彦中三八ブログ 

彦島中学校を昭和38年3月に卒業した同期生のためのブログ。 掲示板「彦中昭和38年卒同期会」にもお立ち寄りください。

モロッコ シリーズ7 番外編

2009年12月10日 18時04分57秒 | 海外
ナツメヤシの花です。
実も同じ様な色だったので、遠くから見ると花なのか実なのか分かりませんでした。


ジャガランタの花も少し咲いていました。
と、思いましたが、実は、散った後の残りだった様です。
ジャガランタの花は、日本の桜と同じように花が先に咲いて、
後から葉が出てくるそうですから。


何と云う木か知りませんが、面白い花が咲いていたので、近づいて見ました。


そこには、ヒメアカタテハがいましたが、
これが日本のヒメアカタテハとそっくりなのです。
モロッコと日本は何万km離れているか、直ぐには分かりませんが、
こんな小さな蝶がアフリカ大陸と日本列島で、うり二つとは、思いがけないことでした。


初めて料理の写真を載せます。
僕は、現地の料理に興味が無いわけではありませんが、
いつも、食べてしまったら、何を食べたのか忘れてしまうので、
今回の旅では、食べる前の写真を撮ろうと思って出かけました。
しかし、食事の度に忘れてしまい、この昼食が唯一、形の残っている写真です。


これは、モロッコの代表的な料理で「タジン」と云います。
基本的には、スープとパンと前菜(今回は玉子料理でした)の後に、
この「タジン」がふた付きで出てきましたが、
そのふた付きの状態の写真は取り損ねました。
煮込み料理で、厚い陶製の皿にスパイスたっぷりの鶏肉や羊肉や野菜を入れて、
直接弱火にかけて作るそうです。


「タジン」の特徴は陶製の皿と特徴のある三角ふたですが、
そのふたが被せられたままテーブルに出てきたにも関わらず、
僕はその写真を取り損ねました。
なので、ガイドブックに載っている写真を転載しました。
左の様なカラフルな三角ふたが乗っていました。


これは「アイト・ベン・ハッドゥ」で見かけた現地の人の「タジン」です。
実質的には、こんなに質素な器を使用しているんでしょう。


サハラ砂漠の砂丘の上までラクダを引いてくれた「ベルベル族」の若者です。
なかなかイケメンなので、グループの女性軍に人気がありました。


このラクダは、まだ子供みたいでしたが、後ろ足の膝小僧に注目して下さい。
背中の高さが2m位ある大人のラクダに乗るには、
ラクダが完全に這いつくばってくれないと、人間様は、
その背中に乗ることが出来ません。
ところがラクダは、その長い足をみごとに折り曲げて這いつくばってくれます。
写真で分かるように、前足では人間と同じような割合の位置に膝があります。
しかし、後ろ足の膝は随分高い処にありますよね。はげているところが膝です。
次の後ろからの写真を見て下さい。
膝が2ヶ所あるみたいでしょ?足が三つ折りになっています。


僕は、以前ラクダを見たとき、ラクダには膝が2ヶ所あるのだと思ってしまいました。
ところが、間違いでした。下の位置で曲がっているのは、実は「かかと」なのです。
前の子供の写真を、もう一度見て下さい。
膝と足先の間に後ろに出たところがあるでしょ。ここがかかとなのです。
この後ろからのショットで、初めてラクダの足の形を知りました。


カスバ街道の途中のトイレ休憩の時出会った男の子です。
食用なのか?ペットなのか?


テーブルとして造られようとしているアンモナイトとオーム貝の化石です。
これは本物じゃないだろ~~! って思いましたが、本物だそうです。
こんな上手い具合に化石が出来るわけ無いだろう!って思いますよね。
実は、ごちゃごちゃに積み重なっている部分から削り残して造るそうです。
かなり、高級品です。


”可愛い子だな~!食べちゃうぞ!”


