古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

天日槍と都怒我阿羅斯等の考察①

2017年07月20日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 垂仁紀に登場する天日槍と都怒我阿羅斯等について、この二人を同一とするか、それとも別人と考えるか。「垂仁天皇(その7 天日槍の渡来)」を書いた時点では時間をかけて考えようとして継続検討課題としていたが、その後にいろいろと頭を悩ませた結果としてそれなりに自分の考えができたので書いてみたい。まず、記紀の記述をごく簡単に整理する。

【書紀(天日槍)】
新羅の王子で日本に聖王がいると聞いて神宝を携えて来日、播磨国から近江国、若狭国を経て但馬国に定着し、後裔一族を形成した。

【書紀(都怒我阿羅斯等)】
大加羅国の王子で、日本に聖王がいると聞いて穴門から出雲国を経て越国の笱飯浦に到着。別伝では大加羅国にいたときに行方不明になった牛の代わりに手にした白石が化身した童女追って来日。童女は難波と豊国で比売語曾社に祀られる神になった。

【古事記(天之日矛)】
新羅の王子で、女が日光を受けて妊娠して生んだ赤玉が化身した少女を妻にした。その妻が日本へ戻ったために追って来日但馬に定着して後裔一族を形成した。妻は難波の比売碁曾社に祀られる阿加留比売である。来日の際には神宝を持参していた。

 下線部を見ると、古事記の天之日矛の説話は書紀の天日槍と都怒我阿羅斯等の2つの説話を合わせたような内容になっており、天日槍と都怒我阿羅斯等の相違は、出身国と来日ルートぐらいである。この状況から、天日槍と都怒我阿羅斯等はおそらく同一であろうという考えから思考がスタートした。
しかし、記紀を詳細に見ると、同一であると考えにくい記述もいくつかあった。たとえば、書紀において都怒我阿羅斯等は崇神天皇を慕って来日したが崇神が崩御したあとだったので垂仁天皇に仕えたとある一方で、天日槍が来日したときには垂仁天皇から「播磨の宍粟邑か淡路の出浅邑に住みなさい」と言われたにも関わらず「自分が住むところは自分で探す」と言って反抗の意を表した。いずれも書紀の別伝の記述ではあるが、このふたつの話は矛盾するのではないか。さらに前述した来日ルートの違いも大きい。都怒我阿羅斯等は越国の笱飯浦へ到着したが、この笱飯(気比)には越前国一之宮の気比神宮があり、祭神の伊奢沙別命は応神天皇が皇太子の時に名前を交換した神であることを記紀ともに記している。古事記では応神天皇の母である神功皇后は天之日矛(天日槍)の後裔であることから、気比は天日槍にゆかりがあるように思うのだが、記紀ともに天日槍の話に登場しないのが不思議だ。

 先にできた古事記も、それより少し遅れて完成した書紀も、どちらもほぼ同じ情報をもとに編纂されているはずなので、古事記で天日槍ひとりの話として出来上がっているものを書記でわざわざ天日槍と阿羅斯等の二人の話に分割したと考えるよりも、もともと書紀の通り、二人の話であったものを古事記では一人の話しか取り上げなかった、と考える方が素直ではないだろうか。つまり、天日槍と阿羅斯等が同一人物ではない、という仮説でもう一度考えてみることにした。
 その取っ掛かりとして、都怒我阿羅斯等の来日ルートについて「垂仁天皇(その7 天日槍の渡来)」の最後に書いたことを改めて考えてみた。最初に到着した穴門(長門国の古称)で伊都都比古なる人物が登場したことから、ここに伊都国の勢力が及んでいたのではないかとした点だ。これを念頭に置いて、阿羅斯等は穴門のあと島浦を伝って北の海から出雲国を経て越国の笱飯浦(敦賀)へ着き、その後に大和に入った、ということをよくよく考えると、このルートはもしかしたら魏志倭人伝にある邪馬台国までの行程を参照しているのではないか、ということに思い至った。倭人伝の行程では、伊都国のあと奴国、不弥国、投馬国を経て邪馬台国に至る、となっている。私は投馬国を出雲、邪馬台国を大和の纒向に比定しているので、その考えに基づくと、北九州の不弥国を出た後は日本海を水行して出雲へ、その後、再び日本海を水行、そしてどこかに上陸し、ひと月の陸行を経て大和へ至るルートが倭人伝の行程であると言える。最後の上陸地点が敦賀であったことが倭人伝に一致するかどうかは疑問が残るが、穴門に伊都国の勢力が及んでいた可能性があること、阿羅斯等が大加羅国の王子とされており、その大加羅国は倭人伝にある狗邪韓国にあたることも含めて考えると、都怒我阿羅斯等の来日ルートは倭人伝における帯方郡から邪馬台国に至る行程にほぼ一致している、あるいは少なくとも倭人伝のルートをベースにしていると言えるのではないだろうか。

