2024年7月27日、舟津神社を出て車を東に走らせます。北陸道の下をくぐって浅水川を渡ってすぐ、採石のために大きくえぐられた山が見えます。大正時代、採石作業中に銅鐸が発見されました。高さ51.7センチの突線紐式銅鐸で、現在は東京国立博物館で所蔵されているようです。由来はわかりませんが「新銅鐸」と呼ばれています。突線紐式なので弥生時代後期ということになりますが、この山の尾根上には10数基の古墳が見つかっているとのこと。
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実はこのあと、佐々木さんの生家のすぐ近くにある弁財天古墳群へ行く予定にしていたのですが、朝から酷暑の中での山上の古墳見学が続いて、3人とも電池切れ寸前。残念ながら弁財天古墳群をパスすることにしました。
そして時刻はそろそろランチタイム。岡太神社の手前にある森六という蕎麦屋さんに入りました。越前おろし蕎麦の大盛をいただいたのですが、大根おろしが辛いのなんのって、むせるくらいに辛い。麺も太目でいつもの蕎麦を食べるようなわけにはいかない。でも美味い。ごちそうさまでした。
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というわけで、食後すぐに岡太神社に到着。このあたりは継体天皇潜流地といって、即位前の継体天皇(男大迹王)が暮らしていたと言われるところです。そのため、継体天皇ゆかりのスポットがたくさんあります。岡太神社もそのひとつ。
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社伝によると、この地の水害を煩慮して水路を穿ち、九頭竜・足羽・日野の三川を開いた男大迹王が、建角身命・国挟槌尊・大己貴命の三柱をこの地に奉祀して岡太神社と号したということです。「岡太」は「おかふと」とも「おかもと」とも読みます。
岡太神社から歩いて数分のところ、六角形の玉垣に囲まれた皇子ケ池は継体天皇のふたりの皇子(のちの安閑天皇・宣化天皇)がこの池の水を産湯に使ったとされます。今は水が枯れていますが、果たして本当にこの池の水を産湯に使ったのでしょうか。そもそも、、、
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このたりは越前和紙で有名なところ。この辺りを流れる岡本川の上流に美しい姫が現れて村人に紙漉きの技術を伝えとの伝承があり、その伝説の姫を和紙の神様・紙祖神「川上御前」として祀ったのが、次に行く大瀧神社/岡本神社。その前に紙の勉強ということで「紙の文化博物館」へ。
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でも、紙の文化というほどには紙のことが勉強できる展示ではありませんでした。ということで早々に退出して大瀧神社/岡太神社に向かいました。
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この神社、そもそもなぜふたつの名前が併記されるのか。少し長くなりますが、Wikiより抜粋して転記します。
上宮(奥の院)には大瀧・岡太両神社の本殿が並んで建つが、下宮(里宮)の本殿・拝殿は両神社の共有となっていることから、2つの神社の名前が併記される。伝承によれば、養老3年(719年)、この地を訪れた泰澄が、国常立尊・伊弉諾尊を主祭神とし、十一面観世音菩薩を本地とする神仏習合の社を創建し、大瀧兒(おおちご)権現を建立したという。後に明治時代の神仏分離令により、現在の大瀧神社となった。岡太神社については、約1500年前、大滝町の岡本川上流に美しい姫が現れ、村人に紙漉きの技術を伝えたのが始まりとされている。この伝説の姫『川上御前』を、和紙の神様・紙祖神として祀ったのが岡太神社である 。延元2年(1337年)の足利軍の兵火で社殿が失われ、岡太神社の祭神を大瀧神社の相殿に祭った。さらに天正3年(1575年)、織田信長の一向一揆攻略の際、大瀧寺一山が兵火に遭い消失。再建時に大瀧神社の摂社として境内に祀られるようになった。大正12年(1923年)、大蔵省印刷局抄紙部に川上御前の分霊が奉祀され、岡太神社は名実共に全国紙業界の総鎮守となった。神社の格としては大瀧神社の方が上であるが、住民達が崇拝してきたのは川上御前であったため「大瀧神社・岡太神社」と並記していると考えられている。
ということです。先に行った岡太神社とは別物です。この神社の本殿、立派で荘厳で美しく、見ていて飽きない。こんな本殿は初めてです。素晴らしい。
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次は味真野神社。継体天皇をはじめ全部で八柱が祀られ、境内は男大迹王の宮(鞍谷御所)の跡と言われています。しかし、もとは式内社の須波阿須疑神社三座であったが、その後に分離、さらに多くの神社を合祀して明治41年に現在地に遷って味真野神社と改称したというから、継体天皇とのつながりは不明。宮跡というのもあやしい。
