彦中三八ブログ 

彦島中学校を昭和38年3月に卒業した同期生のためのブログ。 掲示板「彦中昭和38年卒同期会」にもお立ち寄りください。

明石八山寺 その1

2014年01月26日 16時50分47秒 | 神社・仏閣

先週、近場へのサイクリングとして、太山寺に行ってきたことを
報告しましたが、
どうせなら、何かテーマを持ってサイクリングした方が楽しそうだと思い、
「明石八山寺」を選びました。

先週訪れたのが、明石八山寺の一つだったから
いっそのこと、八山寺の八寺を一気に回ろうと計画しました。

そもそも「明石八山寺」とは何か。
昔、明石藩が明石一帯を治めていた頃、
奈良時代から千年前の時代にかけて創建された古い寺院を
明石藩が手厚く保護したのが「明石八山寺」と言われています。

歴史の中で、これらの寺は、栄枯盛衰を繰り返したと伝えられていますが、
それでも、現在まで焼失再建を繰り返しつつ、今日まで存続してきました。

これらの寺々をグルッと一周して訪れようと決め、
コースを選んだ結果、
八山寺のあるエリアのほぼ中心が西神中央駅あたりになるので、
その近くの、神戸ワイナリー(ワイン城)をスタート地点として、
一周して最後はまた神戸ワイナリーに戻ってくることにしました。

コースの延長はほぼ50kmで手ごろですが、
明石川とその支流と、
それに並行して流れる2本の川を地域としているため、
ある谷筋から尾根を乗り越えて隣の谷筋に走ることになり、
結構しんどそうです。
しかし、決めた以上走りきらねば。

ということで、昨日走ってきました。
すべてを一回で報告するのは大変なので、
ポツリポツリと、数回に分けてご案内したいと思います。

スタート地点のワイン城前です。

以前は、茶色に見える斜面に大きく案内看板が立てられていたのですが、
チョット寂しい風景ですが、
休日ともなれば、たくさんの自動車が家族を乗せて集まってきます。

先週報告した太山寺は、山門だけを訪れました。

バス停のすぐ傍が山門です。
そしてそこから少し行くと、温泉場です。

「なでしこの湯」と名づけられて、結構、はやっています。
昨日も駐車場もいっぱいでした。

傍を流れる川は、明石川の支流「伊川」です。太山寺の境内付近では
「太山寺川」と呼ばれているようです。
そして次のお寺は「転法輪寺」(てんぽうりんじ)。
このお寺は、垂水駅そばを流れて明石海峡に注ぐ福田川流域になるので、
早速尾根越えです。
尾根を越えて、神戸市営地下鉄の総合運動公園を通り抜けていきます。
ざっと40分ほど掛かってしまいました。

広い新しい道と狭い旧道が入りくんでいて、チョット戻って
ようやく参道入口にたどり着きました。

左側の歩道は階段があり、自転車では無理。右の車道が良いよ、と
通りすがりの人に教えてもらい、車道を登り、
ようやくたどり着きました。

車の多い道路を走って、ついたお寺が、山の森に囲まれたお寺です。
これが本堂です。
え?こんなところにこんなに静かな空間が?
と思われるほど静かな境内でした。

手前が阿弥陀堂、その向こうが大師堂、そしてその向こうが本堂です。
このお寺は、806年に創建されたと伝えられているそうです。
またこのお寺の本尊は、垂水区で一番大きい仏像だとのこと。

鐘楼もそろっています。

一通り拝観したら次へ移動です。
次は「明王寺」(みょうおうじ)です。
転法輪寺から数百メートルの位置にあります。
山陽徳島道(高速道路)への入口とバイパス道路とが
複雑に交差する垂水ジャンクションのすぐ脇にありました。

このお寺も、転法輪寺と同じ頃創建されたようです。
諸堂は比較的新しく見えました。

昔は、垂水ジャンクション周辺も森だったのでしょうが、
今では完全に都会になっています。

境内の道路から振り返ってみると、正面に小学校の時計塔が見えています。
向こうの山も頂までビルがビッシリです。
ちょうど、JRの塩屋駅背後のジェームス山の辺りです。