 さらに倭人伝を参照していると考えられることがある。参照しているというよりも、都怒我阿羅斯等説話の素地となっているのが、倭人伝の正始八年の次の記事である。「正始八年(247年)、帯方郡太守の王頎が着任した。倭女王の卑弥呼は狗奴国男王の卑弥弓呼と始めから友好関係になく、倭の載斯烏越等を帯方郡に派遣して狗奴国と戦闘状態であることを報告した。(王頎は)塞曹掾史の張政等を派遣し、張政は詔書、黄幢をもたらして難升米に授け、檄文をつくり、これを告げて諭した」 
 正始八年(247年)、卑弥呼が倭国と狗奴国が戦闘状態にあることを帯方郡に報告し、窮状を訴えたのであろう。訴えを聞いた帯方郡の王頎は張政を邪馬台国に派遣した。
 さらに記事は続く。「卑弥呼は死去し、大きな塚を作った。直径は百余歩。百余人の男女の奴隷を殉葬した。その後、男王を立てたが国中が従わずに互いに殺しあい、当時千余人が殺された。そして卑弥呼の宗女である十三歳の台与を立てて王としたところ、ようやく国中が安定した。張政たちは檄をもって台与に教え諭した
 帯方郡から張政がやってきたが、残念ながら事態は好転せずに卑弥呼が亡くなった。その後に男王が立ったものの、連合国である倭国はまとまらなかったために卑弥呼の宗女である台与が王となったところ、ようやく国内が安定した。そして張政が帰国することになった。
 倭人伝は続いて「台与は大夫の率善中郎将、掖邪拘等二十人を派遣して張政等が帰るのを送らせた。そして、台(魏の王宮)に至り、男女の生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、模様の異なる雑錦二十匹を貢いだ」と記す。

 張政は帯方郡から邪馬台国へ派遣されてきた。その行程はおそらく倭人伝に書かれたルートを辿ったであろう。そしてそのルート以上に重要なのが張政が来日した時期である。倭人伝では正始8年(247年)に狗奴国との戦闘による倭国の窮状を聞いた帯方郡の太守である王頎が張政を派遣しているので、派遣時期は早ければ報告を聞いてすぐの247年ということになろうが、おそらく250年前後であろう。
 そして張政来日のタイミングで卑弥呼が亡くなって男王が立った。私はこの男王が崇神天皇であり、その崇神の崩御が古事記にある戊寅の年にあたる258年と考えている。書紀では都怒我阿羅斯等の来日は崇神天皇の時とし、さらに来日して大和に入る前に崇神崩御があったことも記している。また、そもそも阿羅斯等の話は、書紀本編で崇神崩御の3年前に任那が派遣してきた蘇那曷叱智なる人物の帰国時の別伝として記されているため、蘇那曷叱智と阿羅斯等は同一人物と考えることができる。そうすると阿羅斯等の来日は255年となる。それぞれのタイミングは若干の誤差があるのかもしれないが、すべて3世紀中頃の出来事と考えれば、都怒我阿羅斯等(=蘇那曷叱智)の来日説話は倭人伝の張政来日を素地にしていると考えることができる。また、天皇は阿羅斯等が帰国する時に赤絹を持たせているが、これは張政が帰国する時に台与が与えた貢物に該当すると考えることもできるのではないか。
 
 さらに書紀では、日本に聖王(崇神天皇)がいると聞いて来日した阿羅斯等が大加羅国に帰国する時、垂仁天皇から「御間城天皇(崇神天皇)の御名に因んで本国の名を改めよ」と言われたので、大加羅国は国名を「弥摩那(みまな)国」と改めた、とある。垂仁天皇の治世は3世紀中頃から後半と考えると朝鮮半島に任那という国は存在していないが、阿羅斯等が大加羅国王子であること、日本の聖王を慕って来日したこと、帰国時に任那の国名を与えられたこと、など一連の話はのちに任那日本府を置いて統治(属国化)したことを正当化するための背景になる話として創作されたのだろう。


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