彦中三八ブログ 

彦島中学校を昭和38年3月に卒業した同期生のためのブログ。 掲示板「彦中昭和38年卒同期会」にもお立ち寄りください。

半世紀前の下関

2020年07月11日 22時39分50秒 | 昔の彦島・下関
新型コロナウイルスで世の中が騒然とする中で、同期会も開催が見送られ、そうこうするうちに、九州や、中部地方では河川の氾濫と、とんでもない状況に落ち込んでしまい、その上、コロナも再び感染が広がるかもしれないとう状況になり、何とも言い難い気分ですが、皆さんお元気でしょうか。
少しでも、平穏だった(と思っていただけかも知れない)時代を振り返えってみたいと思っていた所、何と、半世紀以上前の写真が(少しですが)出てきました。
まだ、関門橋が無かった頃ですね。

撮影日の正確な日付は分かりませんが、DPEでプリントした日付が、印画紙の裏に残っていました。
撮影した日付は分かりませんが、「16.10.69」とあるので、おそらく1969年の夏なのでしょう。私が22歳の頃です。もう50年以上も前か!嘆

関門海峡を何枚か撮っていますが、横パノラマ写真にできず、2枚の写真として撮って残していました。
一枚に合成しようとしたのですが、色調を合わせるのがむつかしく、合成はあきらめて、そのまま2枚の写真として、ご紹介します。
おそらく、日和山の上からだと思います。
海峡の海面が良く見えていますね。




九州への出張帰りに下関に立ち寄って撮った写真を、2014年に『何年前の下関だろう』として写真をいくつかご紹介しましたが、その時の写真と比べてみても、まだビルが少なかったことが分かります。
ビルの屋上の大きな看板も「住友生命」だけだったことが分かります。

下関のメインストリートです。茶山口付近でしょうか。

山陽電軌の電車もまだ健在です。
基本的にあまり変わっていないように感じるのは現在を余り知らない私だけかもしれませんが・・・
自動車も懐かしいデザインのオンパレードですね。


老の山に登っての写真も関門海峡を2枚の写真にして撮っていました。



大和町もほとんど昔のままですね。
その中で目立つのは下関駅前の焦げ茶色の山口銀行のビルですね。
そして何より、嬉しいのは、風師山のテッペンがホントにデベソであったことです。

目を西に転ずると、(今は無い)新しいベンチ越しに六連島が見ます。


当時は下関駅西口にあった大丸(今は駐車場になっているところですね)の屋上からも写真に撮っていました。

丁度、ガードを抜けて西口の停留所に向かうサンデンバスが写真に写っています。
西口のバス停でバスを待っていると、時々、蒸気機関車から2ミリはあろうかという大粒の煤がバラバラバラと降ってきたことを思い出します。

関門海峡方面を望むとこんな感じです。



残念なのは、この角度から右、即ち、大和町方向の写真は撮っていなかったようです。
漁港も撮っていました。


大歳神社(だったかな)の境内から、何という名前だったが思い出せませんが、小さなデパートの屋上越しに懐かしい下関駅舎です。

あの、大きかった三角屋根の中は広いコンコースで、東口と西口がそのままつながっていて、西口と東口は完全に一体だったのが良かった。
「中華第一楼」も懐かしいですね。
専門大店も懐かしい。ここで、レコード「帰ってきた酔っ払い」を買ったのを思い出します。


by W


懐かしい彦島の写真

2020年02月01日 00時21分22秒 | 昔の彦島・下関
気が付いたら、新しい年になって早くも一か月が過ぎていました。
最近、古い資料を整理していたら、印刷発行年が記載されてないけれど、昭和46年ごろに制作されたと思われる造船所のパンフレットがあり、パラパラとめくっていたら、懐かしい写真が掲載されていました。
もう、その造船会社もなくなって久しいですが、
新しい投稿ができてないのを補う意味を込めて、
少しばかり紹介することにします。。