さて次のお寺へと移動ですが、
長くなったので今回はここまでにしましょう。


by w

太山寺

2014年01月19日 22時14分47秒 | 神社・仏閣
年が明けてから初めてサイクリングしてきました。
サイクリングと言うよりも自転車散歩(ポタリング)と言った方が正確ですが。

一年中で一番寒い時期は、日が沈む前に帰り着く範囲を走るに限ります。

ということで、今年初めての自転車は、
家からそれほど遠くない同じ区内のお寺、「太山寺」です。
開山は715年頃という歴史のあるお寺です。

神戸でもまだひなびた雰囲気の残っている場所に仁王門があります。


バスの時刻表を見ると、
昼間は一時間に一本程度のような、バス停のすぐ傍です。

仁王門には、たくさんのゾウリのほか、何故かダルマや仏像などが
献じられていました。


その仁王門を潜り抜けて先に進むと、
白壁の道が続き、遠くに塔の先端が見え、
なかなか雰囲気が良いものです。


山門に着くまでに、「安養院」という太山寺の一院があります。


公開日というのが門に大書されていたので、
その説明を読むと、安土桃山時代に造られた庭が
国の文化財名勝とのこと。


春と秋に公開なので、忘れないようにしておかねば。

安養院の建物も立派な茅葺屋根です。


更に白壁に沿って進み、左に折れたと先に
山門への階段があります。


朱塗りの山門で、ちょっとワクワク感です。
また、階段左右の塀も古びていて、素敵です。

階段を上りきると、山門の向こうに本堂がデンと構えています。


朱塗りの柱に、緑青のふいた屋根が、普通のお寺とは違った
雰囲気をかもし出しています。
右手を見ると、先ほどから先端部が見えていた三重塔がそびえています。


三重塔とは反対側には阿弥陀堂が建っています。

なかなか端正な堂ですが、階段が2重になっていて、
重厚感にあふれています。

本堂も高い階段のうえにあるので、
ややゆるい坂道のある阿弥陀堂側から先にまわることにしました。
阿弥陀堂のまえの坂道を上がったところに
鐘楼があります。

この鐘楼も朱塗りです。
朱塗りの鐘楼と言うのもほかでは見かけないと思います。

鐘楼の前に護摩堂があります。

この太山寺は天台宗ということで、
護摩を焚く護摩壇が堂の前に設けられています。

そしてその護摩壇から本堂をみると、
正面からとはちょっと雰囲気の違った本堂が望めます。

何か、ちょっと奈良時代の御所のような雰囲気ですね。

先ほどの阿弥陀堂に行くのに、
階段を下りて、また上ってというのを避けて、
渡り廊下で阿弥陀堂に渡れるように廊下があります。


横から見ると、こんな感じです。


堂から堂への斜めになった渡り廊下はよく見かけますが、
地面から堂の廊下への渡り廊下というのは珍しいのではないでしょうか。

いよいよ本堂に入りますが、その前に説明書きを。


神戸市内の建造物では唯一の国宝だそうです。
正面入り口から中を覗いただけでその古い様式に
思わずゾクゾクッとします。

中に足を踏み入れると、天平時代にタイムスリップです。

蔀(しとみ)があり、かつ暗いため、内陣は良く見えません。

本堂を出て、その右手に回ると
羅漢堂があります。


羅漢堂も内部は真っ暗で、
隙間から中を覗きこむと、確かに羅漢さんたちが並んでます。


さらに東の方にある奥の院へと歩いていくと、
本堂に向かって絵を描いている人がいました。
その絵を覗き込むと、
なんと、本堂ではなく、そばに立っている樹の根元を描いていました。