”ごちそうさんでした!” な~~って云えないライオンですが、
このライオンは、サハラ砂漠からフェズへ行く途中のアトラス山脈中腹にある
モロッコで唯一の高級避暑地イフレンと云う町の守り神でした。


これから後の5枚の写真は、イスラム建築の特徴を捉えた写真です。
一応、建築屋ですので。


イスラム建築の特徴はアーチとミナレット(塔)と幾何学模様です。










これで、モロッコの旅は終了しました。
by T

モロッコ シリーズ6 ヴォルビリス遺跡

2009年11月27日 17時41分44秒 | 海外
荒野の中の丘の上に、この遺跡は忽然と現れました。
内容については、現地ガイドの説明を聞いていなかったので、
僕は説明出来ません。 写真だけを羅列します。



























手前に写っているのは、浴場跡です。
ローマ人はお風呂好きだと云うことは周知の通りですが、
ここモロッコでは、暑いので水風呂に入っていたそうです。
一つの窪みに一人ずつ入っていた様です。







これで、モロッコの旅写真は終わりです。
by T

モロッコ シリーズ5 フェズのメディナ

2009年11月25日 17時57分44秒 | 海外
フェズの町、全体を丘の上から見下ろしたところです。


一部をアップにしてみました。


別の処をアップにしてみました。
上から見る限りでは道が全く見えません。


世界遺産フェズのメディナ(旧市街)の中で最大の門です。
私達は、ここからメディナに入って行きました。


ここからがメディナの中のスークです。


目の高さでは、人の頭しか写らないので、カメラを両手で目一杯持ち上げ、
ファインダーを見ずに撮った写真です。











ロバです。


ロバの様に見えますが、実はラバです。
ラバはロバと馬の合いの子です。
馬の♂とロバの♀か、若しくは、馬の♀とロバの♂、
どちらかの組み合わせしか生まれないそうです。どちらか、忘れました。





ハトは、もちろん食料です。


各種のオリーブです。
次の写真からは、用心して見て下さい!
ちょっと、生々しいです。


ラクダ専門店です。
右上に看板の一部が写っています。








ラバの背中で運ばれていくのは、ヒツジの肉を取られた残りだと思います。


毛皮のなめし、そして、染色場です。


今でも、自然の染料を使って、完全な手作業だと云うことです。


メディナの内側から見た住宅街です。

メディナの中の光景は、けっして観光用ではありません。
全くの日常の風景なのです。
by T

モロッコ シリーズ4 サハラ砂漠

2009年11月21日 22時22分38秒 | 海外
ホテルからサハラ砂漠のほんの入り口にあるメルズーカ砂丘まで、
ランドローバーの4WDで1時間弱かかりました。
ここからはラクダに乗って砂丘の高台を目指します。


ラクダ乗りに少し慣れたので、片手で写真を撮ってみました。
定かではないですが、星(もしくは雨粒)の様に見えるモノは、
写真に写りこんだサハラ砂漠の砂の粒子ではないかと思います。


空が少しづつ白み始めました。
私達が乗って来たラクダ達はおとなしく待機です。


サハラ砂漠の砂は鉄分を含んでいるので赤い色をしています。


うちのカミサンは、子供の様に足跡の無い砂の上を歩き廻っていました。


朝日が上がった時だと思います。


砂の峰に座り込んでいるグループの人達と、ラクダを引いてくれたベルベル人の若者達です。


朝日は完全に上がりました。








縦筋は私達が座布団代わりの絨毯を使って滑り降りた跡です。


私達が砂丘の峰にいたのは、たったの30分位です。
一日ここにいれば又違ったサハラの景色が見れるかも知れませんが・・・?
影はラクダの上から写真を撮っている僕です。


これも、ラクダの上から撮った帰り道の写真です。


エルフードのホテルに飾ってあった「サハラ砂漠のバラ」と云われるものです。
もともと透明な結晶である石膏に砂が付着して出来ているそうですが、
どうしてこんな風になるかは、まだ、科学的な解明は出来ていないそうです。


サハラ砂漠を堪能した私達のバスはエルフードを離れ、
世界最大の迷路と云われるメディナ(旧市街)の町フェズへ向けて出発しました。
サハラ砂漠はアトラス山脈の南側で、フェズの町は北側です。
だから、再びアトラス山脈を越えて行かなくてはなりません。
そして、ここは標高2178mの峠です。


ちょうど峠で一休みのためバスが止まっていると、
羊の群れが道路を横断して行きました。


私達のグループのみんなが写真を撮るために羊に近ずくと、
シープドックが何気なく羊と私達の間に入って来て警戒していました。

この後、緩やかにアトラス山脈を下ってフェズへ。
世界遺産フェズのメディナの様子は次のシリーズ5にアップします。
by T

モロッコ シリーズ3 カスバ街道

2009年11月19日 17時00分36秒 | 海外
ワルザザートの町の中にあるカスバです。
個人のカスバですがベルベル人の有力者だったので、
フランス軍が戦略的に支援していました。豪勢なカスバですね。


