彦中三八ブログ 

彦島中学校を昭和38年3月に卒業した同期生のためのブログ。 掲示板「彦中昭和38年卒同期会」にもお立ち寄りください。

モニュメント

2017年07月07日 23時44分35秒 | 下関各地訪問
細江から唐戸の間は、昔は倉庫が並んでいましたが、
海峡を眺めながら歩くのが大好きでした。

昔を思い出しながら、歩いていると
モニュメントがいくつか並んでいまそた。

懐かしい船名「興安丸」です。
幼い頃、下関駅近くの国鉄桟橋の近くに長く係留されていましたが…

説明板を読んで、はるか昔に解体されていたことが分かりました。

興安丸の錨も一緒にモニュメントとして
置かれていました。

近くに捕鯨船「第25利丸」のモニュメントが置かれています。

説明板と並んで、捕鯨砲

スクリューと錨

スクリューは5枚羽根
さすがキャッチャーボートですね。
キャッチャーボートのモニュメントの写真は昨年秋に撮ったものです。

そして、第25利丸の説明板の横にもモニュメントがありました。
何かのシャックルです。

一体何のモニュメントだろうかと辺りを眺めましたが、それらしきもは無く、
どういうモニュメントかは分かりませんでした。

更に、唐戸に向かって歩いて行くと、錨のようなものが無造作に置かれています。
もちろん、ちゃんと防錆の塗装を施されてですが。

昭和17年10月 三菱長崎造船所と記されたものや、

昭和18年3月と記されているもの

等があります。
これらはいったいどこで何のために使用されていたものか知りたいと思ったのですが、
それを示すものは目に入りませんでした。
由緒あるものであれば、興安丸のように、説明板があればなあと思いました。

眼前に広がる海峡と風師山を眺めていると
横浜・山下公園の氷川丸のように、船と一体化した
観光施設の可能性は無いものかと思ってしまいます。
例えば、下関の造船所で生まれたフェリーなどは
宿泊施設や、車を置く空間をイベントホールとして、とか・・・
難しいんかなあ

by W
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「おまけの華山」補遺

2017年06月22日 08時34分31秒 | 下関各地訪問
「おまけの華山」の記事の補遺です。

最初に華山に自転車で登った翌日、タワーに登り
華山がタワーから眺められるかどうか確認しました。

この方角かなと思う方向の写真を撮ったのが、この写真です。


中央より少し左側に、遠くの山の更にその遠くに、
うっすらと少し頂上の平坦な山が見えてます。
これが、華山です。
望遠でないカメラだったので、これが精いっぱいでした。

神上寺に自転車で行った日の午後遅く、改めて
望遠レンズ(正確には「テレコンバータレンズ」)をつけた別のカメラを持って
タワーに登って撮ったのが「おまけの華山」の写真です。

この補遺の写真で、どの方角に華山が眺められるか、分かりますヨネ。



by W
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おまけの華山(と、その他もろもろ)

2017年06月21日 22時37分53秒 | 下関各地訪問
神上寺に行って、小月から自転車を車に積み、
ホテルに戻ってから、海峡夢タワーに登りました。
目的は、「華山」がタワーから見えるのかを確認するため。

その結果、タワーから眺められる山々の更に向うに、
山影に隠れるように、華山の山頂を見つけることができました。

小月から田部に抜ける峠から撮った写真の通りに
アンテナが並んでいるのが分かりました。
この写真を撮るのに、2日続けて展望台に上ってしまいました。
僕の肉眼では無理でしたが、
備え付けられているコイン望遠鏡を使えば、十分眺められました。
カメラは、約40倍の望遠にしてです。

ということは、あの華山の頂上のアンテナドームより、
タワーのドームの方が大きいから、
華山の頂上からでも眺められるかもしれませんね。

展望台に各方角の写真が掲げてあり、
近くのポイントと、海の向こうの海外の街について説明がありますが、
タワーから眺められる山々の名前も書かれていると、
もっと興味深く、タワーからの景色を楽しむことが
できるではないかと思いました。

タワーからいろいろと眺めた写真等もついでに付録参加です。
関門海峡を自動車運搬船「HOEGH AUTOLINERS」
が西に向けて航行していました。

折しも護衛艦が下関港「あるかぽーと」に係留していました。



艦名は「まつゆき」でした。


老の山の頂を望遠で撮りました。

日傘をさして誰かが立っているようですね。

老の山からタワーを望遠で撮ってみたのですが、
ガラスに阻まれて、展望室の中の様子は無理でした。


僅か数日の下関滞在でしたが、
夕暮れの関門海峡はどこも、懐かしく、センチメントな気分に
なってしまいました。



by W
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華山3

2017年06月17日 02時16分33秒 | 下関各地訪問
これまで、足を踏み入れたことの無い、
華山の麓に昔から建っている神上寺に、
初めて足跡を残してきました。

山門を眺める階段状の参道まで
自転車で来ると、大きな字で「下馬」と書かれた
看板です。

自転車が発明された最初の頃、
「ホビー・ホース」と呼ばれていたらしいので、
ここは下馬とある以上、歩いて入るしかないナ。
と、自転車を停めて、参道を歩いて山門に。

