古代日本国成立の物語

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神功皇后(その5 新羅征討②)

2018年01月30日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 書紀においては神功皇后の祖先である天日槍は新羅から来日したとなっている。その天日槍の来日は垂仁天皇3年のときである。垂仁3年は3世紀半ばから後半にかけての時代と考えるが、先に見たように3世紀においては新羅という国はまだ成立しておらず、その地域が辰韓と呼ばれていた頃である。天日槍が新羅から来たと書紀が記しているのは、書紀編纂時に新羅国であった地域、すなわち辰韓地域からやって来たことを表しているに過ぎない。

 魏志韓伝(辰韓伝)によると、辰韓は始め6ケ国であったが徐々に分かれて12ケ国になった、弁辰もまた12ケ国である、として辰韓、弁辰それぞれの小国の名を列挙している。合わせて24ケ国としながらも並んでいる国を合計すると全部で26ケ国になり重複があるようだ。さらに魏志韓伝(弁辰伝)によると、弁辰は辰韓と雑居する、衣服や住居は辰韓と同じで言語や法俗も似ている、とある。弁辰と辰韓が雑居していることから先の国名の列挙も順番が入り混ざっているものと考えられる。弁辰と辰韓は境界を明確に定めずに互いの地域に入り込んで生活していて、衣服や住居も同じで言語も似ていることなども含めて考えると、魏志韓伝の編者である陳寿の認識は「弁韓は辰韓の一部」あるいは「似たような国」という程度であったのかもしれない。そうすると、新羅国の王子とされる天日槍は弁辰または辰韓のいずれかの小国の王子であった、という程度で考えたほうがよさそうだ。
 したがって神功皇后が祖先の祖国を討ったと大げさに考える必要はなさそうだが、その対象が新羅とされていることには意味がありそうだ。先述したように三国史記には当時の倭人あるいは倭国が何度も辰韓あるいは新羅の地に攻め入った事実が記される。その事実と書紀編纂当時における日本と新羅の関係性を掛け合わせた結果が神功皇后による新羅征討の説話になった、と考えたい。私は、神功皇后は実在の人物であり、当時の新羅に侵攻したことも史実であったと考えており、神功皇后による新羅征討は書紀編纂当時の新羅との関係をもとに創作された話であるという説や、そもそも神功皇后は実在しなかったという説には与(くみ)しない。では、書紀編纂当時の日本と新羅の関係性とはどういうことか。先に見たように日本と百済は百済建国の4世紀以来、一貫して近しい関係にあった。その百済の視点から5世紀以降の朝鮮半島の歴史を確認してみよう。

 5世紀後半、高句麗は本格的に朝鮮半島方面への経営に乗り出して百済に対する圧力を強め、百済への侵攻が繰り返された。財力、戦力を使い果たした百済は475年に蓋鹵(がいろ)王が殺害されて実質的に滅亡することとなった。この状況は三国史記や日本書紀の雄略紀にも記されている。しかし、479年に東城(とうじょう)王が即位すると百済は復興へ向けて舵を切り、次の武寧(ぶねい)王のときに勢力拡張を図って朝鮮半島南西部での支配を確立すると東進して伽耶地方の中枢に迫った。武寧王はこの時期に対外活動を活発に行い、倭国へは軍事支援と引き換えに五経博士を派遣し始め、これ以降、倭国への軍事支援要請と技術者の派遣は百済の継続的な対倭政策となっていく。

 伽耶地方では西側から勢力を広げた百済と東方から勢力を拡張していた新羅との間で緊張が生じた。また北側では高句麗と全面的な衝突に入り百済の情勢は極めて悪化した。この時期に倭国に向けて軍事支援を求める使者が矢継ぎ早に派遣されたことが日本書紀に見える。百済の聖(せい)王は新羅に対抗するため倭国との同盟を強固にすべく諸博士や仏像・経典などを送り、倭国へ先進文物を提供する一方で見返りとしてより一層の軍事支援を求めた。

 その後、中国では589年に隋が南北朝時代を終わらせて中国を統一、さらに618年には唐が隋に替わって中国を支配することとなる。7世紀半ば、百済、新羅、高句麗、そして倭においても権力の集中が進む中、百済は高句麗と協同して新羅への侵攻を続けた。新羅からの援軍要請を受けた唐は、勢力拡大を危惧していた高句麗の同盟国となっていた百済を倒して高句麗の背後を抑えようとの意図から660年に水陸合わせて13万とされる大軍を百済に差し向け、新羅もこれに呼応して数万人規模の出兵をした結果、百済は降伏を余儀なくされて滅亡した。

