成立と変遷』において、これら諸説の中から有力説として生き残ったのが前方部祭壇説であるとする一方で、前方部という祭壇を設ける必要性や祭壇が方形であることの理由が説かれていないことなどを指摘して前方部が祭壇でない可能性に言及するものの、考古学的に実証できないことをもって「祭壇説は無敵」とし、さらに最古または最古に近い古墳で前方部に埋葬された例がないことから、結局は祭壇または何らかの象徴あるいは形象であったとします。そして、弥生時代の方形墓が首長に対する共同体的な祭祀儀礼の場であったとの推定から、飛躍的に権力を高めた首長が葬られる壮大な円丘または方丘に対して、かつての共同体的祭祀場の象徴である方形墓が形象化した一種の象徴的な祭壇として付設されたのが前方部であると説きました。
氏はその後、四隅突出型墳丘墓など弥生時代の墳丘墓と最古式の前方後円墳との比較をもとに弥生墳丘墓の突出部に注目します。とりわけ楯築遺跡の検討においては、その突出部は「主丘にいたる一種の“道”=通路」と考え、主丘上で行われた埋葬祭祀に参加する葬列が通る「墓道」であるとして、その上で、前方後円墳の前方部はこの機能を引き継いで形骸化したものと考えました。氏はこの考えを自ら「墓道起源説」と呼びます。
また、都出比呂志氏は「日本古代の国家形成論序説 ―前方後円墳体制の提唱―」において、2世紀後半から3世紀初めにかけて出現した楯築遺跡や四隅突出型墳丘墓に見られる突起部は中心の埋葬施設に付設された祭祀場であり、3世紀中葉になると各地に円墳の一方向に祭祀用の突起部を付設した前方後円墳の墳形に近いものが登場し、この墓制を基礎として定型化した前方後円墳が成立したと説きます。
前方後円墳研究の第一人者である近藤氏や都出氏の論に対し、前方後方墳研究に注力した大塚初重氏は『前方後方墳序説』において、前方部は主丘への一種の階段的な存在であり被葬者に一段と接近しえた神聖な場所で、祭祀や祈念を催すことのできる地点であったとし、その前方部を必要とした条件に、墳丘の比較的高所に遺骸が埋葬される日本独特の葬法を挙げています。さらに前方後方墳の源流を大陸で盛行した方墳に求め、それが日本に取り入れられた当初から前述の理由により前方部が設けられた、ともします。
前方部が「祭祀の場」であったとの考えが概ね支持を得ているようですが、そんな中で近藤氏は、当初は祭祀場であることを否定する材料がないことから、やむを得ず同調していたきらいがありますが、楯築遺跡の考察を経て墓道起源説を主張するようになります。楯築を始めとする弥生墳丘墓の墓道である突出部は前方後円墳の前方部につながり、その前方部2カ所にある隅角のうち、勾配の緩いいずれか一方の傾斜が聖域に至る墓道として企画された、とします。たしかに各地の前方後円墳を巡った際、例えば岡山の作山古墳、宮崎の生目古墳群にある3号墳など、墳丘に登れる大きな古墳では前方部の隅角の斜面から登りました。ただし、棺を担いでこの傾斜を登る場合、かなりの危険を伴います。万が一、棺を落とすようなことがあれば取り返しのつかないことになります。果たして、そんな危険を冒すでしょうか。
前方部に関する論点は以下の3つに集約できそうです。①については前稿「前方後方墳の考察⑥(造墓思想の転換)」で触れましたが、それを含めて3つの論点について考えていきます。
①周溝墓の通路が発達して前方部になったのか。
②前方部は祭祀場であったのか。(①の通路が祭祀場に変化したのか)
③前方部隅角の斜面は墓道なのか。
(つづく)
<主な参考文献>
「古墳とヤマト政権」 白石太一郎
「東海系のトレース」 赤塚次郎
「前方後方墳の謎」 植田文雄
「前方後円墳の起源」 原田淑人
「前方後円墳の諸問題」 濱田耕作
「古代日本と神仙思想 三角縁神獣鏡と前方後円墳の謎を解く」 藤田友治
「考古学研究 第15巻 第1号 『前方後円墳の成立と変遷』」 近藤義郎
「前方後円墳の起源を考える」 近藤義郎
「古代史の海 第16号 講演録『前方部とは何か』」 近藤義郎
「国家形成過程における前方後円墳秩序の役割 ~考古学的成果から国家形成を考える~」 澤田秀実
「日本古代の国家形成論序説 ―前方後円墳体制の提唱―」 都出比呂志
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