山門のあるお寺では、そのお寺の仁王さんを写真に撮るのが
僕の趣味。
左側の仁王です。

そしてこれが右側の仁王。

だいぶ傷んでいるけれど、力強さは十分です。

山門の隅に神上寺の由来記が足元に置かれていました。


山門を潜り抜けて本堂までの参道を
登っていくと、遠くに古い鳥居と手前に橋のようなものが
目に入りました。

あの石の橋は何か外界との境界等の象徴なのだろうかと思いましたが、
脇に回ってみると、その橋の下は、ちゃんとした(?)小川で、
橋そのものでした。


木々は、夏を迎えて、緑の葉っぱが元気です。

紅葉の季節は、さぞかし美しいのでしょうね。
道を挟んで、イチョウとカエデが競い合っているところもあります。


登り切ったところに本堂がありました。

屋根の中央最上部に毛利家の紋が付けられています。


本堂前には広場が広がっていましたが、
この広場は何なのでしょかね。

この広場を歩いていると、ところどころに木の実を
まき散らしているようなものが目に入りました。

傍にはそのような樹もないなあ、と
よく見ると、シカの糞のようです。
十数年前、相生から山奥に入った播磨科学公園都市というところで
仕事をしていた時、夜になると、10頭くらいの鹿の群れが
道路を歩いているのを見て驚いたことがありますが、
このお寺も、夜になると、鹿の群れが歩くのでしょうかね。

この境内を歩いていると、赤色が印象的に目に飛び込みます。
参道の脇に列をなして鎮座している像達です。

どれもみな、赤い毛糸で編まれた頭巾を付けています。







「雪舟の庭」と書かれた案内板がありました。

指し示す方向に行くと、庵があり、その前に
庭が広がっています。

始めはどのような庭か、よく理解できなかったのですが、
しばらく眺めていると、小川や石組みが目に入ってきて、
庭園なのだと理解できるようになりました。

なかには大きな石を根が抱え込むように立っている樹もあります。

雪舟のいた頃は、この樹はどれほどの樹だったのでしょうかね。
まだ、生えていても、石を抱え込むほどではなかったかも
しれません。
振り返えって庵を見ると、にじりぐちを備えた茶室を伴った庵でした。

この茶室を伴った庵は雪舟の時代のものなのでしょうか。

境内を散策してから自転車に戻る途中で、
このような世界を目にしました。

切り倒された樹の幹の一部が放置されていて
その幹から生えた草木が静かな一つの世界を作っていました。
土台となる幹が朽ちるまでの・・・

神上寺を後にして、小月まで戻り、
少し休もうと小月駅の待合のベンチに腰かけると、
上部からチチチチと鳴き声が聞こえています。
見上げるとツバメの巣に4羽のヒナが仲良く並んでさえずっていました。

華山山麓神上寺の境内での静の生と
チチチチとエサを求めて鳴いているヒナの動の生
どちらも今を生きる「生」なのかなと思わされたことでした。

山の静かな寺の境内を歩いてきたからでしょうか・・・


by W
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華山2

2017年06月14日 11時50分07秒 | 下関各地訪問
華山の頂で、お弁当を食べ、田部を眺めながら、
華山を下山した後の予定を見直すことにしました。

華山の登山でかなり消耗してしまったのは確かだったので、
無理をしてバテて同期会を欠席するのは恥。
神上寺は、同期会の翌日に小月から自転車で訪ねることにしました。

自転車では、登りはしんどいけれど、
下りはダウンヒルと呼ばれ、本当に気持ちの良いものです。
が、華山は急な坂道で、且つ曲がりくねっており、
対向車にも気づきにくいほど、木々が茂り、
ブレーキを掛けながらの下降で、写真もろくに撮れていません。

下山して、出発点の道の駅蛍街道西ノ市に向かう途中、
振り返ると、田植えの終わった田圃に華山が静かに映り、僕を見送ってくれていました。

全ての田圃がこのようになって、
「豊田」の名に恥じない町でありつづけることを祈念しつつ、第一日は終了。

翌々日の朝、小月駅近くの駐車場から自転車で出発して、
改めて、華山山麓を楽しみます。
今回は鉄道線路跡でなく、主要道路を走りました。
まずは、小月で最初に目にとまったのは道標です。

右 かみがた道(上方道)
左 とよた道(豊田道)
山陽道から豊田に入る分岐点に立っていたのでしょう。
道路整備の期間保管して、整備が終わってからこの地に据えたとあります。
歴史を大切にする気持ちがうれしいですね。
そのまま、豊田町に向かう「本町通り」を北上します。

この写真では、たまたま車が写っていませんが、
結構車の往来は多く、自転車で走るには、人がいないときは歩道を走らないと
危険を感じるくらいでした。

順調に自転車は小月から田部に向かって走り、峠から
二日前に登ってきた華山の頂を望みます。


望遠で山頂を撮ると、こんな感じです。

一昨日現地で見てアンテナ群の位置が分かっていたので、
望遠で撮った写真が身近に感じられます。
白い丸いドームの左の大きなアンテナが、山頂の三角点に最も近いものです。
そして、そのアンテナの手前部分に山肌が見えていますが、
そこが、「蛍のおにぎり弁当」を、田部を眺めながら食べたところです。

