彦中三八ブログ 

彦島中学校を昭和38年3月に卒業した同期生のためのブログ。 掲示板「彦中昭和38年卒同期会」にもお立ち寄りください。

豊前田通り

2011年07月29日 07時05分49秒 | 下関各地訪問

今回は地図上に記した赤い線を左側から右に歩きました。


豊前田通りの入口です。左に曲がれば先日アップした茶山通りです。


豊前田の衰えは時代の流れだけじゃないかもしれませんね。
これじゃ、自助努力も足りないと言われても仕方がないかも。

「晋作通り」と呼ばせたい人達がいるようですが、いけませんよ。高杉晋作に縁が
深いのはどっちかいうと、新地の方でしょう。こんなことやっちゃ、いけません。


ありました! コチトラの目に入らなかっただけなんですね。


「長府藩の家老、細川家の領地だった頃、細川家は豊前国小倉の出身だった
 ため、この地名が付けられた」と書いています。なるほどです。
当時は飛地が多くて、小倉藩との間で領地交換を何度もやっていますしね。
彦島の田の首町なんか、江戸の終り頃まで小倉藩に所属していたって、
言いますもんね。

ちなみに巌流島も昔は小倉藩の島だったのですよ。だから、小倉藩お抱えの
佐々木小次郎が武蔵と決闘する場所として舟島(巌流島)が選ばれたって
聞いたことがあります。


白いラインの区画は、有料(200円/時間)で駐車できるスペースです。
便利なので時々使います。


下関在住の野郎共は、写真を見ながら「お、このビルを曲がると俺の
馴染みの店があるんよ」と言っているかもしれませんね。


細江町までくると、以後も時々は飲食店があるんだけど、いわゆる飲み屋街
って雰囲気はピタリとなくなります。この写真は振り返って撮った一枚です。


後は茶道具を売るお店(この店、記憶があるんだけど何繋がりか思いだせない)
とか


学校の制服を売るコトウさんとかがポツポツとあります。
考えてみりゃー、当り前のことなんですけど、この季節には夏服を
飾るのですね。見た瞬間、「お、夏服だ!」とちょっと驚きました。

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久し振りに与太話を。

飲み屋街としての猥雑さが消える細江町まで来た時、
昔、栗本慎一郎氏が都市っていうのは川によって、光と闇、陽と陰、
表と裏の地域に二分されているという都市論を展開していたのを、
思いだしました。
京都に住んでいた僕には、鴨川で二分されている京都が実際にイメージ
できるので、納得しやすい都市論でした。

当時の僕は考えました。「してみると、大きな川のない町、わが故郷は
どう考えたらいいのだろう。たぶん川に代わるものは鉄道なんだろうな。
下関駅の東口と西口が表と裏の関係になるな」と考えたりしました。
「しかし、そうなると豊前田の位置が説明しづらいな」と思い、思いつきの
考えを今まで放置していたのですが、今回「そうか! 豊前田も駅西口に
なるんだ! 駅西口だったんだ!」と気づいたのでした。

戦前までこの辺りのちょっと南が旧下関駅だったことを思いだしました。

下関という町は旧駅の表・裏と現在の駅の表・裏との二重構造の中にある
んじゃないかと考えた次第です。

鉄道のない時代の表・裏のラインはどこか? 鉄道の重要性が低下しつつある
現在以降、何が新しいラインになるのか・・・なんてことを時々はのんびり
考えながら、街を見てまわっていきたいと思います。

(『裏』をマイナスイメージととらえることだけは、ご勘弁くださいよ。栗本氏も
 『裏』の方が豊穣といった感じで、むしろプラスイメージでしたからね)

by K

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