![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/a7/a34049cfeeaa7116da4c6794e60af1d3.jpg)
1896年(明治29年)に作成された下関の地形図を、ネットで発見。
作成したのは帝国陸軍測量部(今の国土地理院)だそうです。
大和町がない!ってことは大いなる違和感がありますよね。
でも、伊崎町・海士郷間の海峡を小瀬戸と呼ぶのは、この地図の
方がなるほどって、分かります。
安徳天皇の御遺体が、伊崎の浜に流れ着いたってのも、納得しますよね。
大和町のあるエリアには、もともと浅瀬があったんだってことが
分かりました。
だから埋め立てが比較的容易だったのでしょうね。
彦島の本村は埋め立てで、すでに海に張り出しています。
彦島に生まれ育った人間としては、彦島側はだいたい
判ります。
でもね、本土側がもう一つ、ピンとこないのです。
すぐに判るのは、彦島道路の彦島大橋が架かっている伊崎町の
西南部だけでした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/a7/f1c7e64efd252b470f87b0d8c79bf399.jpg)
それで、今の地図を3D風に加工したやつを取り出して比較
してみました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/e7/fb74642e3cab2a6f6be33eb28a2a6200.jpg)
当てずっぽうに地名を入れてみました。
違うどーって言うのはかんにん! あくまで「当てずっぽう」だかんね。
いやー、本土側は唐戸以外は、地形の特徴を町名にしていルことが
よーく分かります。
書き込み忘れたけど、竹崎の隣の今浦町も、もともと浦(入江)だったんだと
分かります。
伊崎を書き入れる場所、ちょっと迷ったんだけど、右側にしました。
新地町の名前が示すように、江戸時代の初期までは、標高からいって
厚生病院のちょい奥まで海だったと思うのです。
となると、伊崎はちょい大きめの岬ということになる訳でして、当時の
街びとは竹崎に近い方のでっぱりを、「伊崎」と認識してたんじゃ
なかろうかと思った訳です。
唐戸も江戸時代の初め頃まではかなり奥まで海だったみたい。
拡大すると分かり安いんだけど(ctrlキーを押しながらマウスのダイヤルを
動かす)、豊前田通りは入江町までしか通じてなかったみたいですね。
岬之町(ハナノチョウ)の丘はまだ切り崩されてなかったことが分かります。
※「おおい、彦島の南側も出してくれーや」と、江浦小、角倉小出身の
同期生に注文されるの必至なので、次回は彦島南部を取り上げますね。
By K
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