今回の自転車散歩での大きな成果は、
去年見落としていた、長門鉄道のトンネル跡を見つけたことです。

去年うっそうと茂っていた雑草、雑木が取り除かれていました。

草木が取り除かれて、地面が露出しているのが嬉しい。
その先にトンネルの入り口が見えているのが目に入ったときは
まるで少年そのもので、ワクワクしてしまいました。
とうとうトンネルの入り口にたどり着きました。

少し足を踏み入れて、中に入ってみました。

カメラの感度を相当あげているので、
向う側が、漏れてきた灯りで明るく写っていますが、肉眼ではかなり暗く、
そのまま向うに出るのは危険だと思い、止めておきました。
一年越しの宿題を片付けた気分で、トンネルを後にしました。
峠を越えて、トンネルの向う側に出ましたが、
やはり雑木林が鬱蒼としており、どこにつながっているのか分かりませんでした。
このトンネルを生かしてサイクリングコースを整備するというのも面白いだろうな
と思います。

猿候塚も去年のまま迎えてくれました。


しばらく去年走った道をポタリングして、華山方面への分岐点にたどり着きました。

左に進み、更に次の分岐を神上寺方面へ真っすぐ進み、
神上寺と、引地君(ひきぢきみ)の墓、近松門左衛門生誕の地を目指します。

しばらく進むと、引地君の墓への標が目についたので、
それに従って進むと、山道に入るように道標がありました。


自転車で登れるようなものではないので、
自転車を置いて、歩いて登ります。
積み重なった落ち葉に足を滑らせながら登っていくこと数分、
石塔が見えてきました。

この石塔が引地君のお墓のようです。

説明板の記載を読んでみたが、ちょっと分かりづらい。
「引地君」とは生前の名前なのか、それとも
この地にとどまったことから名づけられた「おくりな」なのか?
そもそも、宗麟の娘(マセンシャ)が引地君であるとは書いていないが、同一人物なのか?
多分同一人物のことだろうと思うしかないんだが・・・
国語が苦手だった僕はチョット考え込んでしまいました。

少し引き返して、さらに先に進むと
近松門左衛門出生の地の碑が目に入ってきました。

説明板がありましたが、ほぼ水平に傾けて設置してあり、
太陽の光をもろに反射していて読みづらいのはご容赦です。

文面からは、まあ、伝説の域を出ないもののようですね。

この近松門左衛門の碑のすぐ先が神上寺の山門です。

相当年季の入った山門です。維持に苦労しているさまがしのばれます。


一息ついてから、山門をくぐることにしましょう。


by W
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華山1

2017年06月10日 22時53分29秒 | 下関各地訪問
去年、同期会で下関を訪れた時、
小月から西市、道の駅蛍街道西ノ市まで
サイクリングしましたが、
その時、来年(即ち今年)は華山に自転車で登ろうと
心に決めていました。
ただ、脚力の衰えは否めなかったので、
六甲山を自転車で攻略するために購入した新兵器(電動アシスト付き)を
持っていきました。

フェリーで新門司に着いたら、

道の駅蛍街道西ノ市へ直行です。
が、一か所立ち寄りです。
いつものように、朝日を受けている関門海峡と下関の街を眺める為、
メカリPAに入り、車を降りて、ギョッ!
封鎖状態でした。


仕方がないので、そのまま小月インター経由、西ノ市に直行です。
途中、小月と田部との境の峠で、これから自転車で登る
華山を望みます。

峠の頂からは、太陽光発電パネルが邪魔なので、
少し下がったところからパチリです。

さらに下がって、昔、小月から田部方面に走っていた古いバス道の方に進みました。

正面に華山が眺められます。

そして田部のバス停からも。


しかし、旧道なので、このバス停に停まる便は非常に少ないですね。

しかも、よく見ると、日曜・祝日は全便運休だとか。
結局、農村は車社会になり、ますますバスは減り、年を取り、車も運転できなくなると、
どこにも行けない。日本中がそのようになっていくようですね。

とにかく、今日は自転車だ!と先を急いで、西ノ市です。

家に帰って写真をシゲシゲと眺めると、
何と「めだか」も売っていたようです。写真左端の旗をご覧ください。
自転車を組み立てて、道の駅の案内所に寄ってコースの確認です。
壁に表示していた大きな地図が割とわかりやすかったので、カメラに収めました。