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それでもここは、継体天皇をモデルに世阿弥が著した謡曲「花筐」発祥の地とされ、神社に隣接する「万葉の里 味真野苑」には花筐に登場する継体大王と照日の像があり、恋のパワースポットとして人気があるらしい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/f5/71387409164002d9305a37e71f578d47.jpg)
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このあとは継体天皇の第2皇子(のちの第28代宣化天皇)ゆかりの地を訪ね、さらに五皇神社を参拝しました。
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五皇神社は越前氏の東南、浅水川に沿った谷あいにひっそり佇む風情のある神社でしたが、楼門や本殿は立派で荘厳な建物でした。五皇とは、誉田別皇子(応神天皇)、稚野毛二派皇子、太郎子、汗斯王子、彦主人王子の5人で、継体天皇を5世代遡った直系の5人の皇子(ひとりは天皇)です。
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さて、これで継体天皇潜流地の踏査は終了です。このあと高速で敦賀まで走って、気比神宮、常宮神社と周ります。
越前国一之宮で北陸総鎮守の気比神宮の主祭神は伊奢沙別命。別名が気比大神あるいは御食津大神。ほかに仲哀天皇と神功皇后、日本武尊、応神天皇、玉姫命、武内宿禰命が祀られます。鳥居の深い赤色が美しい。
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この日最後の踏査地は常宮神社。古くは気比神宮の奥宮あるいは摂社とされた神社で、祭神は天八百萬比咩命のほかは気比神宮の仲哀天皇以下の六座と同じです。ここは神功皇后が三韓征伐へと向かった出発地です。敦賀半島の中ほど、敦賀湾に面する海辺に鎮座。なかなか景色のよいところです。
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この日はこれで8つの神社を参拝したことになります。まだ太陽が高い位置にありますが、この日の踏査はこれにて終了です。敦賀駅まで戻ってルートイン敦賀駅前にチェックインした後、食事に出て福井名物ソースカツ丼で疲れを癒しました。
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(つづく)
継体天皇を勉強するならこの本がおススメ。
↓↓↓↓↓
↓↓↓↓↓↓↓電子出版しました。ぜひご覧ください。
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実はこのあと、佐々木さんの生家のすぐ近くにある弁財天古墳群へ行く予定にしていたのですが、朝から酷暑の中での山上の古墳見学が続いて、3人とも電池切れ寸前。残念ながら弁財天古墳群をパスすることにしました。
そして時刻はそろそろランチタイム。岡太神社の手前にある森六という蕎麦屋さんに入りました。越前おろし蕎麦の大盛をいただいたのですが、大根おろしが辛いのなんのって、むせるくらいに辛い。麺も太目でいつもの蕎麦を食べるようなわけにはいかない。でも美味い。ごちそうさまでした。
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というわけで、食後すぐに岡太神社に到着。このあたりは継体天皇潜流地といって、即位前の継体天皇(男大迹王)が暮らしていたと言われるところです。そのため、継体天皇ゆかりのスポットがたくさんあります。岡太神社もそのひとつ。
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社伝によると、この地の水害を煩慮して水路を穿ち、九頭竜・足羽・日野の三川を開いた男大迹王が、建角身命・国挟槌尊・大己貴命の三柱をこの地に奉祀して岡太神社と号したということです。「岡太」は「おかふと」とも「おかもと」とも読みます。
岡太神社から歩いて数分のところ、六角形の玉垣に囲まれた皇子ケ池は継体天皇のふたりの皇子(のちの安閑天皇・宣化天皇)がこの池の水を産湯に使ったとされます。今は水が枯れていますが、果たして本当にこの池の水を産湯に使ったのでしょうか。そもそも、、、
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このたりは越前和紙で有名なところ。この辺りを流れる岡本川の上流に美しい姫が現れて村人に紙漉きの技術を伝えとの伝承があり、その伝説の姫を和紙の神様・紙祖神「川上御前」として祀ったのが、次に行く大瀧神社/岡本神社。その前に紙の勉強ということで「紙の文化博物館」へ。