1.本村にあった造船所の航空写真です。
懐かしい街並みです。

本村小学校の坂道を降りたところにあった役所跡や
黄紺川バス停付近の様子がよくわかります。
小学校本体校舎も急ごしらえの校舎も懐かしいですね。

2.田の首にあった造船所の航空写真です。

小学生のころ、進水式を近くの神社から眺めていたのを思い出しますが、さて、神社はどこだったっけ。

3.懐かしい、捕鯨船です。

「25利丸」
解体されてほんの一部が三百目付近に展示されていますが、解体せずにそのまま保存できなかったのかと残念です。

4.最後は、彦中に通う登校路にあった、ドックハウス「大鯨寮」です。

byK君、元気かア。たまには投稿してくれよオ。


by W


何年前の下関だろう

2014年07月15日 00時04分44秒 | 昔の彦島・下関
古いものを整理していたら、古い写真が出てきました。

もう何年前になるでしょうか。
多分、九州に出張になった帰りに下関に寄ったときだと思うのですが、
はっきりしません。

下関にいた頃お世話になった老師に会いに行ってきたときの物です。

細江から丸山に向かって坂道を上がり、
途中からわき道に入ってしばらくいくと教会が見えてきます。

老師はその教会の近くに住んでおられました。
そのときの記念写真です。

われながら、自分の若さに驚きです。ホント「わかっ!」と思いました。

尽きない話をして老師と別れて、教会脇の道を登っていきました。

幼い頃、親父に連れられて上った小道でした。

下関も坂道の多い町ですよね。
この坂道を登りきると、日和山の水源地?に出ます。
幼い頃、親父と眺めた下関の街並みが広がって見えるのが好きでした。
左に梅光女学院を見て、右に何枚かに分けて撮りました。
パノラマにすればよいのですが、小さくなるので、あえてそのままです。








日和山と言えばわれらが高杉晋作像ですね。

傍に猫もいました。

思わずパチリです。
幼い頃から猫は大好きでしたからねえ。

日和山の階段の上付近だと思うのですが、
そこからの展望です。

当時は、まだ十分海峡が眺められたのですね。
昔、この近くにおばの家があったので、
幼い頃、その窓辺から海峡を行きかう船を眺めて
時間の経つのを忘れていました。
そんなことを思い出しながら眺めてました。

階段を降りて、再び細江に出て、
別に意味も無く、警察署を撮ったようです。

正面の階段が、正面でありながら、なんとなく裏口のような
なんともいえない雰囲気の建物だったのが印象的でしたからね。


by W

「関門海峡・昨今」(ただし、27年前の)

2014年03月09日 18時35分06秒 | 昔の彦島・下関
書棚に突っ込んであった古い雑誌(JAF MATE 1987年10月号)に
当時の(即ち、今から27年前の)関門の記事がありました。


表紙の写真に捕鯨船が写っていて、
その中に「第二十五利丸」と読めるものがあります。
現在も大和町側の水門付近に繋留されていますね。

雑誌なので、記事はそのまま読んでもらおうと、
可能な限り読めるサイズにしたつもりです。
多少読みづらいかもしれませんが、ご容赦。

表題は、「関門海峡・昨今」となっていて、
下関と北九州の関門地区についての紹介記事です。

しかし、記事の中に「今回の取材では彦島方面を主として走り・・」と
あり、ぜひ紹介したいと思った次第です。

最初に目に飛び込んで来るのは、
懐かしい下関漁港を竹崎と海士郷とむすんでいた渡船の
海士郷桟橋です。

この写真の頃は、海士郷と竹崎間だけでしたが、
それでも2隻もあって、乗船客もそれなりにいて
重要な脚であったのですね。

そのページの左に、漁港の写真です。

写真の横に、説明があります。
「下関港埠頭から見た彦島の造船所、その他」
とあり、取材記者にも、当時の彦島の造船所群が
印象に残ったのでしょうね。

現実には、造船不況の真っ只中だった頃ですね。
この記事の年の前後頃でしょうか、林兼造船がその幕を閉じたのは。

ページをめくると
八幡、若松、更に門司の記事が続きます。




そして、門司の和布刈の料亭からの関門海峡の写真が
見開きで載ってました。


僕のA4サイズのスキャナでは一度に撮れず
二枚に撮ったのを「ペイント」でつないだものです。
何せ、ノートパソコンの画面の制約から、どうしても脚部が切れてしまって、
写真中に書かれていた説明がカットされてしまいました。
しかも、サイズが一番小さくなり、迫力に欠ける写真になってしまいました。

更にページをめくると、
関門の魚介類の紹介です。

門司の料亭で出された料理とのことですが、
記者は、唐戸の市場ものぞいてみたようです。

最後にドライブメモが載ってます。

当時は、まだ九州道が小倉東IC~八幡IC間が未開通だったようですね。
彦島への彦島大橋が300円の料金が徴収されるが、
「この橋から小倉方面や響灘の眺めは料金以上のものがある」と絶賛です。