ワルザザートを離れてしばらくすると、小さなオアシスが現れました。
駐車場などありませんでしたが、観光バスは道端に止まってくれました。


そのオアシスにあるカスバです。
これが典型的なカスバではないだろうか?と思いました。


ブーマルン・ダディスという大きなオアシスです。


ダディス川に沿って出来たオアシスです。


オアシスと云うより田舎町と云う感じですが、普通の町と違うのは、
川から少し離れと、そこは土漠の台地が延々と広がっています。


本当に人の住める範囲は狭そうです。


電気だけは来てる見たいですが、ガスも水道もスーパーマーケットも
コンビニも無い世界で暮らしてる人達が世界には沢山いるんですね。


「トドラ渓谷」です。
土漠の台地でも、アトラス山脈に降った少しの雨を集めて川が出来ます。
その川の上流に行けば、こんな渓谷がありました。


「カスバ街道」の左側のアトラス山脈の中です。
私達の観光バスは、この渓谷を見るためにだけ、寄り道をしました。


「トドラ川」と「カスバ街道」が交叉した処が、このティネリールというオアシスです。
普通、川の両岸はオリーブとナツメヤシの栽培地ですが、
ここのオアシスには野菜畑がありました。
野菜は貴重品でしょうね。


ミナレットが無ければ、廃墟の町の様に見えなくもありません。


ヒトコブラクダの赤ちゃんです。
北アフリカのラクダは一こぶです。
アジアのラクダは二こぶなので乗りやすそうですが、
この一こぶラウダにはどうやって乗るのでしょうかね。


土漠の台地の中では、このナツメヤシの緑の中に埋もれたい気持ちになります。


ナツメヤシの実です。
ナツメヤシは大きくなるまで24~25年かかりますが、
その後400年ほど砂漠地帯に住む人達の重要な栄養源になります。
1本のナツメヤシから年間100~200kgの実がとれるので、
数本で何世帯もの家族が食べていけるそうです。

旅行中、乾燥ナツメヤシを誰かがくれるので僕も何度か食べましたが、
レーズンよりもボリュームがあり、干し柿よりも堅くて、
それでもって適度な甘さがあり、本当に飽きの来ない保存食でした。
by T

モロッコ シリーズ2 アイト・ベン・ハッドゥ

2009年11月17日 17時50分08秒 | 海外
緑豊かなマラケシュの公園です。
この後、アトラス山脈越えの山道に入りました。


山道を走るバスの中から見た、今登って来た道路です。


道の端にはガードレールなどありません。
落ちたら、引っ掛かる木もありません。間違いなく死の世界が待っています。


そんな恐怖の山道ですがヒツジの群れに出会うときは、気が紛れます。


やっと「ティシュカ峠」です。
この日は曇が多かったので4165mの「トゥブカル山」は確認出来ませんでした。
しょうがないので看板など撮って見ました。


峠を越えると風景がガラッと変わりました。
ほとんどピンクの土漠台地が続きますが、
そんな中でも小さな沢のような川の廻りには緑が生えます。
そして、小さな村が出来ます。
私達がこの小さな村の前を通った時、ちょうど村の白いミナレットからアザーンが流れて来ました。
アザーンは村人にイスラムの祈りの時刻を知らせるものです。
こんな小さな山里でも、村の中心はモスクなんですね。


世界遺産「アイト・ベン・ハッドゥ」村です。
土漠の台地の間に突然現れました。


道路との間には川が流れています。
橋はありません。川の中に置かれた石の上を伝って渡ります。


現在、ここに住んでいるのは5家族だけだそうです。
このままでは、どんどん傷んでいくので、モロッコ政府は住み着いてくれる家族を捜しているそうです。


入口は一ヶ所だけです。まさに要塞の村ですね。
この「アイト・ベン・ハッドゥ」は映画のロケ地としても有名です。
「アラビアのロレンス」やその他の多くの映画に登場しているそうです。


約500年前アラブ勢力から逃れるため、
サハラ砂漠の先住民族ベルベル人が築いたカスバです。
アラビア半島の砂漠の民ベドウィンとは違う民族だと云うことでした。


要塞の頂上からの景色です。
川の両岸の一部だけに緑が生えています。


オアシスの本当の意味は、この様な川の畔のことらしいです。
子供の頃からのイメージでは砂漠の中に忽然と現れる池がオアシスでしたが、
現実には、そんなことは無いそうです。


