古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

神功皇后(その8 神功摂政の誕生)

2019年03月04日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 紀ノ川から大和に入る河川航路を神功皇后が押さえていたと書いたが、この点についてもう少し考えてみたい。紀伊水門は紀ノ川の河口にあたり、近くには神武東征の際に命を落とした五瀬命を葬った竈山があり、名草戸畔という女酋を倒した名草邑がある。この名草戸畔は地元では名草姫と呼ばれ、その死後に代わって紀伊を治めたのが紀氏であると言われている。そう言えば、皇后が小竹宮に滞在したときに常夜行が起こった理由を問うた相手は紀直の先祖である豊耳であった。この豊耳は名草戸畔のあとに紀ノ川流域を押さえた人物の後裔であろう。当ブログ第一部の「難波から熊野へ」で書いたように、私は名草戸畔の死後にこの地を治めたのは神武東征に随行してきた人物であったと考える。大和から大阪湾、さらには瀬戸内海へ通じる水運要衝の地を統治するために神武がこの地に残した腹心の部下が勢力拡大に成功して紀直、すなわち紀氏となった。この腹心の部下は神武一行が日向を発って宇佐に着く前に速水之門で道案内として一行に加えた珍彦(うずひこ)、すなわち椎根津彦(しいねつひこ)であったと考える。
 書紀の景行紀では、景行天皇3年の武内宿禰の誕生の話にも紀直が登場する。神武王朝第8代孝元天皇の血を継ぐ屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおごころのみこと)が景行天皇3年に紀伊国に派遣され、紀直の遠祖である菟道彦(うじひこ)の娘の影媛を娶って武内宿禰が生まれ、その武内宿禰が蘇我氏、平群氏、紀氏などの祖になった、と記されている。この菟道彦は珍彦である。菟道彦(=珍彦=椎根津彦)が紀直の遠祖とされていることと、その孫にあたる武内宿禰が紀氏の祖とされていることは整合がとれている。そして小竹宮で神功皇后のそばにいた紀直の先祖である豊耳はその系譜にある人物である。
 以上から、武内宿禰を介して神武王朝と神功皇后のつながりを確認することができるとともに、神功皇后が紀氏を配下に従えて紀ノ川流域を勢力下に置くことができたのは、まさに武内宿禰の影響によるものであることが理解できよう。また、景行3年に天皇が屋主忍男武雄心命を紀伊国に派遣した記事をあらためて読むと、景行天皇は紀伊国に行幸しようとしたが占いの結果がよくなかったので行幸を中止した、とある。紀伊国は神武王朝の勢力下にあったため、敵対する崇神王朝の景行天皇は紀伊国に入れなかったのだ。

 さて、神功皇后は紀伊国で合流した武内宿禰と和邇臣の先祖である武振熊(たけふるくま)に命じて宇治に陣を構える忍熊王を討たせた。このとき、皇后軍は数万の大軍で進攻したにもかかわらず、なんと敵を騙し討ちにする作戦に出たのだ。この作戦にまんまと引っかかった忍熊軍は宇治の陣をあとにして近江の逢坂、栗林、そして瀬田へと敗走を余儀なくされ、ついには全滅することとなった。仲哀天皇崩御から1年8ヶ月、新羅を征討し、香坂王・忍熊王を破った皇后は皇太后として天皇に代わって政治を担う摂政となった。
 実はこの皇后軍と香坂王・忍熊王との戦いは単なる皇位争いではなかった。これまで述べてきた通り、神功皇后は丹波・近江連合勢力が崇神王朝に送り込んだ皇后である。その皇后が香坂王・忍熊王を倒して我が子である誉田別皇子の皇位継承を確実なものにしたということは、丹波・近江連合勢力が崇神王朝を倒して政権を奪取することに成功したことを意味するのだ。さらに言えば、丹波・近江連合勢力はこの戦いによってもともと拠点としていた琵琶湖から若狭、日本海へ抜ける敦賀に加え、琵琶湖から難波へ通じる宇治川から淀川にかけての流域、大和から大阪湾、瀬戸内海へ通じる紀ノ川流域という水運の要衝を支配することになった。畿内あるいは大和から船を使って畿外へ出るルートはこの3つしかない。大和川ルートもあるが最後は河内湖から難波を通過するため、結局は難波を押さえておく必要があるのだ。そしてこれらのルートは海路でそのまま朝鮮半島へつながっているので外交上も非常に重要となってくる。これ以降、朝鮮半島との外交が一気に活況を呈してくるのはこのことと無縁ではない。

 皇后が摂政についた翌年、ようやく仲哀天皇が葬られることとなった。その陵は先に見た通り、河内国長野陵に治定される大阪府藤井寺市の岡ミサンザイ古墳である。
 そして幼い誉田別皇子を皇太子として次の天皇であることを世に知らしめた。そして神功摂政69年に神功皇太后が崩御したあと、皇子は応神天皇として即位した。私は仲哀天皇崩御後の神功皇后の時代も含めて第25代武烈天皇までを応神王朝と呼ぶこととしたい。

 しかしここでよく考えてみると、神功皇后は仲哀天皇の后となって以降、高穴穂宮で暮らすことはなかったのではないだろうか。書紀によると、仲哀2年1月11日に皇后になって翌2月6日には角鹿(敦賀)へ行幸して笥飯宮(けひのみや)を設けている。皇后は角鹿で滞在中に熊襲の反乱が起こったために角鹿を出て日本海沿岸を航行し、穴門の豊浦宮を経て儺県の橿日宮に入った。そしてそのまま熊襲を討ち、さらには朝鮮半島に渡って新羅を討った。凱旋帰国後は再び穴門豊浦宮に移り、帰京のために瀬戸内海を通過して難波から紀伊へ向かった。そこで香坂王・忍熊王を討って大和に入り、摂政に就任して大和の磐余に若桜宮を設けている。結局は高穴穂宮に戻ることはなかった。そもそも高穴穂宮は崇神王朝の景行天皇がその晩年に丹波・近江連合勢力を牽制するために設けた宮である。だから神功皇后は最初からこの宮に関心はなく、むしろ大和を押さえることにこだわったと考えられる。その磐余若桜宮は奈良県桜井市にある若桜神社または稚桜神社の2カ所が候補地とされている。




↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 電子出版しました。




コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 神功皇后(その7 香坂王・... | トップ | 神功皇后(その9 葛城襲津... »

コメントを投稿

古代日本国成立の物語(第二部)」カテゴリの最新記事