たったこれだけの、こんな感じの記事でしたが、
短い記事ながら、懐かしさを改めて味わったことでした。


by W

地形図(完) 伊能図大図 下関周辺

2014年02月11日 09時51分40秒 | 昔の彦島・下関
古い地形図をつぶさにみていくと、やはりもっと古いのはないのかと
思ってしまいます。

そうだ、幕末の長州藩が、四境戦争に備えて作成した「馬関海峡測量図」があるではないか。
狩野芳崖も彩色を手伝ったというあれです。


そうこれです。
福浦湾の塩浜側と、本村新町(本村3)の沿岸はすでに埋め立てられています。

それと梅光学園の中・高等部辺りは、昔は大きな池があったような感じです。


これが今の彦島です。ずいぶんなメタボですね。


もっともっと古い地形図は? となると、それゃ伊能忠敬の例の地図しかないよね。
「大日本沿海輿地全図」と正式には呼ぶんだそうですが、面倒くせーので、
「伊能図」と呼ばせていただきます。

伊能図でいっちゃん詳細なのは「大図」なのですが、これがネットでは
中々いいのが見つからないのです。


でもでも見つけだしましたよ。アメリカ議会図書館に大図のデータが
保存されていましたので、下関の部分を引き出してまいりました。

これは彦島エリアを拡大したものです。

①彦島は「引島」となっていますが、だからといって伊能忠孝ご一行が
 この地を測量当時、「引島」と皆が呼んでいたかというと、そうではないと思います。
 昔、藩が幕府に届けた名称が「引島」になっているんで、ま、「引島」を
 正式呼称にしとくか・・ぐらいのものだったのかもしれません。

②老町、本村を含めて、当時(1806年)は「海士浦」と呼ばれていたんだ。

③江の浦の三菱病院跡地の辺りが、「鎌崎」となっています。
 うちの遠い親類の屋号がまさに「鎌崎」でして、この辺りです。たしかに
 この地図では、「崎=岬」だったのが、よく分かります。


①本土側に赤間関後地と数ヶ所、記されていますが、この「後地」とは、
 かっては沼地や湿地、河原、浅瀬や干潟だったところが開墾や改修、
 埋め立て等によって、「新開地」になった場所・・・っていう意味では
 と勝手に推測。

②岬之町、観音崎のところで、今の豊前田通りは岬の先端を迂回してたんですね。


綾羅木や安岡、長府辺りです。


吉見中学出身の方あたりから、吉見の近くもアップしてくれんかいのー・・
なんて言われそうな気がすんので、吉見や吉母辺りもアップしておきます。

これで、今回のシリーズは終わります。お付き合い、ありがとうございました。

※「アメリカ議会図書館」に実際、行ったんやろかと、ちょっと誤解を招くような
 書き方をあえてしています。んなことはありません。わたしゃパスポートも取った
 こともないし、自慢じゃないが英語もしゃべれんのです。

 「アメリカ議会図書館(伊能大図)へのリンク」という言葉で検索してください。
 英語がさっぱりなワタクシでも、なんとか入れました。

 「JPEG2000」という圧縮形式のファイルをダウンロードできます。
 でも、普通の画像ビューワでは見られませんので、その辺はあなたの
 周辺におられる詳しい方に教えてもらってね。

BY K

地形図 大和町の変遷③

2014年02月06日 13時21分46秒 | 昔の彦島・下関
いやー地形図ってのは暗いね。
自分でアップしておきながら、言うのもおかしいのですが、
地形図は地味でくら~いね。
他人がアップしたのなら、「くら!」で飛ばし読みでしょうな。

地形図なんてのは、余程のディレッタントでない限り、ちと辛いもの。
強いて興味が持てる地形図は自分が住んでいるエリアだけだもんね。

若い時に下関を離れて久しく、遠くに住む同期生の皆さん、ごめんなさい。

発作的にだけど、偶然下関の昔の地形図を集中して探しました。
今は興味持てないだろうけど、興味わいたとき、そういえば、あいつが
アップしてたなと思い出して頂ければ幸い。
地味な連載、ま、こらえてつかあさい、でございます。


1931年(昭和6年)製作の地形図です。

①大和町部分はすでに半分近く、埋め立てられてますな。

②何故彦島側から埋め立てられたかと言うと、当時、彦島西山町から本土側の金毘羅山
 辺りまで大防波堤を築いて、関門を大国際港にするという構想があったみたい。
 (途中で計画は頓挫したみたい)

③彦島の江ノ浦側も同時に埋め立てられています。当時、彦島は豊浦郡の飛地。
 市町村レベルの埋め立てでなかったことが分かります。

④厳流島も埋め立てが始まっています。

⑤この時代は今は亡きオフクロの少女時代、小暮実千代と同学年で女学校は違えども、
 同じ渡船で本土に通ってたそうですよ。「ベッピンさんやった」と生前言っておりました。
 