さて、お弁当を買い、「しものせき観光支援自販機」なるもので、
飲み物を買って出発です。


去年、小月から西市まで走った長門鉄道線路跡の道を少し南下です。

正面に華山が神々しくそびえています。
まるで、モーセが登ったシナイ山のよう。・・見たこと無いけど・・

暫く南下して、華山方面への分岐点です。

案内通り華山方面に進み、暫くすると、更に
神上寺方面への分岐点に出ます。

先に神上寺に寄ると、華山の登りが遅くなると思い、
神上寺は、帰りに寄ることにして左方向、華山に向かいます。


正面に華山を眺めながら走りましたが、
気になる風景が広がっていました。


辺りの田圃が殆ど耕されておらず、雑草に覆われていました。
今は田植え時なので、少なくとも耕されて、水が張られていてもおかしくないのに、
見渡す限りと表現しても決して大げさでないほど、「田圃跡」のようでした。
後継者がいないのでしょうか。
考えさせられました。

道路との境には、好きな雑草の一つですが、
アザミが多く見られました。

傍を流れる江良川も興味深いものでした。

川の底が、小石や砂でなく、板状の岩でした。

道も次第に登坂になり、「アシストオフ」ではきつくなってきて、
一番弱いアシストにしてしばらく進んで、
ようやく「徳仙の滝」に到着です。

幼い頃歩いていた道が「えっ? こんなに狭かったっけ!」
と同じで、はるか昔に連れて行ってくれて素麺流しを楽しんだ、
あの徳仙の滝、こんなに狭いところだったっけ!!!
もっと広い広場があったように思っていた。

説明板が金属だったので、反射して読めませんね。

徳仙の滝を過ぎると、登りはさらにきつくなり、
ただただひたすらペダルを漕いで登ります。
振り返って登ってきた道と木立をみると、
その坂のきつさが分かります。


ところどころで下りのあることを願っていたのですが、
全く当てが外れて、とにかく登る角度の緩急はあっても、
下りは全くありません。
途中、こんな石碑が立っていました。


しかし、坂道に疲れてきていた僕は、
「こんな処になんでこんなものがあるんや?
しかも何の説明もない!」と悪態をついてしまいました。

ようやく、頂上に林立するアンテナを望めるところまで来ました。
「やすらぎの森」として整備された場所のようで、
広い駐車場があります。

しかし、散策の為の遊歩道は荒れ

説明板も落下しています。


更に登っていくと、山頂方面への道しるべがありました。
新しい標には「ランチャー台」方面だけが残り、他は落下しています。


パラグライダーのランチャー台が確かにありました。
ここから飛び降りるのでしょうか。あなおとろしや


更に進んで、ようやくアンテナの林立する頂上に到着です。

時計を見るとほとんど12時半でした。
道の駅を出たのが10時少し前。
11時半には到着のつもりでしたが、1時間以上の遅れでした。

頂上には三角点とそのそばに休憩小屋?があるのですが、
休憩小屋のベンチは壊れ、中は砂利が敷かれており、
ベンチに腰掛けることも、地面にアグラをかくこともできません。

しかたがないので、炎天下、草地にアグラをかいて
正面に広がる菊川町の雄大な景色を眺めながらお弁当を食べることに。

遠くに関門海峡と満珠干珠がかすかに望めます。
しかし、彦島は、識別できませんでした。

お弁当は道の駅蛍街道西ノ市で買ってきた“蛍のおにぎり弁当”です。

卵焼きシートと海苔で包まれた、デッカイおにぎりでした。
黄色い卵焼きシートで包んだ部分が蛍のお尻の光をイメージしている由で、
見て楽しく、食べて美味しいお弁当でした。



by W
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過ぎてから気が付く

2017年06月07日 17時50分42秒 | 下関各地訪問
下関に路面電車が走っていた青春時代、
電車の窓から眺める風景を眺めながら
いつも
「あれはいったい何だろう、
 幼いころから同じ姿で立っている。」
と思っていた。

そして社会人になってしばらくして下関に行ったとき、
電車は既に無くなっていたので、
バスで通ったとき、それはまだそのままの姿で立っていた。

この写真は、その時、バスから写した写真である。

しかし、その後、また何年かして下関に立ち寄ったとき、
その建物は消えていた。
結局、その建物のことはそれっきりとなってしまった。

今回の同期会で下関を訪れた時、泊まっていたホテルから
水上警察の辺りまで散歩していたら、小高い丘に興味深いビルを見つけた。

ふと、あのビルのことを思い出した。

確か、この辺りに在ったと思われる方向と一致するようだが、
跡地に建てられたビルだろうか。
と近づいてみると、ますます興味深い建造物だった。


古さからあのビルの跡地に建ったのではなさそうだ、と思い、
近くに行けば、分かるかもしれない。
とその丘に登ってみた。


玄関前に立つと、銘板が取り付けられていた。

登録有形文化財の銘板と共に、
「蜂谷ビル 昭和元年築」と書かれていた。
昭和元年築ということは、あのビルの跡地に建てられたものではない。

通りから眺められた壁面をよく見ると、確かに相当古い。

今は、レストランとして使われているようだった。

では、あのビルはどこに立っていたのか、と見渡したが、
分からない。少し歩くと階段で国道に出た。

階段を降りて、振り返って撮った写真である。
その近所は、売地になっていた。


もうあのビルの痕跡を見つけることはできないのか。
蜂谷ビルを調べたら、何かヒントになるものがあるかもしれない。
と調べてみたが、旧東洋捕鯨株式会社下関支店の建物だったことは
分かったが、その近所にあったと思われるあのビルのことは
分からなかった。