 しかしその後、鬼室福信(きしつふくしん)などの百済遺臣が反乱をおこし、また百済滅亡を知った倭国でも朝鮮半島からの様々な文化の輸入が途絶することに対する懸念や百済への勢力拡張の目論見などから百済復興を全面的に支援することとし、人質として滞在していた百済王子の扶余豊璋(ふよほうしょう)を急遽帰国させるとともに阿倍比羅夫らからなる救援軍を派遣した。倭国は最終的には過去最大規模の軍勢を朝鮮半島へ派兵し、663年に白村江(現在の錦江河口付近)で唐・新羅連合軍との決戦に挑んだ(白村江の戦い)がこれに大敗を喫することとなる。こうして百済は完全に滅亡し、高句麗もまた668年に唐の軍門に降ることとなった。この結果、朝鮮半島は唐の支配下に置かれることになるが、これに新羅が反発、また唐も西方で国力をつけた吐蕃の侵入で都である長安までもが危険に晒される状態となり、朝鮮半島支配を放棄せざるを得なくなった。そして675年に新羅が半島を統一することとなった。


 天武天皇が日本書紀編纂の詔を出したのが681年である。そのわずか18年前の663年、朝鮮半島の白村江で唐・新羅連合軍と戦った倭国・百済の連合軍が敗北を喫し、その建国以来、友好国として支援を続けてきた百済が消滅した。唐・新羅の対抗勢力であった高句麗も滅亡し、朝鮮半島は新羅の支配下に入ることとなった。唐・新羅による日本侵攻を怖れた天智天皇は防衛強化に取り組み、対馬や北部九州の大宰府の水城(みずき)や瀬戸内海沿いの西日本各地に朝鮮式古代山城の砦を築き、北部九州沿岸には防人(さきもり)を配備した。さらに667年に都を難波から内陸の近江京へ移した。こういう時代背景の中にあって天皇家を始めとする為政者たちが新羅のことを快く思うはずがなく、その意識は当然のごとく書紀の編纂者たちにも反映される。その結果、日本書紀は親百済、反新羅のスタンスが貫かれることとなった。もちろん、神功皇后の活躍した4世紀において親百済、反新羅であった事実に基づいていることも忘れてはならない。次にあらためてその事実を確認しておきたい。

 神功皇后が新羅に侵攻したことが史実であったと先述したが、新羅本紀に記される4世紀における倭と新羅が直接的に関係し合う記事を拾ってみる。 

 300年  倭国と交聘(こうへい)す
 312年  倭国王、使を遣わし、子の為に婚を求む
 344年  倭国、使を遣わし婚を請えり
 345年  倭王、移書して交を絶つ
 346年  倭兵、猝(にわ)かに風島に至り、辺戸を抄掠(しょうりゃく)す
 364年  倭兵、大いに至る
 364年  倭人、衆を恃(たの)み、直進す
 364年  倭人、大いに敗走す
 393年  倭人、来りて金城を囲む
  
 これによると4世紀前半においては「交聘」とあるように互いに往来があり、倭の王子は新羅から妃を迎えていたようだ。ただし、ここに出てくる倭国王が当時の大和政権の王、すなわち天皇であったかどうかは定かではない。312年のときに辰韓は倭の要請に応えて婚姻相手を差し出しているにも関わらず、344年に再度の要請が来たためにこれを断った。すると翌年、倭は国交断絶の書を送りつけたのだ。これを機に4世紀半ば以降、両国間の緊張が一気に高まることになる。そしてこの4世紀半ば以降の状況がまさに神功皇后による新羅征討説話に反映されているのだ。
 新羅本紀はこれに続いて5世紀における17回もの倭による侵攻記事を載せる。一方、同じ三国史記の百済本紀による同時期の倭と百済の関係記事を並べてみる。

 397年  王、倭国と好(よしみ)を結び、太子腆支(てんし)を以って質と為す
 402年  使を倭国に遣わして、大珠を求めしむ
 403年  倭国の使者、至る

 これらの記事に先立つ346年に近肖古王が百済を建国しており、また369年には百済が倭に対して七支刀を贈っている。4世紀後半から5世紀にかけて、倭は新羅と敵対関係にあった一方で、百済とは友好関係にあったことが理解されよう。日本書紀の編纂スタンスはまさにこの状況を反映していると考えることができる。

 先述の新羅本紀の記事、そしてこの百済本紀、さらには七支刀の銘文などから4~5世紀の朝鮮半島と日本(倭)の関係が読み取れるが、さらにこれに続くのがすでに触れておいた好太王碑文である。これらの史料は互いに矛盾することなく当時の状況を物語る。そして日本書紀においてもある程度の整合性が見出されることから、神功皇后の時代、すなわち4世紀半ばから後半にかけて倭が新羅に侵攻したことは史実であると考えてよいだろう。ちなみに、古事記においてもわずかであるが神功皇后による新羅征討の記事が記される。


-----<参考文献>-------------------------------------------------------

三国史記倭人伝 他六篇―朝鮮正史日本伝〈1〉 (岩波文庫)
佐伯有清編訳
岩波書店



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