彦中三八ブログ 

彦島中学校を昭和38年3月に卒業した同期生のためのブログ。 掲示板「彦中昭和38年卒同期会」にもお立ち寄りください。

彦島&下関の地形図の今昔①

2014年02月03日 18時50分16秒 | 昔の彦島・下関

1896年(明治29年)に作成された下関の地形図を、ネットで発見。
作成したのは帝国陸軍測量部(今の国土地理院)だそうです。

大和町がない!ってことは大いなる違和感がありますよね。
でも、伊崎町・海士郷間の海峡を小瀬戸と呼ぶのは、この地図の
方がなるほどって、分かります。
安徳天皇の御遺体が、伊崎の浜に流れ着いたってのも、納得しますよね。

大和町のあるエリアには、もともと浅瀬があったんだってことが
分かりました。
だから埋め立てが比較的容易だったのでしょうね。

彦島の本村は埋め立てで、すでに海に張り出しています。

彦島に生まれ育った人間としては、彦島側はだいたい
判ります。
でもね、本土側がもう一つ、ピンとこないのです。

すぐに判るのは、彦島道路の彦島大橋が架かっている伊崎町の
西南部だけでした。


それで、今の地図を3D風に加工したやつを取り出して比較
してみました。


当てずっぽうに地名を入れてみました。
違うどーって言うのはかんにん! あくまで「当てずっぽう」だかんね。

いやー、本土側は唐戸以外は、地形の特徴を町名にしていルことが
よーく分かります。

書き込み忘れたけど、竹崎の隣の今浦町も、もともと浦(入江)だったんだと
分かります。

伊崎を書き入れる場所、ちょっと迷ったんだけど、右側にしました。
新地町の名前が示すように、江戸時代の初期までは、標高からいって
厚生病院のちょい奥まで海だったと思うのです。

となると、伊崎はちょい大きめの岬ということになる訳でして、当時の
街びとは竹崎に近い方のでっぱりを、「伊崎」と認識してたんじゃ
なかろうかと思った訳です。

唐戸も江戸時代の初め頃まではかなり奥まで海だったみたい。

拡大すると分かり安いんだけど(ctrlキーを押しながらマウスのダイヤルを
動かす)、豊前田通りは入江町までしか通じてなかったみたいですね。
岬之町(ハナノチョウ)の丘はまだ切り崩されてなかったことが分かります。

※「おおい、彦島の南側も出してくれーや」と、江浦小、角倉小出身の
 同期生に注文されるの必至なので、次回は彦島南部を取り上げますね。
By K

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