要塞を降りる頃、ちょうど台地の丘に夕日が当たって茶色っぽく写っていますが、
日の当たっていないピンクが本当の台地の色です。


ワルザザートに着く前に日干しレンガを造る村に寄りましたが、
モロッコの建物は、ほとんど、このレンガで造られています。
僕はモロッコに着いた当初、建物の外壁が皆ピンクなのは、
当然あのピンク色に化学塗料を使って塗装しているもんだと思っていました。
違うンですね。このピンクのレンガを積んだ上には、
同じ材料のピンクの土を使った土壁塗りだったのです。

つまり歴代の王様が皆ピンク好きだった訳では無く、
いくらかでも粘着力のある土としては、このピンク土しか無かったと云うことでしょう?  by T

モロッコ シリーズ1 マラケシュのメディナ

2009年11月13日 17時16分45秒 | 海外
メディナに向かう途中のバスの中からの撮影です。
街路樹は「ナツメヤシ」です。
路線バスも、おまわりさんも、車も、何となくヨーロッパ風でしょ。
もちろん、バスの後ろに写っているのはフランス産の古いシトロエンです。
モロッコは1912年から1956年までフランス領でした。


お向かいのスペインでも街路樹はオレンジが多かったけど、
ここモロッコでもオレンジの木が、たくさん街路樹として植えられていました。
ただし食べても苦くて美味しくない種類だそうです。


オリーブの木も沢山ありましたが、時期的に果実は、まだ熟していないようでした。
熟して黒くなるよりきれいですね。
ジャカランダの木も在りましたが、残念ながら花は、まだ咲いていませんでした。


何カ所もあるメディナの城壁出入口の一つです。
「コウノトリ」のツガイがいたので、そっちに目が行ってしまい、
城壁の門全体の写真を撮ることを完全に忘れてしまいました。


「コウノトリ」ばかりが気になります。
今回の旅行には、重たい望遠レンズは当然ながら持っ行きませんでした。


しつこいですが、もう一枚「コウノトリ」です。
彼らは、ヨーロッパとアフリカを行き来していますが、
このつがいは最近戻って来た、と云うことでした。


城壁の内側に入りました。
この写真では、どんなに長い城壁なのか?さっぱり解りませんね。
実際は、11世紀ごろ造られた長い長い城壁がメディナを取り囲んでいます。


メディナ内にあるクトゥビア・モスクのミナレットです。
イスラムのモスクには必ず、このような塔ミナレットがあります。(多分?)
今まで数多くのミナレットを見てきましたが、このクトゥビアのミナレットは
本当に美しいミナレットでした。
ちなみに屋根の上の三角矢印はメッカの方向を示しているそうです。


駐車場近くに、この「ジャマ・エル・フナ広場」があります。
通称「フナ広場」でして、メディナの中のスークで迷子になっても、
”フナ、フナ”と叫べば道を教えてもらえると、現地ガイドに最初に云われました。


このフナ広場は、かなり広いのですが、夕方からは屋台が出て、
大道芸や人波でお祭り騒ぎになるそうですが、
僕らが訪れたのは午前中だったので、残念ながら穏やかなものでした。


馬車が通っていますが、この後歩き廻る迷路のようなスークの中では、
馬車も通れない狭さです。
写真を見て気が付きましたが、右のおじさんはニワトリを何羽もぶら下げていますね。


オレンジの生ジュースのスタンドが各所にありました。
皮ごとジューサーにかけるのですが、
バケツの汚い水の中で洗ったのを見たカミさんは、
飲む前に僕を置いて逃げてしまいました。
僕は一杯だけ飲んで、お金は二杯分払いました。
と、云っても一杯 3ディルハム約36円ですがね。


いよいよスークに入っていきます。
ここからは車両進入禁止です。


この辺りから、本格的になって来ました。
でも、まだ余裕で写真を撮っていました。


ちょっと目を離した隙にグループのみんなの姿が見えなくなりました。
この写真の前方にいたのですが、現地ガイドさんが待ってくれなかったら、迷子になったかも?
カミさんだって、グループの他の人達だって自分のことで精一杯ですから。


少し余裕のある処で撮った写真です。
今風に言えばスイーツ屋さんですが ・ ・ ・ ・ ?