1964年(昭和39年)の地形図です。

①そうそう、今マルハニチロや三菱重工がある辺りは埋め立てが完成してなかった。
 小学生の頃、この辺まで遠征して、貝を採りました。アサリはそんなにいなかったが、
 赤貝は時折1mぐらい汐を吹き上げるので、発見が容易で、面白かったことを
 覚えています。

②水門の竣工は1936年(昭和11年)。関彦橋(木製)の竣工は1947年(昭和22年)で、
 コンクリート製の竣工は1954年(昭和29年)だったそうです。
 へー!? 彦島と本土が橋でつながったのは、水門の方が早かったんだと、
 ちょっと驚きました。

 僕らが生まれるわずか11年前に本土に繋がったのか! 人間、生まれる前の
 出来事は超セピア色にしてしまう習性があります。
 ましてや、俺らの世代、戦中・戦前は「ひどーい、非民主的、暗い」と
 教えられたんだ。反省、反省!

 今得た情報をフラットに理解しようじゃないかと、この歳になって遅いかも
 しれないけど、これからは間違って思わぬ長生きすっかもしれないからね、
 フラットに理解しようと思います。

by k

彦島&下関の地形図の今昔②

2014年02月04日 21時49分59秒 | 昔の彦島・下関

1897年(明治20年)の彦島南部の地形図です。


これが今の彦島南部です。


①福浦湾は江戸時代初期には、少なくとも福浦口までは海だったのでしょうね。
 また塩浜方面は塩浜の郵便局のあたりまでは、海だったんでしょうね。

②江ノ浦、弟子待、田の首の埋め立ては、始まってます。

③厳流島は本来の姿のままですね。

④江浦商店街は、どうして道幅が狭くて湾曲してるんだろうと思ってたのですが、
 元々の海岸線の道だったんですね。
 江も浦も入江という意味です。
 地名には昔の姿がインプットされています。安易に変えちゃいけないよね。

⑤ようく見ると、田の首の左横の丘陵には、筋山砲台が記されています。
 前回の彦島北部の地形図にも、老の山の砲台が記されているんですよ。

By K

彦島&下関の地形図の今昔①

2014年02月03日 18時50分16秒 | 昔の彦島・下関

1896年(明治29年)に作成された下関の地形図を、ネットで発見。
作成したのは帝国陸軍測量部(今の国土地理院)だそうです。

大和町がない!ってことは大いなる違和感がありますよね。
でも、伊崎町・海士郷間の海峡を小瀬戸と呼ぶのは、この地図の
方がなるほどって、分かります。
安徳天皇の御遺体が、伊崎の浜に流れ着いたってのも、納得しますよね。

大和町のあるエリアには、もともと浅瀬があったんだってことが
分かりました。
だから埋め立てが比較的容易だったのでしょうね。

彦島の本村は埋め立てで、すでに海に張り出しています。

彦島に生まれ育った人間としては、彦島側はだいたい
判ります。
でもね、本土側がもう一つ、ピンとこないのです。

すぐに判るのは、彦島道路の彦島大橋が架かっている伊崎町の
西南部だけでした。


それで、今の地図を3D風に加工したやつを取り出して比較
してみました。


当てずっぽうに地名を入れてみました。
違うどーって言うのはかんにん! あくまで「当てずっぽう」だかんね。

いやー、本土側は唐戸以外は、地形の特徴を町名にしていルことが
よーく分かります。

書き込み忘れたけど、竹崎の隣の今浦町も、もともと浦(入江)だったんだと
分かります。

伊崎を書き入れる場所、ちょっと迷ったんだけど、右側にしました。
新地町の名前が示すように、江戸時代の初期までは、標高からいって
厚生病院のちょい奥まで海だったと思うのです。

となると、伊崎はちょい大きめの岬ということになる訳でして、当時の
街びとは竹崎に近い方のでっぱりを、「伊崎」と認識してたんじゃ
なかろうかと思った訳です。

唐戸も江戸時代の初め頃まではかなり奥まで海だったみたい。

拡大すると分かり安いんだけど(ctrlキーを押しながらマウスのダイヤルを
動かす)、豊前田通りは入江町までしか通じてなかったみたいですね。
岬之町(ハナノチョウ)の丘はまだ切り崩されてなかったことが分かります。