青春は忘れもの、過ぎてから気が付く

過ぎてからでは遅すぎるのか・・・


by W
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赤間神宮

2015年07月22日 23時58分10秒 | 下関各地訪問
最近はいろいろとバタバタと過ごしていて、
落ち着いた記事を投稿できないまま、
今回もまた中途半端な話題ですみません・・・


同期会の時、
阪九フェリーで下関に行ったとき、
最初に訪れたのは、門司の和布刈PAでした。
で、最初に眺めたのは、前回から気になっていた
赤間神宮方面でした。



前回訪れたとき、建設が始まる直前だった
マンションがどうなっているかでした。
 そうか、建ったか、
とやや重苦しい気分のまま赤間神宮に最初に足を運んできました。

そして、まずは、新しいマンションで眺望がどなっているかを確かめてきました。



ホント、海峡は以前よりもっと少ししか見えていませんでした。
そばに立てられている関門橋の説明板が痛々しいく感じられますね。

右手の山を登ると大連神社がありますが、
こからの眺めは前回と変わらず、
写真のほうは遠慮しました。

そのあと、再び赤間神宮のところまで降りてくると、
大太鼓の音が聞こえて来て、拝殿のところまで来ると、
早朝の勤行でしょうか、神主さんが幣を振っていました。


境内には私のほか誰もいなかったのですが、
私のほうに神主さんが向いたとき、
私に向かって幣を振り、払ってくれました。

まさか、僕のために幣を振っておはらいをしてくれたのではなく、
神宮の外の世界に向かって幣を払ったのでしょうが、
思わず恐縮くしてしまいました。
自分のほうに向かって幣を振るうさまはさすがに写真には撮れませんでした。

赤間神宮の正面あたり、特にマンションが立ち並んでいるすぐ右横の
料亭までもがマンションの話があり、宮司が対策・対応で奔走している
と前回訪れたとき、神主さんがおっしゃっていましたが、
その後、どうなっているのでしょうか、気になるところです。

水天門のところまで来ると、
目の前に海峡が見え、
この景色がいつまでもあるようにと
思わずにはいられませんでした。


道路を渡って駐車場から海峡を眺めると
大小の船が行きかっていて、
幼いころ、門司港まで連絡船で渡って、
気が付いたら、船の周りはとてつもなく大きな
黒船ががいっぱい並んでいたことを思い出していました。


by W
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150年 その2

2014年08月15日 13時09分40秒 | 下関各地訪問
5月、下関に行ったとき、
パンフレット等で、高杉晋作没後150年事業として、
山口県では、いろいろと企画が立てられているようでしたね。

実はそのパンフレットで「高杉没後150年記念」という文字を見て、
今年が没後150年かと錯覚していたのでした。



明治維新の前年に亡くなったのだから、どうもおかしい!と気づき、
確認すると、今年は正確には、没後147年なのですね。
来年は終戦70年、
2017年は晋作没後150年、
そして、2018年は明治維新後150年ということで
それに向けての事業のようですね。

いち早く近代化を成し遂げた日本でしたが、
その後の歴史の重みと価値を大切にしていきたいですね。
日和山からだけでなく、東行庵からも高杉晋作が見ていることでもあるし。

東行庵境内に立つ、高杉晋作像です。
ここも、日和山と同じ陶像のようですね。


by W
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150年

2014年08月11日 21時25分16秒 | 下関各地訪問
今から約30年ほど前、
母方の親戚の法事で菊川町を訪れたとき、ついでに
バスで、伯母の家のある伊佐までバスで行ったのですが、
途中でバスが東行庵近くの「東行庵入口」で停まりました。

まさか、東行庵の前を通ると知っていなかったので、
あわてて取り出したカメラでは、バス停の写真しか
撮れませんでした。

東行庵前を過ぎてからは、道々
「東行生誕150年云々」という看板や掲示板が目に付きました。

そうか、今年は高杉晋作が生まれてから150年なのかと
感慨深いものが沸いてきたのですが、
あいにく、日程的に東行庵を訪れる時間は取れませんでした。

それから、30年もの年月が経ちました。
今年、5月の同期会で下関を訪れ
東行庵を訪れたら、奇しくも
高杉晋作没後150年だとか。

家に戻ってから、「ひょっとして」と
古い写真を探したのですが、
東行庵に関する写真は上掲の写真しか見当たりませんでした。


東行庵前で今年5月に撮った写真はこれです。
方角が上掲の写真とは異なっているのでしょう。
遠景の山などを比較しようとしましたが、
二つの写真の接点は無く、
この二つの写真を撮ったのが、
かたやバスの中からという違いはあるけれど、
近くだったのかという確証は得られないままです。

今度訪れるときは古い写真も持って行き、
遠景の山を頼りに同じ地点からの写真を撮ってきたいと
思っています。


by W
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火の山4(オマケ)

2013年09月14日 12時15分39秒 | 下関各地訪問
今回の下関行きで、火の山をはからずも
二日にわたって(と言っても昼前までですが)登り、
火の山についてわずかですが紹介できました。