こんな大きなアンモナイトがあるんですね。
午後から行く山岳地帯は、大昔は海だったそうです。
このおじさんが現地ガイドさんです。


何となく面白ろかったので撮ってみましたが、何屋さんなのか解りませんでした。
ガイドさんに聞く暇などないのですから。


路地の小さなお肉やさんです。
肉屋の前には、必ずネコがいました。
イスラム教徒はネコを特に大事にするそうです。
なにか理由があったのですが、忘れてしまいました。


肉の卸屋さんですかね?
ぶら下がっているのは、多分、ヒツジ! 豚では決してありません。
店の奥でしているような雰囲気でした。


最後になりましたが、迷路の中の単なる壁の写真です。
気が付きましたか?
全ての写真に写っている建物の壁の色がピンクだったことに!
正確には赤とピンクの間ぐらいですが、モロッコ全部がこの色です。

赤ピンクの町はどうして造られたか?
歴代の王様が皆、色好みだったのか?
その答えは、後日。                by T

ブルネイ その4 マングローブ

2009年05月18日 17時25分51秒 | 海外
チャーターした船でブルネイ川の上流へ向かいます。
左の女の子は、現地の旅行社のガイドさんです。



だいぶ奥地に入って来ました。
この辺りから、4人が目をこらして鳥を探しました。
いつも最初に見つけてくれるのは、当然、船頭さんでした。


最初はサギの仲間です。
日本のチュウサギぐらいの大きさでした。
同じ様なサギは、探さなくても、そこら辺に沢山いたので、
途中から船頭さんに「パス」と云って先に進んでもらいました。



この鳥は、なんと云う名の鳥か知りません。
でも、なんとなく日本には居ない様な感じなので、載せてしまいました。



この鳥も名前は分かりません。
多分、巣の中には卵があるのでしょう。
私達が近づくと、始め、巣を離れましたが、直ぐに2羽で戻って来て、
それからは、1羽が巣に入り、もう1羽は近くを飛び廻っていました。



テングザルです。
このテングザルは、ボルネオ島固有のサルで、
このサルを見に来るだけのツアーもあるそうです。


私達のボートが近づくと、さすがに「せわしい人間どもだな~~」って感じで、
ゆっくりと、移動を始めました。



でも、完全には逃げる様子もなく、好奇心があるのでしょう、
すばらくは、こちらの様子を伺っていました。



そして、ついに発見しました。
カワセミ(キングフィッシャー)の仲間です。
もちろん日本にはいない「ナンヨウショウビン」と云う名の鳥です。



くちばしの先には泥が付いています。
カワセミの仲間は崖に横穴を掘って巣にするそうなので、
巣作りの途中なのかも知れません。
近くに、もう1羽いたので、多分「つがい」だと思います。



船が近づいても、悠然としていました。



川を低空で横断して反対側の低い位置で、すごく良い場所(マングローブの根)
に止まってくれたんですが、小さなスコールが来て、これ以上は無理でした。
でも、ボルネオ島で、この写真が撮れたことに大満足でした。


他にも、数種類の鳥の写真を撮れましたが、見栄えのする写真はありません。
と云うのは、川べりにはマングローブが生い茂っていて、視界がききませんが、
小鳥が、その中に入っていると、動く姿は見えるけど、全体の姿は見えない、
という状態ばかりだったのです。
ちなみに、鳥の居るところは、ほとんど船頭さんが教えてくれたので、
なんとか写真に撮ることが出来ました。
バードウォッチングのチャーターは初めてだったみたいですが、
さすが、大自然で暮らす住民の目は凄いですね。
船頭さんに、感謝です。

by T

ブルネイ その3 熱帯雨林

2009年05月15日 17時07分15秒 | 海外
熱帯雨林の中の川を6人乗りボートで上流へ向かいます。
途中、マレーシアを通過するので検問所で船を下りて、
パスポート検査と国立公園の入園手続きがありました。



公園内の船着き場で船を下りると、直ぐに山道でした。
前日も大きなスコールがあったので、その山道は最悪の状態でした。
元々、平らな道はなくて、熱帯雨林の木の根が半分以上表面を占めているのですが、靴の裏に濡れた泥が付いているものだから、木の根の上は危なくて歩けません。道の両側の張られたロープを握って、ゆっくりゆっくり、
平らなところの選びながら歩きました。
そんな状態だから、歩くだけで精一杯だったので途中の写真はありません。
30分ぐらい歩くと、急な山道になりましたが、
ここには、ちゃんと木製の階段が作られていました。
息絶え絶えに登っているところを、カミさんに撮られてしまいました。



30分ぐらい急な階段を登ったところに、
工事現場で使う仮設足場で作られたタワーが出現しました。
これが、ジャングルトレッキングのハイライトの60mタワーです。
なんで、こんなものがジャングルの中にあるかと云うと、
本当のジャングルの山の中には展望のきく場所などあり得ないので、
熱帯雨林の上まで人間が顔を出せるところを作ったのです。
この上に登ると初めて、廻りの景色が見渡せる訳です。