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でも、紙の文化というほどには紙のことが勉強できる展示ではありませんでした。ということで早々に退出して大瀧神社/岡太神社に向かいました。
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この神社、そもそもなぜふたつの名前が併記されるのか。少し長くなりますが、Wikiより抜粋して転記します。
上宮(奥の院)には大瀧・岡太両神社の本殿が並んで建つが、下宮(里宮)の本殿・拝殿は両神社の共有となっていることから、2つの神社の名前が併記される。伝承によれば、養老3年(719年)、この地を訪れた泰澄が、国常立尊・伊弉諾尊を主祭神とし、十一面観世音菩薩を本地とする神仏習合の社を創建し、大瀧兒(おおちご)権現を建立したという。後に明治時代の神仏分離令により、現在の大瀧神社となった。岡太神社については、約1500年前、大滝町の岡本川上流に美しい姫が現れ、村人に紙漉きの技術を伝えたのが始まりとされている。この伝説の姫『川上御前』を、和紙の神様・紙祖神として祀ったのが岡太神社である 。延元2年(1337年)の足利軍の兵火で社殿が失われ、岡太神社の祭神を大瀧神社の相殿に祭った。さらに天正3年(1575年)、織田信長の一向一揆攻略の際、大瀧寺一山が兵火に遭い消失。再建時に大瀧神社の摂社として境内に祀られるようになった。大正12年(1923年)、大蔵省印刷局抄紙部に川上御前の分霊が奉祀され、岡太神社は名実共に全国紙業界の総鎮守となった。神社の格としては大瀧神社の方が上であるが、住民達が崇拝してきたのは川上御前であったため「大瀧神社・岡太神社」と並記していると考えられている。
ということです。先に行った岡太神社とは別物です。この神社の本殿、立派で荘厳で美しく、見ていて飽きない。こんな本殿は初めてです。素晴らしい。
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次は味真野神社。継体天皇をはじめ全部で八柱が祀られ、境内は男大迹王の宮(鞍谷御所)の跡と言われています。しかし、もとは式内社の須波阿須疑神社三座であったが、その後に分離、さらに多くの神社を合祀して明治41年に現在地に遷って味真野神社と改称したというから、継体天皇とのつながりは不明。宮跡というのもあやしい。
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それでもここは、継体天皇をモデルに世阿弥が著した謡曲「花筐」発祥の地とされ、神社に隣接する「万葉の里 味真野苑」には花筐に登場する継体大王と照日の像があり、恋のパワースポットとして人気があるらしい。
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このあとは継体天皇の第2皇子(のちの第28代宣化天皇)ゆかりの地を訪ね、さらに五皇神社を参拝しました。
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五皇神社は越前氏の東南、浅水川に沿った谷あいにひっそり佇む風情のある神社でしたが、楼門や本殿は立派で荘厳な建物でした。五皇とは、誉田別皇子(応神天皇)、稚野毛二派皇子、太郎子、汗斯王子、彦主人王子の5人で、継体天皇を5世代遡った直系の5人の皇子(ひとりは天皇)です。
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さて、これで継体天皇潜流地の踏査は終了です。このあと高速で敦賀まで走って、気比神宮、常宮神社と周ります。
越前国一之宮で北陸総鎮守の気比神宮の主祭神は伊奢沙別命。別名が気比大神あるいは御食津大神。ほかに仲哀天皇と神功皇后、日本武尊、応神天皇、玉姫命、武内宿禰命が祀られます。鳥居の深い赤色が美しい。
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この日最後の踏査地は常宮神社。古くは気比神宮の奥宮あるいは摂社とされた神社で、祭神は天八百萬比咩命のほかは気比神宮の仲哀天皇以下の六座と同じです。ここは神功皇后が三韓征伐へと向かった出発地です。敦賀半島の中ほど、敦賀湾に面する海辺に鎮座。なかなか景色のよいところです。
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この日はこれで8つの神社を参拝したことになります。まだ太陽が高い位置にありますが、この日の踏査はこれにて終了です。敦賀駅まで戻ってルートイン敦賀駅前にチェックインした後、食事に出て福井名物ソースカツ丼で疲れを癒しました。
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(つづく)
継体天皇を勉強するならこの本がおススメ。
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