景行4年、天皇は美濃へ行幸した。美濃で崇神天皇の皇子である八坂入彦皇子の娘、八坂入媛を妃とした。八坂入彦皇子は崇神天皇と尾張大海媛の間にできた子で、美濃のあたりを支配していたとされる。母方を頼って尾張に移動したという考えもあるがどうだろう。私は、尾張大海媛は大和の葛城を本貫地とする尾張氏と、饒速日命とともに丹後から大和に移ってきた大海氏との間にできた娘で、神武王朝が崇神王朝との融和を狙って崇神天皇に嫁がせたと考えている。尾張氏が尾張の地を拠点とするようになったのは、尾張国造に任じられて以降のことであり、先代旧事本紀の国造本紀によればそれは成務天皇の時とされる。これらのことから八坂入彦が母方を頼ったという考えは成り立たないと考える。八坂入彦が崇神天皇の子であるという書紀の記述は果たして本当だろうか。
八坂入彦が美濃で一定の勢力を持っていた痕跡が岐阜県可児市の久々利(くくり)にある八坂入彦墓とされる大萱(おおかや)古墳および隣接する八剱(やつるぎ)神社である。しかし大萱古墳の築造は古墳時代中期とされ、八坂入彦が3世紀中頃の崇神天皇の皇子である、すなわち八坂入彦が3世紀後半から4世紀前半の人物であることと整合がとれない。八剱神社の祭神は八坂入彦命、八坂入媛命、弟媛命となっている。また、天皇はこの地で泳宮(くくりのみや)という仮宮を設けているが、大萱古墳や八剱神社から3キロほど西へいったところにその跡地とされるところも残っているが、泳宮の実在性や跡地の信憑性については何ともいえない。
景行天皇ははじめ、八坂入媛の妹である弟媛を娶ろうとしたが断られ、代わりに姉の八坂入媛を娶るように薦められたために受け入れた。そして景行52年に当初皇后だった播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)が崩御したことを受けて新たな皇后となった。天皇は八坂入媛との間に13人の子を設けた。第一子の稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)は後に成務天皇として即位する。また 第二子の五百城入彦命(いおきいりひこのみこと)の孫の仲姫命(なかひめのみこと)は応神天皇の后となって大雀命(おおさざきのみこと)、すなわち後の仁徳天皇を生んでいる。
天皇は八坂入媛を妃とする前に播磨稲日大郎姫を后としており、この后との間に双子の子が(別伝では三人の子となっている)生まれている。大碓皇子と小碓尊である。通常であればこの二人の子のいずれかが皇位を継承すべきであろう。とくに小碓尊は日本武尊として熊襲征伐や東国平定など皇位を継ぐに相応しい実績がある。成務紀においても稚足彦尊は第四子、すなわち皇后である播磨稲日大郎姫の三人の子(成務紀では景行紀の別伝を採用している)のあとに生まれた子として、皇位継承の順位が低いことを明らかにしている。さらに言えば、その稚足彦尊が皇太子となったのは小碓尊すなわち日本武尊の死後の景行51年(成務紀では46年となっており矛盾が生じているが)である。日本武尊を皇太子に任命できない理由があったのだろうか。あるいは大碓皇子はどうであったのだろうか。
また、景行天皇は八坂入媛を妃としたあとすぐ、美濃国造である神骨(かむほね)のもとにいた兄遠子(えとおこ)、弟遠子(おととおこ)という姉妹が美人だと聞いて顔が見たくなり、長子の大碓皇子を行かせたが大碓皇子は報告をしてこなかったため、天皇は彼を恨んだという。このあたりの事情は古事記に詳しく、大碓皇子はその美人姉妹を寝取ってしまったというのだ。おまけに違う女性を天皇に差し出した。天皇はそれに気づいたが口に出すことができずにいた。なお、この時にすでに美濃国造が存在したように書かれているが、諸国に国造が置かれたのは次の成務天皇の時とされている。成務紀に「諸国に令して国郡に造長(みやつこおさ)を立て」とあるのがそれとされるので、神骨は国造ではなく美濃の首長であったということだろう。