「タワーの高さは60mあります」と聞いた時は「そんなばかな~」って思いました。
やはり、すこし裏がありました。
タワーは全部で4本建っていました。
1本のタワーは、それぞれ36mぐらいです。
仮設足場材の組み合わせだから計算すれば解ります。
1本目を登ると次のタワーまで吊り橋が架かっています。
山の斜面にあるので次のタワーは1本目より少し高い位置に建てられています。
だから1本目のタワーの頂上から吊り橋で2本目に渡ると、
そこは2本目のタワーの中間部分にたどり着くわけです。
そこで2本目のタワーの頂上まで登ると、こんどは3本目のタワーの
途中に行く吊り橋が架かっているのです。
これを繰り返すことによって、最初のタワーの根元から最後のタワーの
頂上までの合計で60mを登ることになります。



これが最後のタワーです。
先着の西洋人の若い女性2人が動く度に揺れるので、私達と同伴の奥さんは、
タワーにしがみついていました。



僕も高いところは苦手ですが、途中で下の写真を撮って見ました。



頂上からの景色です。
少年の頃は、アマゾンのジャングルに行って見たいと、
よく思っていたものですが、実際に、ボルネオのジャングルに入ってみると、
この様な人工の展望台でもない限り、
ジャングルの中は樹木ばかりで(当たり前だけど)視界が聞かず、薄暗くて、
けたたましいセミの鳴き声ばかりで気持ちの落ち着くところではないですね。



タワーを降りて来て一息入れているところです。
一番奥の若い子は現地旅行社のガイドさんです。
その手前の女性は、ブルネイに単身赴任している大使館職員の奥さんです。



帰り道も写真が撮れたのは、この木製階段部分だけです。
この階段が終わると、まじで危険な下り道をロープに捕まりながら、
慎重に船着き場まで戻りました。



帰りの川下りは本当に気持ちの良い行程でした。
でも、浅瀬ではけっこう舟底を川底の石に「ガガガ~」っとぶっつけていました。



これぐらい川が緩やかだとジャングルの中も、なかなか心地良いものです。



途中、熱帯雨林体験ツアーの子供達に出会いました。
ブルネイの小学生たちです。
自分たちの財産である熱帯雨林の保全の重要さを
教える授業の一環だと云うことでした。


余りにも、彼らが可愛い笑顔を振りまいてくれたので、載せてしまいました。

by T

ブルネイ その2 水上の町

2009年05月13日 17時23分41秒 | 海外
首都バンダルスリブガワンの人口は5万人です。
その内、3万人がブルネイ川で水上生活をしています。
水上の町は、川の対岸側にあります。
後ろには、熱帯雨林のジャングルが広がっています。



ボートを持っていない住人(特に女性)や観光客は、
この写真の様な屋根付きの乗り合いボートを利用して川を横断します。



水上の町には、車が走る道路以外はなんでもあるそうです。
もちろん、電気、水道、ガスは、ちゃんと引かれていました。
驚くことに、下水道管も配管されていました。
ただ、どこで処理されているのかは、聞き損ねてしまいました。
これはイスラム教のモスクだと思います?
もしかしたら、病院だったかも?



これは、間違いなくイスラム教のモスクです。
写真に撮り忘れたけど、学校やマーケットも当然ありました。



住人の人達は、こんなボートで行き交いしていました。



ここは、乗り合いボートの発着場ですね。
バス乗り場と同じ状態です。



ボートから直接入られる住宅もありました。



町の中は、このようなウッドデッキ(今風に云うなら)の通路が
張り巡らせてあるそうです。



涼しげな風景でしょう?
この時は、すでに夕方でした。
でも、日中は気温35度以上はありました。年中真夏です。


数年前、かなり大きな火災があったそうです。
その直後、スルタンと政府は、陸上に一戸建て住宅を何棟も造って、
水上生活者に、出来るだけ早く移住するように勧めたそうです。
もちろん無償で、ですよ。
でも、ほとんどの人達が移住しないで、昔のままの生活を続けているそうです。

理由は、川の上の方が陸上より涼しいからだと思いました。
でも、本当の理由は「蚊」です。
この水上の町はブルネイ川の河口です。
いわゆる汽水域なのです。
ここでは、マラリヤを媒介する「蚊」が発生しないのだそうです。

で、彼らは、陸上の町側の岸辺に自家用車をずらりと止めて
川をボートで横断しながら生活しています。
「ところ変われば品変わる」ですね!

