古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

◆投馬国の位置

2016年09月01日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 さて、次に投馬国と邪馬台国であるが、結論を先に言うと私は投馬国は出雲に、邪馬台国は畿内の大和にあったと考えている。特に邪馬台国については纒向遺跡をその中心地として比定している。まず投馬国を考える。

 不弥国に続いて「南至投馬國、水行二十日(南に水行二十日で投馬国に至る)」とある。不弥国である福岡県飯塚市から(南を90度ずらして)東に船で進んで20日で投馬国に到着する、ということだ。ここで問題となるのは次の2点である。1点目は、当時、船で20日というのは具体的にどれくらいの距離を進むことができたのかということ。2点目は、東方面となると瀬戸内海を航行したと考えるのが自然であるが、本当にそうだったのか。日本海を進んだ可能性はないのか。

 まず1点目の水行20日を考えてみる。古来、対馬海峡を縦横に行き交う人々がいたことを先に見た。また、埴輪や土器などに刻まれた線刻画をもとに海峡横断に利用された船を復元する様々な試みがなされている。
 
  
 
 上の左側の写真は東京国立博物館所蔵の宮崎県西都原古墳群から出土した舟形埴輪、右側は大阪市立博物館所蔵の足付舟形埴輪である。1975年にこの西都原出土の埴輪をモデルに製作された野生号という復元船で対馬海峡を渡る実験が行われた。その結果は、漕ぎ手が14人で平均1.7ノット(時速3.7km)のスピードだったという。

 また、次の2つの写真からもわかるように帆船と思われる船を描いた土器片が見つかっている。左は奈良県天理市の古墳時代前期の東殿塚古墳から出土した土器に描かれた船の線刻画、右は岐阜県大垣市の荒尾南遺跡の弥生時代の方形周溝墓の溝から出土した広口壺に線刻されていた絵画である。前述の復元船がこれらのように帆船であったとしたらもう少し速度が出ていただろう。
 
  
 
 時代は下るが古墳時代には帆船を描いた線刻画などが各地の古墳から見つかっている。下の左は鳥取市青谷町の古墳時代後期と思われる阿古山22号墳の石室側壁に描かれた帆船の線刻画である。右は熊本県不知火町の古墳時代後期の桂原古墳の玄室に描かれた線刻画で、いずれも明らかに帆船が描かれていることがわかる。
 
  
 
 次に、三重県松阪市宝塚町の5世紀初頭の宝塚1号墳からは国内最大の船型埴輪が出土した上から見ると船央に帆柱用の穴があり、帆船で あったことがわかる。まさに先の西都原の埴輪に似ており、このモデルとなった船にも帆があった可能性が高いことを示している。
 
  
 
 先の野生号は平均時速3.7kmであったが、帯方郡の使いが乗った船は積荷や漕ぎ手でない人の荷重を考えると平均時速は3km程度か。ただし、帆船であった可能性が高いこと、日本海を東に進む場合は対馬海流の流れがあること、などを考慮すれば実質的には5kmほどであったと推定する。1日の航海時間は太陽が出ている間の10時間、但し、漕ぎ手の体力を考慮して1日あたりの漕ぐ時間は半分の5時間、残りは帆を利用して風の力と潮流のみで推進。このように考えると1日に進む距離はざっと35kmと考えて差し支えないだろう。以上の水行を20日間、1日も休むことなく続けると航行距離は700kmとなる。天候や波の状況、漕ぎ手の体力など、様々な要因により実質的に進んだ距離は半分の300~400km程度ではなかっただろうか。
 不弥国から遠賀川を下って響灘に出たあと、関門海峡を通過して瀬戸内海に入り300~400kmの航行で到着する国として吉備が想定できる。一方、響灘へ出た後、日本海を東方面へ同じ距離を進んだとすれば出雲が候補としてあがってくる。どちらに妥当性があるか。 

 次に2点目であるが、朝鮮半島と北九州、朝鮮半島と山陰地方の交流の状況を先に確認したが、北九州と山陰の間にも同様の交流があったことは自ずとわかる。朝鮮半島、北九州、山陰は同じ文化圏にあったと言っても過言ではない。帯方郡の使者が通るルートとして、あるいは実際に行かなかったとしても本国に報告するルートとしては仲間が暮らす国々がある山陰ルートを報告するのではないだろうか。対馬、一支、末盧、奴、伊都、不弥とここまでがそうであったことを考えると山陰ルートを選択するのが自然である。また、朝鮮半島の人々にとって山陰沿岸は太古より往来した海であり取り扱いを熟知した海であった。一方で、瀬戸内海が内海で波も穏やかで航行し易かったから帯方の使者がこちらを選んだであろう、というのはあまりに固定概念に引きずられていると言える。瀬戸内海は確かに内海であるが実は船の航行にとってかなりの難所である。瀬戸内海の両端と真ん中にある関門海峡、来島海峡、鳴門海峡は日本の三大急潮と呼ばれるくらいに潮の流れが速いところである。そしてこの潮の流れは西から東へ、東から西へ6時間おきに反転する。時代が下って瀬戸内航路が整備される過程においては鞆の浦をはじめとした潮待ち港があちこちに作られたが、弥生時代においてそれはなかった。帯方の使者にとって不慣れで難所の瀬戸内海と自らの庭のように熟知した日本海のどちらを選んで航行したかは自ずと答えが出よう。よって投馬国は出雲にあったと考えたい。出雲については改めて詳しく考えることにして先に進める。



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