大碓皇子はこの話を含めて記紀ともにあまり良く描かれていない。書紀の景行40年の東国蝦夷征伐の際、最初に派遣命令が下ったのは大碓皇子に対してであったが、彼は怖気づいて逃げ隠れしたために結局は小碓尊が行くことになり、大碓皇子は美濃に封じられることになった。一方の古事記では、大碓皇子が朝夕の食事に出てこないために天皇が小碓尊に諭すように伝えた様が描かれる。このように記紀ともに大碓皇子をよく書いていない。
一方で小碓尊は日本武尊(倭建命)として大活躍する姿が描かれる一方で、前述の大碓皇子を諭すように天皇から言われたときに、諭すどころか大碓皇子を殺してしまう残忍な姿が描かれる。この残忍さを景行天皇が恐れて皇太子にしなかったとの考えもあるようだが、私は大碓皇子や小碓尊が皇太子に任命されなかった理由は別のところにあると考える。大碓皇子、小碓尊はともに播磨稲日大郎姫との間にできた子であり、一方の稚足彦尊は美濃の八坂入媛との間にできた子である。播磨は先代の垂仁天皇の時に来日した天日槍が天皇の命に背いて領地を奪おうとした土地である。つまり、天皇家(崇神王朝)と敵対する勢力と戦った播磨は崇神王朝側の勢力ということになる。景行天皇はここから后を迎えていたのであるが、一方の美濃はどうであったろうか。
景行天皇による美濃への行幸は単に新しい妃を得るためということではなく、当時、十分な支配が及んでいない美濃を勢力範囲に加えるためであったと考えるべきであろう。先に見た紀伊への行幸も同様である(この紀伊への行幸が上手く行かなかったことは先述の通り)。天皇は美濃で最も望んだ弟媛に断られ、兄遠子・弟遠子の姉妹を得ることもできなかった。これは美濃行幸の本来の目的、すなわち美濃を支配下に置くことが叶わなかったことを比喩的に表現したのであろう。その代わりに次善の策として八坂入媛を妃とし、播磨稲日大郎姫の死後に皇后に昇格させ、その子である稚足彦尊を皇太子に任じて成務天皇として即位させたことは、美濃を支配下に置くには至らなかったものの、良好な関係が構築できたことを表しているのではないだろうか。その結果、日本武尊の東国平定において越国討伐に派遣された吉備武彦との合流地点として選ばれることとなった。
さて、八坂入媛の父である八坂入彦は崇神天皇と尾張大海媛の間にできた子とされているが、先に見たとおり八坂入彦の墓とされる大萱古墳の築造年代との矛盾があること、景行天皇と八坂入媛がいずれも崇神天皇の孫にあたることに違和感があることもあり、この親子関係は後付けの創作ではないかと考える。
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八坂入彦が美濃で一定の勢力を持っていた痕跡が岐阜県可児市の久々利(くくり)にある八坂入彦墓とされる大萱(おおかや)古墳および隣接する八剱(やつるぎ)神社である。しかし大萱古墳の築造は古墳時代中期とされ、八坂入彦が3世紀中頃の崇神天皇の皇子である、すなわち八坂入彦が3世紀後半から4世紀前半の人物であることと整合がとれない。八剱神社の祭神は八坂入彦命、八坂入媛命、弟媛命となっている。また、天皇はこの地で泳宮(くくりのみや)という仮宮を設けているが、大萱古墳や八剱神社から3キロほど西へいったところにその跡地とされるところも残っているが、泳宮の実在性や跡地の信憑性については何ともいえない。
景行天皇ははじめ、八坂入媛の妹である弟媛を娶ろうとしたが断られ、代わりに姉の八坂入媛を娶るように薦められたために受け入れた。そして景行52年に当初皇后だった播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)が崩御したことを受けて新たな皇后となった。天皇は八坂入媛との間に13人の子を設けた。第一子の稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)は後に成務天皇として即位する。また 第二子の五百城入彦命(いおきいりひこのみこと)の孫の仲姫命(なかひめのみこと)は応神天皇の后となって大雀命(おおさざきのみこと)、すなわち後の仁徳天皇を生んでいる。