老の山遠望も写真に撮り、老の山にも登ってきたのですが、
老の山から火の山の写真を撮ってませんでした。

で、せっかく火の山にスポットを当てたのだから、
これまで撮ってきた写真の中から火の山が写っているのを探し出して、
長らく下関から離れていて、今回の同期会にも
これなかった人に見てもらうことにしました。

先ずは、彦島老町からの写真です。

黄紺川バス停留所からの火の山遠望です。
夢タワーとのコラボを狙いすぎて、
火の山が脇役になってしまいました。
これは、6年前の還暦同期会のときのもので、
この写真を撮りながら、そうかここから火の山が見えていたんだ
と感動?に震えながらシャッターを押していました。
6年前の写真ゆえ、周りの状況が変わっているかもしれません。

黄紺川バス停を降りてまっすぐに山に登っていくと
老の山に行き着きます。
その山頂からの写真です。

木が繁っており、山頂からでも、見れる場所は限られます。
少し下がって見晴らし広場から
火の山と夢タワーのコラボを撮ってみました。


同じく、還暦同期会の時、初めて彦島の南公園にも
行ってみたときに撮った関門海峡です。

大きな水盤のような海峡で、
「すずりの海」と詠まれたことが理解できますね。
6年前の写真ですから、同じ地点から
眺望が今もあるのかどうか・・・

これは門司港に連絡船で渡ったとき、
船の上から撮ったものです。

が、サイズサイズ指定を間違え、このサイズしかありません。

そして、去年、初めて六連島に行った時の写真の中にも
火の山はあります。

小戸の彦島大橋を潜り抜けて進むと
後ろに火の山が見えてきます。

写真を探していて、赤い浮標の「海保」の文字に、
最近の時事が重なりました。

六連島からの遠望です。

火の山から風師山、戸ノ上山のパノラマが眼前に広がって見えました。
もちろん、風師山などの手前の低い山々が彦島です。


◎最後に、オマケのオマケです。

六連島から下関に戻ってくる連絡船「六連丸」が
彦島大橋の下をくぐって、小戸に入るところです。


まだまだ下関・彦島に関してはいろんなテーマで
写真が撮れるなあと
再び下関に行ける日を楽しみにしています。


by W
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火の山3(余談・お土産編)

2013年09月10日 21時43分27秒 | 下関各地訪問
今回の下関滞在は、急な事情により、
滞在期間ははじめ考えていた計画の半分以下にカット!
その為、これまで大抵は車で山陽道を走っていたのですが、、
昼間の移動時間も勿体無い、と往復ともフェリーにしました。

ドライブしていて、懐かしい景色が目に飛び込んでくるのは楽しいものです。
しかし、運転しながら目に入ってくるのとは違って、
周囲の景色に視神経の全てをかけられるフェリーもなかなか良いものです。

朝、新門司港を目指して周防灘を航行しているフェリーから、
朝のカスミの中にそそり立っている長府の火力発電所の煙突と
満珠・干珠が微かに見え、その手前に企救半島の先端部が見えてました。


さらによく見ると、左側に火の山でしょうか。
朝モヤがなかったら、山頂の展望台を確認できたのでしょうね。


余裕の無い行程なので、下関に着いたらそのまま火の山に直行。
山頂の展望台から企救半島の先端の印象的な小山は
このように見えました。


火の山に着いても、引き続いて
その足で彦島老の山に、田の首に、西山にと飛び周り、
夕方にはby Kのお店、と予定が目白押しなので、
お土産を買う時間も無いかもしれないと
最初に立ち寄ったのは、山頂の展望台の中にある土産店。
河豚笛とか、河豚の絵柄のマグとかはもういいし・・・
と泳いでいる目に飛び込んできたのはこれでした。

「汁次」(しるつぎ)とありました。
もう何年も前からあるものかもしれませんが僕の目には新鮮でした。

このように縦長の筒状ながら河豚の特徴を生かした形状が面白いと思いました。
注ぎ口が、河豚の「おちょぼ口」を思わせるあたり、ニクイとさえ思えましたね。
この「汁次」、神戸に戻ってから、徳利として愛用しています。
300ccほど入り、僕には丁度よい大きさです。

もうひとつ、ピンズのようなものは無いかなと探したのですが、
最近は、小物はストラップか根付ばっかり。

探していたら、ありました。ただし、お店の外のガチャポン!!
しかも、「関門」即ち北九州と下関の絵柄のものがごちゃ混ぜに入れてある。
下関版が当たるか、北九州版が当たるか、まさに賭け。
ほしいものが出るまで買うのは子供じみているが、2、3個ならまあいいかと、
ここはひとつエイヤッとまわしたら、ハズレ。


今度こそは、下関が来るかなと、まわしたら、またまたハズレ。
時間が無いというのに火の山の山頂でこんな事して、まるで子供ですね。
結局、とうとう下関版を手に入れることは出来ませんでした。

