私は尾張氏が丹後へ移る際、神武に服従して葛城に定住していた大海氏を同行させたと考えている。つまり大海氏はこのときに里帰りを果たすこととなった。大海氏は葛城に定住したあと、尾張氏と非常に近しい関係になっていった。だから尾張氏は丹後へ移る際に大海氏を頼ることができた。大海氏の本貫地は丹後国の加佐郡(現在の京都府舞鶴市)にある凡海郷(おおしあまのさと)である。勘注系図によると、饒速日命は大和に遷って登美屋彦(とみやひこ)の妹の登美屋姫を娶って可美真手命(うましまでのみこと)を設けた後、丹波国に戻っている。やはり、大海氏は饒速日命の系譜にあったと言えるのではないか。
一方、葛城に残った大海氏から出た尾張大海媛が崇神天皇の妃となる。この媛の名はまさに尾張氏と大海氏の親密な関係を表している。神武王朝は崇神王朝との対立を解消するために腹心の部下である尾張氏と大海氏との間にできた娘を差し出したのではないだろうか。この媛、天孫本紀によると別名を葛木高名姫命という。葛城に住み、高貴で美しく名の通った媛であったのだろう。
書紀の崇神紀には尾張大海媛と同じく崇神天皇の妃として紀伊国の荒河戸畔の娘の遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまくはしひめ)が登場する。その注記(一伝)として大海宿禰の娘であることが記されており、葛城に近い紀伊国に大海氏がいたことがわかる。また、時代が下った飛鳥時代、凡海麁鎌(おおあまのあらかま)なる人物がいて、大海人皇子(後の天武天皇)の養育に関わったとされ、大海人皇子の名は凡海(おおあま)氏の女性が皇子の乳母であったことから付けられたとされている。その縁からか、大海氏と親密な関係にあった尾張氏が壬申の乱にて大海人皇子の味方に付き、天武天皇即位に尽力している。また、686年にその天武天皇が崩御した際の殯において故人と縁のあった者が順に誄(しのびごと)を述べる儀礼が行われたが、最初に誄を述べたのが大海宿禰麁鎌であった。このように大海氏(凡海氏)はその後も一定の勢力を維持し、神武王朝の流れを汲む天武天皇から重宝される存在となっていった。
さて、丹後に移った尾張氏と大海氏であるが、尾張氏は丹後国造として丹波氏を名乗った一族と、丹後からさらに愛知に移って尾張国造として勢力を拡大した一族に分かれた。国造本紀に、成務朝のときに天火明命の十三世孫(勘注系図では十世孫または十一世孫、先代旧事本紀にある尾張氏系図には記載なし)の小止与命を尾張国造に定めたことと、尾張国造と同祖の建稲種命の4世孫にあたる大倉岐命を丹波国造に定めたことが記されているのは先に見た通りである。一方の大海氏であるが、こちらは地元で海部氏を名乗り、丹後国一之宮である籠神社の神職(社家)として丹波国造を支えながら連綿とその系譜を継いでいった。勘注系図によると、饒速日命は丹後に戻った後、最後は高天原で娶った佐手依姫命(さでよりひめのみこと)とともに養老三年に籠宮に天降ったことになっている。また、尾張氏が尾張国造として丹後から愛知に移る際に海部氏や丹波氏を同行させたことが想定される。現在の愛知県西部には「海部郡」や「あま市」があり、これらは海部氏が居住した地であろう。また、丹波氏は愛知で丹羽氏(尾張丹羽臣)となった。
なお、丹後国は大和葛城の神武王朝と同盟関係にあったと書いたが、神武王朝と敵対する崇神王朝はその丹後を支配しようとして四道将軍のひとりである丹波道主命(たにはのみちぬしのみこと)を派遣している。
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一方、葛城に残った大海氏から出た尾張大海媛が崇神天皇の妃となる。この媛の名はまさに尾張氏と大海氏の親密な関係を表している。神武王朝は崇神王朝との対立を解消するために腹心の部下である尾張氏と大海氏との間にできた娘を差し出したのではないだろうか。この媛、天孫本紀によると別名を葛木高名姫命という。葛城に住み、高貴で美しく名の通った媛であったのだろう。
書紀の崇神紀には尾張大海媛と同じく崇神天皇の妃として紀伊国の荒河戸畔の娘の遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまくはしひめ)が登場する。その注記(一伝)として大海宿禰の娘であることが記されており、葛城に近い紀伊国に大海氏がいたことがわかる。また、時代が下った飛鳥時代、凡海麁鎌(おおあまのあらかま)なる人物がいて、大海人皇子(後の天武天皇)の養育に関わったとされ、大海人皇子の名は凡海(おおあま)氏の女性が皇子の乳母であったことから付けられたとされている。その縁からか、大海氏と親密な関係にあった尾張氏が壬申の乱にて大海人皇子の味方に付き、天武天皇即位に尽力している。また、686年にその天武天皇が崩御した際の殯において故人と縁のあった者が順に誄(しのびごと)を述べる儀礼が行われたが、最初に誄を述べたのが大海宿禰麁鎌であった。このように大海氏(凡海氏)はその後も一定の勢力を維持し、神武王朝の流れを汲む天武天皇から重宝される存在となっていった。
さて、丹後に移った尾張氏と大海氏であるが、尾張氏は丹後国造として丹波氏を名乗った一族と、丹後からさらに愛知に移って尾張国造として勢力を拡大した一族に分かれた。国造本紀に、成務朝のときに天火明命の十三世孫(勘注系図では十世孫または十一世孫、先代旧事本紀にある尾張氏系図には記載なし)の小止与命を尾張国造に定めたことと、尾張国造と同祖の建稲種命の4世孫にあたる大倉岐命を丹波国造に定めたことが記されているのは先に見た通りである。一方の大海氏であるが、こちらは地元で海部氏を名乗り、丹後国一之宮である籠神社の神職(社家)として丹波国造を支えながら連綿とその系譜を継いでいった。勘注系図によると、饒速日命は丹後に戻った後、最後は高天原で娶った佐手依姫命(さでよりひめのみこと)とともに養老三年に籠宮に天降ったことになっている。また、尾張氏が尾張国造として丹後から愛知に移る際に海部氏や丹波氏を同行させたことが想定される。現在の愛知県西部には「海部郡」や「あま市」があり、これらは海部氏が居住した地であろう。また、丹波氏は愛知で丹羽氏(尾張丹羽臣)となった。
なお、丹後国は大和葛城の神武王朝と同盟関係にあったと書いたが、神武王朝と敵対する崇神王朝はその丹後を支配しようとして四道将軍のひとりである丹波道主命(たにはのみちぬしのみこと)を派遣している。
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