by T

ブルネイ

2009年05月09日 19時43分39秒 | 海外
清潔感あふれるホテル前の通りです。
首都バンダルスリブガワンの中心地より少し離れていますが、
大きな公園の中に町があるような感じです。
これが本当にアジアの町なのか?って思う程です。



イスラム教のモスクより高いビルは建てられないと云うことです。
だから、この辺りからは、高いビルは見えませんでした。
車は、やはり日本車が多いのですが、皆、新しいか、
もしくは綺麗にしていました。
ちなみに、日本が占領していた太平洋戦争時代以外は、
イギリスに統治されていましたが、
1984年に、そのイギリスから独立したばかりの非常に若い国です。
当然、車両は日本と同じ左側通行です。



現ボルキア国王の即位25周年に合わせ、
8年間かけて建設された「ニューモスク」です。
正面門から入った場所からの撮影です。



「ニューモスク」は正式には「ジャミヤシル・ハサニル・ボルキア・モスク」
と云うそうです。
正面玄関のキャノッピーです。



正面から見ると裏側にある約5000人が一度に入場出来る礼拝堂です。



写真の順番を間違えました。
これが、正面玄関です。
大理石は当然イタリアから取り寄せたそうです。



そして、裏玄関です。
礼拝堂には、普通、こちらから入るようです。
もちろん私達も、礼拝堂に入りましたが、内部は撮影禁止でした。
その広い床には、サウジアラビアで製作されたじゅうたんが
敷き詰められていました。
内部もモスクとは思えないほど絢爛豪華でした。


このモスクは、ブルネイで一番新しく、今の豊かな経済力をあらわすものです。
当然、これはブルネイの、ほんの一部分ですが、
一方、豊かな熱帯雨林の自然も、この国は守ろうとしています。

次回は別のブルネイを紹介する予定です。   by T

クロアチア

2008年12月24日 18時03分37秒 | 海外
港から見たシベニク旧市街の風景です。
アドリア海に面した港町の雰囲気が良く現れていると思います。



トロギールの「カメルレンゴの砦」です。
この砦もアドリア海に突き出ています。
15世紀、トロギールを支配したヴェネツィア人によって建造されました。
支配者であるヴェネツィア人は外敵に対しても、トロギールの市民の反乱に対しても、
この砦を造って身を守らねばなりませんでした。



トロギールのなんとかと云う修道院です。
旧市街の道を歩いていると、こんな教会が突然現れます。



順序が間違っていますが、シベニク旧市街の市庁舎だと思います。



シベニクの聖ヤコブ大聖堂です。
完全に石材だけで造られているそうです。
建築には1431年から1535年まで100年以上かかっており、
その間、ゴシック様式からルネッサンス様式に変更されたことが、
この大聖堂の見どころです。



聖ヤコブ大聖堂の内側からみたステンドグラスの丸窓です。



スプリットのディオクレティアヌス宮殿です。
ローマ帝国の皇帝だったディオクレティアヌスが305年に引退した時
余生を送るため故郷のスプリットに建てた宮殿です。
世界遺産ですが昔から人が住み付いていて、現在もその状態が続いています。



同じ世界遺産の敷地内の市場です。
写真に写っている人達は皆、スラブ民族の特徴を持っているように思われます。
ロシア人、ポーランド人も同じスラブ民族です。



一番南の町ドブロブニクを出発して、元来た道を北上して帰ったのですが、
途中までアドリア海に面した、この様な道が続きました。



楽しみにしていた「プリトヴィッツェ湖群国立公園」の看板ですが、
もし、天気が良ければ、僕の理想とするトレッキングになる予定でした。




でも、ご覧のようにみぞれの最悪の天候でした。



足下は凍結もしくはシャーベット状で本当に危険でした。
予定のコースを短縮して、船で戻ることにしました。



1時間半歩いた末、迎えのボートが来ないかも知れないと聞かされ、
皆、不安な30分を過ごしました。
ボートが来たときの嬉しかったこと。



オーストリアのクラーゲンフルト空港です。
人口約9万人の山の中の小さな町です。でも、空港があります。



40人乗りのプロペラ機で無事、ウイーンに到着しました。


陽光降り注ぐアドリア海に面した町に比べると、
海から、たった200km位しか離れていないのに
内陸部の気候の変化の険しさを見せつけられました。
by T

スロベニア

2008年12月20日 22時30分50秒 | 海外
スロベニアの初日の朝一番、最初に撮った写真です。
宿泊したブレッド湖近くのホテルの前の通りですが、この道の真正面がブレッド湖で、
車がスリップすると、そのまんま湖に落ちそうな道路でした。
前日、ホテルに着いたのは真っ暗な夜だったので、
晴天の朝のこの雪景色は、気持ちが良かったです。