・・・・ピンズもストラップ並みにお土産として並べてほしい。。。。。

で、今、「門司港駅」のピンズをショルダーバッグのベルトにつけてます。

ちなみに、門司港駅の上は、1964年東京オリンピックのピンズです。
2020年は東京に決まればいいなと一緒に着けていたら、東京に決まりました。

この門司港駅のピンズは幸運を呼ぶのかもしれません。
大切にしなくては・・・



by W
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火の山2

2013年09月07日 00時21分19秒 | 下関各地訪問
翌日、再び車を駐車場の最上部に止め、
今回は、山頂の展望台より奥の砲台跡方面に足を踏み入れ
やっと戦艦大和の砲弾に再会でした。
こんなに近くにあったとは。僕の目はどこにくっついていたのでしょう。


子供の頃って、こういうの好きですね。
昔、開催された博覧会でも自衛隊の航空機などは人気で、
子供たちが群がっていましたね。

説明板を読むと、この砲弾も博覧会で展示されたものだったのですね。
「昭和33年」の文字に目が釘付けで、
思わずあの頃にタイムスリップしてしまいました。
「三丁目の夕日」の時代ですかね。
帰ってからチョット調べてみただけでも、
海底国道トンネル、即席チキンラーメン、スバル360、スーパーカブ、月光仮面、
フラフープ、東京タワー、人工衛星、ミッチーブーム等など枚挙に暇が無いほど
少年・少女(大人も?)の心をワクワクさせるものが続々の時代でもあったのですね。


山頂にも看板がありますが、車で直接来た人向けでしょうね。
傍にデッキ展望台がありますが、
若干眺望のポイントが分かりづらいですね。
眺望をさえぎる木々は適宜剪定して高さを抑えたいですね。


奥に残っている砲台跡は、よく整備されています。
昔から変わってないというか、変わりようがないですね。
ということでいくつかをピックアップしてみました。





下が司令部で上が観測所だったようです。




観測所跡から砲台跡を見ています。
このあたりも昔と違って、周囲に木々が茂っています。

説明板が設置されています。

そして何より興味深かったのは、いくつかの施設が
機能的に連携できるように構成された要塞だったことが
説明板の図面から推察できることです。

明治維新は成し遂げたものの、
列強がすぐそこまで押し寄せてきていた時代の中で、
近代化とともに、いかに国土を守るかを考えつつ建造したであろう
当時の人たちの努力を歴史の記憶に残すのは大切ですね。


山頂の展望台の案内も、上手く要塞跡を活用しています。
眺めていると、どうしても老の山のそれと比較してしまいます。

老の山の要塞跡は壊されてしまいましたが
真っ暗な壕の中に入り、あの独特なよどんだ空気の臭いを感じつつ、
かすかな明かりを頼りに、壕の中の階段を伝って上の階に上がり、
砲台の台座近くの開口部に出る。
そうやって遊んだことが、昨日のように思い出されます。

老の山には僕らが「防空壕」と呼んでいた壕が並んでありました。
その右から3つ目の入口上部には竣工記念の碑が はめ込まれていました。
昭和40年代、彦島を離れるに際し記念として撮った写真です。

「明治20年10月起工 同23年1月竣工」と読めます。
今から約120年前の建造物だったことが分かります。。
この時代、まだ飛行機の飛んでいなかった時代だから、
「防空壕」と呼んだのは間違いですね。

この壕の入口一帯はその後埋められていましたが、
数年前の公園再整備で掘り起こされ、
竣工記念の碑がはめ込まれていた壕は、今ではこの通り・・・ 

これは、植栽の始まる直前の写真ですが、
壕がどうなったかがよくわかります。
なんと中途半端なことでしょう。
百年経てば、どんなガラクタでも一応骨董品として扱われるというのに。
こんな形で残すなら、「竣工記念の碑」を破壊する必要は全然無かった。
火の山と老の山の扱いの違いの大きさを改めて感じたことでした。

「再整備とは砕整備のことかとホーダイ山」 
 老の山のボヤキが聞こえてくるようです。


by W
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火の山1

2013年09月04日 22時33分36秒 | 下関各地訪問
お盆の同期会で下関を訪れた機会に、
火の山に上がり、昔を懐かしみながら写真を何枚か撮ってきました。
これも、久しく下関に帰ってこれない人への報告です。
撮った写真が多すぎて、整理が追いつかず、9月に入っての報告になりました。

これまで同期会の折、チョットだけ火の山の上に車で行ったことはあるのですが、
ゆっくりと散策したのは何十年ぶりかでした。

午前中の暑くならないうちだったので、
ロープウエーの営業前で乗れませんでしたが、
代わりにロープウエーの山上駅の屋上展望台に上がってきました。

僕のほかには誰もおらず、山頂のガラス越しの展望台とは違って、
自然の風が心地良く頬をなでる中、絶景を独り占めでした。



風師山も、火の山からの山容は見慣れていたとは言え、老の山からとは容姿がずいぶん違いますネ。

響灘方面も雄大に広がっています。

六連島は、老の山からとずいぶん違ったイメージです。
タンク群で六連島と分かりましたが、
タンク群がなかったら、エーとどれが六連島かな、なんて考えたかもしれません。
これ(↓)は、老の山から見た六連島です。


