古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

近江・越前への実地踏査ツアー⑤

2024年08月07日 | 実地踏査・古代史旅
2024年7月28日、いよいよ最終日です。ホテルを朝7時半に出発してこの日の一番目、鳥浜貝塚まで走りました。本来なら近くにある若狭三方縄文博物館で詳しい情報を得たいところですが、朝早いために叶いませんでした。





鳥浜貝塚は縄文時代早期から前期の遺跡で、発掘当時としては日本最古の丸木舟とともに能登の輝石安山岩や隠岐島の黒曜石も出ているので、丸木舟で日本海を往来していたのでしょう。



こんなもの作らなくても来る人は来るし、この遺跡のことや縄文時代を勉強する人はする。あそこにこれがあるから行ってみよう、なんて誰も思わないぞ。がっかりだな。

それはそれとして、これはわかりやすいよ。
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次は若狭国一之宮へ向かいます。若狭国一之宮は上社と下社があり、上社が若狭彦神社、下社が若狭姫神社で、まずは下社から。








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下社の祭神は海幸山幸神話に登場する豊玉姫命。上社の鎮座に遅れること6年、養老5年(721年)にこの遠敷の地に鎮座。よって遠敷神社とも呼ばれます。



境内にこんな謎かけのような案内板が。3人で解読を試みましたが叶わず、答えはきっと上社にあるだろうと言いながら次の上社に向かいました。





上社の若狭彦神社の祭神はこちらも海幸山幸神話に登場する彦火火出見尊。





下社もそうでしたが、緑に覆われた境内の雰囲気がいい。どうやらこの遠敷川沿いは大変湿気の多い所と思います。次の鵜の瀬や神宮寺も空気が湿った感じだし、国道のトンネルも水浸しだったし、きっと地下水脈があると岡田さんと話していました。

そして下社の謎かけの答えを佐々木さんが見つけました。詳しくは説明しませんが、そういうことです。太陽の道とかレイラインとか、こういうのいっぱいありますね。



さらに鵜の瀬まで遠敷川を遡ります。大阪に住んで60余年、東大寺のお水取りは知っていても、このお水送りは知らなかった。(お水取りも実際に見に行ったことはないけど)





水が綺麗でせせらぎが心地よい。





少し戻って神宮寺へ。お水送りの「お香水」を汲む井戸があるのだけど、拝観料が要ったので入口から写真だけ撮らせてもらいました。







まだ読んでいないけど面白そうです。
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ここから若狭街道(鯖街道)を走って滋賀県へ抜けます。途中、佐々木さんの提案で名水の里、瓜割の滝に寄りました。きれいな水で作ったくずまんじゅうが名物とのこと。





涼しくて気持ちがよい。しかし、ここで大きな失態。眼鏡を落としてしまった。帽子越しに頭に乗せて車外へ出たのだけど、車に戻って運転しようとしたときに失くしたのに気がついた。途中、頭に乗せていることは全く意識になかったので、どこで落としたのかもわからない。でもどこかに落ちているだろうともう一度滝まで戻ったけど無い。ふたりが一緒に行こうと言ってくれてもう一度行ったので、滝まで計3往復。滝のところで顔を洗ったりしたので流されたのかもわからない。やむなく、運転を岡田さんに代わってもらいました。

ここから再び継体天皇に戻ります。まずは継体の父、彦主人王の墓とされる田中王塚古墳。あたりに密集する田中古墳群の盟主墳で、直径約58m、高さ約10mの帆立貝形古墳です。築造年代は墳形や埴輪から5世紀後半頃と推定され、安曇川以南で最初に造られた首長墓とされています。陵墓参考地に指定されているために入れませんが、周囲を歩いてまわることができます。5年前に来た時は日が暮れて真暗だったので何も見えなかったけど、今回は高さや大きさ、くびれ部などが確認できました。











次は車ですぐのところ、鴨稲荷山古墳。ここも5年前の日暮れ時に来ました。築造時期は田中王塚古墳よりもあとの6世紀前半と考えられ、ここ高島の地で生まれたとされる第26代継体天皇を支えた三尾君(三尾氏)の首長墓と推定されています。冠・沓などの豪華な副葬品から朝鮮半島との強い交流が見られる古墳です。墳丘長約50mの前方後円墳と推定されていますが、墳丘が完全に失われて石棺がそのままの位置に建屋で覆って保存されています。













このあと、本当ならすぐ近くの高島歴史民俗資料館へ行って鴨稲荷山古墳から出た豪華な副葬品の復元品を見たかったのですが、なんと残念なことに今年3月をもって閉館になってました。5年越しの希望が叶わず、まことに残念。


(つづく)


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