※「おおい、彦島の南側も出してくれーや」と、江浦小、角倉小出身の
 同期生に注文されるの必至なので、次回は彦島南部を取り上げますね。
By K

懐かしい写真

2013年03月24日 20時33分51秒 | 昔の彦島・下関
僕は卒業アルバムっものには、からっきし興味が持てなかった人間でして、
ひょんなことから彦中同期会に関わるようになって、慌てて卒業アルバムを
捜したものの、結局見つけることができず、同期生から借りました。

高校のアルバムにいたっては、なくして残念だと嘆く同期生がいましたので、
ほんなら僕のをあげる、どうせ見ないんだから気にせんでもええよと、あげて
います。

ところがところがです、これまたひょんなことから高校のアルバムが必要に
なりましてね。N君に無理を言って借り受けまして、スキャン、切り抜き、
ネーム入れ等をやっておる次第です。

そんな中で、このブログを読んでくださっている方々にも興味が持てる
懐かしい写真がありましたので、アップさせていただきます。


国道の方の関門トンネルですが、これは今も現役ですし、時々画像や映像を
見ることがありますので、懐かしいってことはありません。
懐かしいのは昔のサンデンバスです。ああ、そうだ昔のはこんな感じだったよなと
思いだしました。


おお、長府外浦町にあった今は亡き旧水族館の勇姿です。
ペンギン館も見えます。昔のペンギン館は照明が暗くってね,雰囲気はもっと
暗かったんだ。一度見たらもういいやっていう代物のペンギン館でした。
今の水族館のペンギンの展示スペースは、下関にしては珍しい素敵な空間だけどね。

鯨館は今も残っているけど、このように遠くからすっきり見えるポイントは
今はもうありません。


壇ノ浦町の検潮所近くから撮影しています。
しばし、違和感を持ちました。しばらくして分かったのは、そうだ、今はあって当然の
関門橋がないのが、「違和」だったのです。

この景観は景観で、鄙びた感じでいいですよね。


本日一番の目玉がこれです。(だから写真もちょっと大きいよ)
特に本村小→彦中コースの同期生には懐かしい写真だと思います。

ちょっと角度は違いますけど(この写真は『水源地』の丘から撮っていると思います)、
本村小からいつも見えていた建物が写っているではありませんか!

おお、どでかかった冷凍・冷蔵庫のビル! おお、林兼造船! おお、マルハの船!
おお、大洋アパートまで写っている! のです。

By K

アディオス・パンパ・ミーア

2011年05月15日 16時24分54秒 | 昔の彦島・下関
40年前の老の山の頂からの、北浦の海岸から関門海峡の巌流島にいたる展望です。
雑草が主役ですが、走りまわれるほどの草原(僕には)でした。
しかも、360度の展望をほしいままに出来た世界です。
パーゴラのあるベンチが一番高い場所にあって、視界を遮るものが何も無かったことが分かりますね。
彦島を去るに当たってこの写真を撮りながら、タンゴのアディオス・パンパ・ミーアを鼻歌で口ずさんでいました。
45年ぶりに訪れた老の山には、私の草原(パンパ)は既にありませんでした。

by W

本村小 裏山からのパノラマ

2011年05月14日 10時03分30秒 | 昔の彦島・下関

今から40年前の本村小学校裏山から見た、老町から本村方面にかけての関門海峡展望です。

まだデジカメの無い時代。写真を切り貼りしてパノラマ写真にして楽しんでいた昔の写真を見つけ出したのですが、糊が劣化してバラバラになっていたので、改めてスキャンしてから繋ぎ合わせました。

一部、フィルムに起因する傷もあったので、レタッチしたのですが、その場所が、風師山の稜線に掛かっていたのでデベソが当時の実際とは変わってしまったかも、です。
by W

旧々下関大丸と旧下関大丸

2011年01月22日 18時13分10秒 | 昔の彦島・下関
下関大丸の7階に古い大丸の写真を張っているコーナーがあります。


昭和34年まであったこの旧々大丸の写真は時々見ることができますが、
左奥の大映がメッチャ懐かしいじゃありませんか。拡大してみると、
ちょっと手振れではっきり写っていませんが「新平家物語」と書いて
いますね。道路をはさんだ前には東映もありましたし、あの頃の
「西口」は賑やかだったですよね!


旧々大丸の食堂です。うん!こんな感じでした。


昭和34年~52年の旧大丸。わずか18年間の歴史だったんですね。


昭和39年でも女性店員の制服は、まだまだダサかったのですね。
それに「平成の小顔ブーム」の今では考えられない、
「でかいヘアースタイル」が流行っていたようです。

by K