老の山遠望です。

老の山から見る火の山は一目で分かりますが、
火の山からの老の山は彦島の山々に溶け込んで、
すぐには分かりませんでした。
山頂の亭(あずまや)の屋根が見えますネ。

ロープエー山上駅の展望台に上がったのは、
『晴れ上がった青空の下、関門橋の下を大きな船同士が行き違うところに、
 ロープウエーのゴンドラが空中で行き違う・・・』
そんな構図の写真を撮りたいと思ってでしたが、
営業前だったので早々にゴンドラの空中すれ違いはあきらめ、
大型船の行き違いの機会を待ちました。
しかし、そんなに上手い具合に大型船同士は来てくれません。
やっと大きな船と小さな船が行き交うのが撮れました。


シャッターチャンスを待っているとき、階下から機械の動く音が聞こえてきました。
時計を見ると、9時半。お盆は特別に早朝から運転か!?
と思ったのですが、1往復だけの運転でした。
始業前の点検・試運転だったようです。チャンとやってるんですね。


次第に暑くなってきたので、再び山頂の駐車場に向かって歩き始めました。

ロープエーであがって来たら最初に目に飛び込んでくる看板ですね。
なんとなくワクワクしてきそうです。

昔はむき出しだった山頂までの道も、
今ではスッカリ森の散策道になっています。
おかげで、うかつにも蜘蛛の巣に引っかかってしまいました。


ミカンも実がついています。


お隣の国からの石像もありました。


韓国とは距離的には近いハズなのに、
昨今の心の遠さが残念ですね。


記憶では、山上駅から頂上に向かう道沿いにあったハズと、
戦艦大和の砲弾も探しながら歩いたのですが、
とうとう見つけることが出来ず、暑さもあって心残りのまま下山しました。

その夜、「byK」のお店で旧友と飲みながらこんな話をすると、
山頂の展望台よりももっと奥にあるとのこと。
早速、「明日朝、再度火の山に上ってこよう」
と思ったのでした。(続く)

by W
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久しぶりの赤間神宮観光

2013年08月24日 12時37分57秒 | 下関各地訪問
久しぶりに、いやあ、何十年ぶりにと言いたくなるくらい久しぶりに
赤間神宮を「観光」してきました。
下関になかなか帰れない(来れない)人への報告です。


道路から神宮の水天門を眺める景色は昔と変わらず美しいですね。
浦島太郎の竜宮城を思わせる水天門はまさしく絵葉書の写真の世界。

左側には、安徳天皇陵が無垢の木塀があり、水天門の色彩との対比も絶妙です。


目の前には源平合戦の繰り広げられた関門海峡が広がっており、
あるとき西に流れているながれも、いずれ東に流れ、
そしてまた西に流れる・・・・「盛者必衰の理(ことわり)」観まさに「諸行無常の流れ」ですね。


七盛塚も、50年前の昔のままの雰囲気を漂わせていました。
若い女性もこの静かな雰囲気が気に入ったようでした。


七盛塚の手前にはご存知のように「耳なし芳一」の像があります。

この像の置かれている小さなお堂の前には
次から次と観光客が訪れて、ガイドの説明に耳を傾けていました。
このときも韓国語による説明がなされていましたが、
どのような説明だったのでしょうか。
なぜか、七盛塚のほうにはあまり関心が向かいようでした。


七盛塚とは反対側、
赤間神宮の右側にはさらに上に登ってく小路があり、
その先には「大連神社」があります。


ほとんど人が上がってこないようです。
由緒記によると、満州から引き上げるに際しては、
ソ連軍の理解と保護により、持ち帰えることができたとあります。
当時の混乱の中でもそれだけの交渉できた人材がいたということですね。
こんなひっそりとした小さな神社にも激動の歴史があったのですね。

その前の境内がちょっとした展望台になっておりベンチも置かれています。
由緒記に「風光絶佳」とあるのですが、
海峡方面を見ると、かくの如しです。

マンションビルの隙間から門司のタワービルが見えます。
・・・・・・・
せっかくの景観が台無しですね。

再び赤間神宮の境内に下りて関門橋方面の海峡見ると・・

かろうじて海の見えているところも既にマンション建築予定地となっていました。

そういえば、以前は「めかりPA」から見えていたのに(2010年撮影です)


今では、赤間神宮はすでに見えなくなっています。

赤間神宮で仕事をされていた方に話をうかがうと、
更に、その傍の赤いビルとの間にもマンションが建つ計画があるそうです。

なんともはや・・としか言葉がでません。

神戸に戻ってから、かきむしられるような気持ちで、関門の景観に関して
下関市のHPをたぐっていたら次の文章に行き当たりました。

『火の山周辺では、関門海峡の入口のランドマークとなるような山々と、
赤間神宮等歴史的景観資源を含めたまちなみと、
水際、関門橋等によるシンボル的なゲート景観の形成を図ります。』

ぜひ早期実現に向けて頑張っていただいて
これ以上の景観喪失だけは防いでほしいものです。
by W
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