スロベニアで最も有名で観光客の多い湖と云うことなので、どんなにすばらしいところかと思っていたら、森に囲まれた静かな湖と、その中の小さな島に教会があるだけで、
それ以上、特別なものを感じさせる湖ではありませんでした。
それは、多分、僕がこの教会や地方の歴史、背景を知らないからだったのでしょう。
外国人を功山寺に連れて行った時のリアクションみたいなものです。



でも、この写真を改めて見直してみると、静かな森の中で、さらに静かにたたずむこの教会には、
凛とした美しさがありました。



前にも書きましたが、この小島へ行くには、このような手漕ぎのボートしかありません。
湖を汚さない為です。
スロベニアの人達が、この湖と教会を大切にしている気持ちが伝わります。



この湖に接する100mの絶壁の上には、朝日の当たるヨーロッパアルプスの風景を
見て楽しむために造られたようなブレッド城がたたずんでいます。
確かに、スイスやフランスやオーストリアからは、朝日の当たるアルプスは見ることが出来ません。
それがスロベニア人の自慢だそうです。



そのブレッド城ですが、旅費の安い冬にしか訪れるしかなかった僕たちには、
この雪道は、ちょっと危険でした。


by T

ドブロブニク

2008年12月17日 18時15分24秒 | 海外
掲示板に載せた写真は、
この写真の右奥の山から撮ったドブロブニク全体の写真です。
この写真に写っているのは新市街地で、旧市街地は右下の道路よりさらに右側で、
海に向かって張り出しています。
旧市街の城壁が道路の右側に少し写っています。



旧市街地の海側は、岩壁の上に造られた城壁で囲われています。



旧市街地は、この様な城壁で外周を完全に囲われています。
地上に降りることなく城壁の上だけを歩いて、旧市街地を一周することが出来ます。
距離にしたら約2kmですが、写真を撮りながら、うろうろ歩いたので約1時間半も
かかってしまいました。



ここは、旧市街地に接する新市街地です。
城壁の外側です。



旧市街地の旧港です。
船を修理するためのアーチ型出入り口がある壁も城壁の一部ですが、
1995年の戦争で破壊され、その後、修復されたヶ所が左部分に残っていました。



城壁の上から見た旧港です。
よく見ると、城壁の至る所に、戦争の爪痕が残されていました。



城壁の上から見た旧市街地です。



旧市街地の唯一のメインストリートです。
手前がエントランス広場です。城門の上からの写真なので、真下にある噴水広場は写っていません。



新市街地から城門をくぐって旧市街地に入って来た処がエントランス広場ですが、この広場に噴水がありまして、渋谷君の息子さんが風船を取り合ったと云う場所です。



メインストリートの突き当たりです。



振り返ってエントランス広場の方を見たところです。



メインストリートからは、こんな小道が旧市街の中を張り巡らせてあります。


もう少し丁寧に説明したいのですが。 by T

モンゴルの風景 その5

2008年08月10日 10時34分27秒 | 海外
1206年、チンギスハーンは全モンゴルを統一します。
世界史上最大の帝国、モンゴル帝国の誕生です。
それから800年の2006年、モンゴル建国800年祭が盛大に行われました。
その時、モンゴル国軍騎馬隊によるチンギスハーンの物語ショーが
ウランバートル郊外の大草原で行われました。
規模は縮小されましたが、今年も7月と8月の限られた日にちだけショーが行われました。
そのショーを見に行って来ました。

丘の向こうから騎馬隊が現れます。









この広さのフィールドでショーは行われました。



統一前の群雄割拠の時代を表現します。































そして、フィールド全体を使って戦いが始まりました。



同時進行で、あちらでも、こちらでも戦いが繰り広げられます。



本当に、何処を見たら良いのか分からないぐらいでした。



敵に引きずられている兵士もいました。



















チンギスハーンの登場です。



世界史上最大の帝国、モンゴル帝国の誕生です。



フィナーレですが、これもすごかった。
私達のいる観客席に向かって、真っ正面から突っ込んできます。








この時、観客席の最前列には僕を入れて三人しか残っていませんでした。
皆、後部に逃げてしまってました。もちろん、ホコリが凄いからです。

今年は500人の国軍の兵士がショーを行いましたが、800年祭の時は
2000人参加したそうです。
どんなにすごいショーだったことでしょう!

byT