樹齢何百年かの根っこの力強さに何かを感じて絵にしているのでしょうね。

少しはなれたところに奥の院への道が続いています。

写真ではわかりにくいですが、二重になった太鼓橋
(閼伽井橋「アカイ橋」)が横を流れる太山寺川を渡してくれます。

奥の院は大きな岩や石がごろごろしていますが、
稲荷舎

と、そしてこれが地蔵堂

す。

奥の院から戻ってきてすぐのところに三重塔があります。
ちかくから見あげると、堂々とずっしりした塔です。


塔の各屋根の軒の角に風鐸(ふうたく)があり、
そして軒を支えているなにやら白っぽいものが見えます。


この白っぽいものは、いろんな形をした「力持ち」で
縁の下の力持ちならぬ、「軒の下の力持ち」です。




太山寺を出て、振り返ってみると、
ひなびた山村の一角に溶け込んでいて、
斑鳩の里に溶け込んでいる古刹を思い起こさせてくれました。


by W

巧山寺 「二十八部衆立像」

2012年05月01日 07時00分00秒 | 神社・仏閣

巧山寺に行ってまいりました。


なんでも「二十八部衆立像」ってのを公開してくれていると聞いたからです。


紅葉の新緑がお日様に照らされて


やたら美しい日でございました。おいらも「いと哀し」と歌っていた平安人の
ような気分になりました。おいら、そんとき、歌わない平安人になっていた。


これが「二十八部衆立像」です。立像の顔はそれぞれに変化に富んでいて、趣のあるお顔です。
写しちゃいけないというもんだから、十数メートル離れた外から写しました。
なんだ下関にも素晴しいもんあるではないか!と思いましたね。

下関では「有名な人が褒めている」というキャッチフレーズがなければ、駄目なのかな?
とにかくいいものですので、今のうちに巧山寺に行かれることをお薦めいたします。
なにせ、4年に一度の公開ですのでね。

撮影禁止なら立像を写した写真集を売ってほしいと思うのは、オイラだけなんだろうか。


巧山寺境内にあるこの「輪蔵」も良いですよ。


二百年前に出来たものらしいですが、まだ鮮やかな色が残っています。


特に天井の絵が鮮やかなので、格子の間からデジカメ差し込んで上向きに撮って
みました。

by K

博多 櫛田神社

2012年03月24日 10時39分32秒 | 神社・仏閣
博多一泊旅行の最後には櫛田神社に行きました。


博多駅と天神のちょうど真ん中にキャナルシティがあり、そのすぐ北に
櫛田神社があります。青色で塗りつぶしたところです。
博多駅からも西鉄の天神駅からも、歩いて10分前後で来れるところにあります。


出入りできる門は三つありました。ここがどっちか言って一番地味な門でした。


この門が正門に当たる門だと思います。立派です。狛犬も怖いくらいです。


正門を境内側から写しました。額の「博多総鎮守」のあたりが、この神社の
胆になる言葉なんでしょうね。


キャナルシティ側の門は小振りながら、平生は最も出入りの多い門のようです。


この門の前にお座りしている狛犬たち、気に入りました。


迫力と愛嬌が


同居している所がいいじゃありませんか。


敷地は有名な神社にしては広くありません。仕方ありませんよね、
江戸時代からここら辺は町中だったんでしょうしね。


そのかわり、なんとなくだけど、この神社、裕福そうに感じました。


由来などが書いてあると思いましたら、情報はほんの少し。
英語、中国語、朝鮮語の案内板とは別に、日本人用の由緒由来を説明した看板が
ほしいですね。


なんで、天満宮みたいに牛さんが鎮座してるのかって? 後で説明できるかな。


櫛田神社といえば、何たって祇園山笠の総元締めで有名。
ここの山だけは取り壊さずに常設展示しています。


「舁き山笠」の「舁く」ってどう読むの? 見たことない漢字なんだ。
西日本の方言なので、見当をつけて「カク」で変換しても、出てこないのです。
(オイラの辞書は富士通が昔の産みの親であるジャパニスト)

仕方ないので、ネットで捜してコピペしてオンライン辞書で調べたら、やっぱ
「舁く」は「カク」で担ぐの意味でした。地元では当り前の読みでしょうが、
地元の人はこんな説明書き読まないしね、読む人は飾り山や舁き山を知らんやつ
ばかりなんだから、ここはフリガナをつけといてほしいよね。


上部をアップしてみると、色々と細部にまで手の込んだ細工をしていると思うのですが、
そんなに違和や、異空間を感じる訳ではありません。
やっぱお祭り本番の空間や時の流れが、人々を異空間に連れていってくれるのでしょうね。