天皇は八坂入媛を妃とする前に播磨稲日大郎姫を后としており、この后との間に双子の子が(別伝では三人の子となっている)生まれている。大碓皇子と小碓尊である。通常であればこの二人の子のいずれかが皇位を継承すべきであろう。とくに小碓尊は日本武尊として熊襲征伐や東国平定など皇位を継ぐに相応しい実績がある。成務紀においても稚足彦尊は第四子、すなわち皇后である播磨稲日大郎姫の三人の子(成務紀では景行紀の別伝を採用している)のあとに生まれた子として、皇位継承の順位が低いことを明らかにしている。さらに言えば、その稚足彦尊が皇太子となったのは小碓尊すなわち日本武尊の死後の景行51年(成務紀では46年となっており矛盾が生じているが)である。日本武尊を皇太子に任命できない理由があったのだろうか。あるいは大碓皇子はどうであったのだろうか。
また、景行天皇は八坂入媛を妃としたあとすぐ、美濃国造である神骨(かむほね)のもとにいた兄遠子(えとおこ)、弟遠子(おととおこ)という姉妹が美人だと聞いて顔が見たくなり、長子の大碓皇子を行かせたが大碓皇子は報告をしてこなかったため、天皇は彼を恨んだという。このあたりの事情は古事記に詳しく、大碓皇子はその美人姉妹を寝取ってしまったというのだ。おまけに違う女性を天皇に差し出した。天皇はそれに気づいたが口に出すことができずにいた。なお、この時にすでに美濃国造が存在したように書かれているが、諸国に国造が置かれたのは次の成務天皇の時とされている。成務紀に「諸国に令して国郡に造長(みやつこおさ)を立て」とあるのがそれとされるので、神骨は国造ではなく美濃の首長であったということだろう。
大碓皇子はこの話を含めて記紀ともにあまり良く描かれていない。書紀の景行40年の東国蝦夷征伐の際、最初に派遣命令が下ったのは大碓皇子に対してであったが、彼は怖気づいて逃げ隠れしたために結局は小碓尊が行くことになり、大碓皇子は美濃に封じられることになった。一方の古事記では、大碓皇子が朝夕の食事に出てこないために天皇が小碓尊に諭すように伝えた様が描かれる。このように記紀ともに大碓皇子をよく書いていない。
一方で小碓尊は日本武尊(倭建命)として大活躍する姿が描かれる一方で、前述の大碓皇子を諭すように天皇から言われたときに、諭すどころか大碓皇子を殺してしまう残忍な姿が描かれる。この残忍さを景行天皇が恐れて皇太子にしなかったとの考えもあるようだが、私は大碓皇子や小碓尊が皇太子に任命されなかった理由は別のところにあると考える。大碓皇子、小碓尊はともに播磨稲日大郎姫との間にできた子であり、一方の稚足彦尊は美濃の八坂入媛との間にできた子である。播磨は先代の垂仁天皇の時に来日した天日槍が天皇の命に背いて領地を奪おうとした土地である。つまり、天皇家(崇神王朝)と敵対する勢力と戦った播磨は崇神王朝側の勢力ということになる。景行天皇はここから后を迎えていたのであるが、一方の美濃はどうであったろうか。
景行天皇による美濃への行幸は単に新しい妃を得るためということではなく、当時、十分な支配が及んでいない美濃を勢力範囲に加えるためであったと考えるべきであろう。先に見た紀伊への行幸も同様である(この紀伊への行幸が上手く行かなかったことは先述の通り)。天皇は美濃で最も望んだ弟媛に断られ、兄遠子・弟遠子の姉妹を得ることもできなかった。これは美濃行幸の本来の目的、すなわち美濃を支配下に置くことが叶わなかったことを比喩的に表現したのであろう。その代わりに次善の策として八坂入媛を妃とし、播磨稲日大郎姫の死後に皇后に昇格させ、その子である稚足彦尊を皇太子に任じて成務天皇として即位させたことは、美濃を支配下に置くには至らなかったものの、良好な関係が構築できたことを表しているのではないだろうか。その結果、日本武尊の東国平定において越国討伐に派遣された吉備武彦との合流地点として選ばれることとなった。
さて、八坂入媛の父である八坂入彦は崇神天皇と尾張大海媛の間にできた子とされているが、先に見たとおり八坂入彦の墓とされる大萱古墳の築造年代との矛盾があること、景行天皇と八坂入媛がいずれも崇神天皇の孫にあたることに違和感があることもあり、この親子関係は後付けの創作ではないかと考える。
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