ここはすごい数の末社がありました。以下の8枚はサラーッと流してください。










一番奥の鳥居は天満宮とあるでしょう。だから牛さんの銅像があるのかもしれません。






こういうことではないでしょうか。博多では時代、時代でいろんな人が商売に
成功します。その成功した人が、自分の出身地等で馴染みのある神さんを、
お祭りしたくなる。あるいはその時代その時代で流行している神様をお祭り
したくなる。

で、お金持ちが寄進。神社の方はさいでっか、そりゃ良いお心掛けで。
それじゃ、鳥居とお社を建てときますさかい、オオキニとね・・。
かくしてだんだんと末社が増えていったのではないかと、妄想した次第。


後、感じたことは、神社は町の民俗博物館でもあるってことです。


川上音二郎はオッペケペー節だけの一発屋さんではなかったのですね。


今は全然見ませんが、昔はこんな塀が多かったのでしょうね。


「スーパー発祥の地」とは、学問的には言えないでしょうが、面白い事例
ですよね。


隅々まできれいです。裕福な神社です。


拝殿、本殿の写真を撮り忘れていました。
回廊の奥、三角屋根が二つ写っていますが、向かって右が拝殿、左が本殿です。

by K

太宰府天満宮

2012年03月20日 00時27分16秒 | 神社・仏閣
太宰府の天満宮に行ってきました。訪ねたのはもちろん初めてです。


門前の土産物屋さんが並ぶ風情だけで、


こりゃー、本物だわいと分かります。賑わいが本物なんです。
ただし、名物のお土産が、梅ヶ枝餅に偏り過ぎのように感じました。
もう二、三違ったお土産がないと、しょっちゅうお参りする人は、
お土産に悩むんじゃないかと思いました。


左の鳥居は古いらしいですよ。


ね。


拝殿まで一直線に橋が三、四本かかっていました。
あ、写真に写っている妙齢の二人のご婦人達は、これ以後、4、5枚登場
しますが、全く知らない人、全く知らない後姿だけの人で、被写体として
写り込んでいることを写している時は意識してなかった人達なのです。


小さな社にも、ちゃんと金をかけて、手を抜いていません。


橋は川や池を渡っています。


やっと拝殿が見えてきたと思ってたのですが、


あら、あら、拝殿ではなく立派な楼門でした。


楼門をくぐると、右手に手を洗う所があります。
ここまでは普通の参拝客の皆さんと同じ行動だったのですが、


拝殿の前は行列でした。


すごい行列でしょ。
「どうする?並ぶ?」とU君が僕に訊いてきました。並んで待って
まで、お願いしたいことはありませんので、即座にパス。
近くの末社に賽銭あげて、ついでに今回のジャンボはバラで三億円狙いなので、
三億円! 三億円! とお願いしました。菅原の道っちゃん、頼むよ。


しっかしね、この天満宮の資金は潤沢みたい。この破風や


軒下の装飾がすごく立派なんだよね。




回廊も立派なんだけど、この回廊はそんなに古くないかもしれません。


この楠はせいぜい百五十年ぐらいのもんだろうと思いますからね。


境内にあったこの牛さん、比較的新しいものと思ったんだけど、みんなの
手垢で光っているだけで、そこそこ古いそうです。


ね。


今年は超寒い日が続いたので、梅がちょうどいいあんばいに咲いていました。


やっぱ、ワタクシメの


日頃からの行いが良いせいなのでしょう。


天満宮の横には子供用の遊園地もありました。福岡市周辺のガキ共は、
能古島のアイルランドパークやここの遊園地などが、共通の記憶として
書き込まれるのでしょうね。


「はしまき」って書いている屋台がありました。何だ何だと、覗いてみれば


読んで字のごとく、お好み焼きを箸に巻いたものでした。
人気があるみたいです。20件中4軒が「はしまき」を売る屋台でした。

by K

下関の神社の階段は美しい!

2012年01月24日 23時44分38秒 | 神社・仏閣

半年以上前の写真なんですけど、大歳(おおとし)神社の階段です。
歩道橋の上から撮りました。一直線の階段っていいですよね。
下関は坂が多い町です。神社も丘の上にある場合が多くて、必然
石階段を上った末に神社があるスタイルが多いのです。
※ちなみにこの鳥居は、奇兵隊の大スポンサーだった白石正一郎さんが
 寄進なさった鳥居です。


亀山八幡宮の場合、江戸時代は階段の下は海だったといいます。


彦島福浦の金毘羅さんは僕らの少年の時まで、階段の下は海でした。


しかし、この金比羅山の階段はきつくてね、参りましたよ。4年前
友人と一緒に下りたのですが、階段が急すぎて翌日から2~3日
筋肉痛になってしまいました。かっこ悪くて友人には黙っていたのですが、
友人も同様の筋肉痛が発生して、友人もかっこ悪いと僕には黙っていた
そうです。とにかくきつい階段です。ですからこっちの階段から上り、


裏側のこっちの階段の方から下りた方が、筋肉痛は軽減されると思います。


裏側の階段も実に味わいのある階段です。彦島に来られた時、一度お参り
することをお薦めいたします。

by K

下鴨 河合神社

2012年01月04日 06時47分39秒 | 神社・仏閣
下鴨神社の南には、糺の森(ただすのもり)と呼ばれる大昔からの森が
ございます。糺の森の南側の一画に河合神社があります。


僕は河合神社の存在を今回初めて知りました。


若い時から、住むのはほとんど左京区だったのに、不覚にもこの河合神社
ことは知りませんでした。結構大きな神社ですのに、どうして知らないままに
過ごしてきたのか不思議です。


「日本第一美麗神」とありますが、美人には興味があっても、「美神」には
興味がなくて、知らないままだったのかもしりません。


境内には由緒正しきものが一杯です。これもそう。


六つの神様をお祭りしているお社ですが、ワタクシ長門一宮の住吉神社の
「九間社流れ造り」を思い出してしまいました。
もちろん住吉神社の本殿の方が立派ですがね。


とにかく風情ある建築物がたくさんで、


落ち着く神社でございました。


あ、それから鴨長明の縁(ゆかり)の神社というのも驚きでして、


方丈記の「方丈」が実際の建物を表すなんて、初めての情報で、びっくり!
「移動に便利な組立て式」だなんて、要するに今風に言えば、方丈はテント
みたいなものだったんですね。

by K

下鴨神社 初詣

2012年01月03日 10時16分55秒 | 神社・仏閣
初詣なら京都では下鴨神社、彦島では彦島八幡宮が良いに決まっています。
何故なら、両社とも自宅から徒歩10分以内で行ける神社だからです。


で、今年は京都なので下鴨神社です。


何の行列? 皆、手水舎の前に並んでいるのです。日本人は真面目ですね。


境内の一角で毎年焚き火をやっています。


焚き火をする人も冠・装束の衣装です。こういうところ、京都は上手やなと
思います。こういう時、地方の神社では「○△連」「○×講」等のハッピを
着た人達がお手伝いしていますよね。


楼門の外に若い女性に人気がある末社がありまして、相生社でした。


やっぱ、縁結びの神様は


人気がありますね。


その隣に縁結びのご神木もありまして、


こっちも多くの若い人達が手を合わしていました。


これがご神木だそうです。


下鴨神社の歴史にご興味のある方は


この由緒記をご精読ください。


今、楼門の外です。


一月四日が「蹴鞠初」みたい、行けるなら行ってみようと思うのであった。


この舞殿も


由緒あるものなんですね。




拝殿の左右に干支別の社がありますので、皆それぞれの方向に移動して、
お参りしようとしますので、結構疲れるのだ。

by K

道元坊主三人小倉道中記 Ⅵ 小倉城内の八坂神社

2011年11月19日 04時46分38秒 | 神社・仏閣

小倉城はまずは城内にある八坂神社に寄らさせてもらいました。


道路に面しているこの楼門も、


城内から入るこの正門も立派な造りです。


本殿、拝殿も立派で、これは裕福なお宮さんだなと思いました。


そうか! この八坂神社は板妻と三船敏郎の「無法松の一生」で有名になった
祇園太鼓のお祭りの元締めなんですね。
しかし、東京のお祭りならともかく、「小倉っ子の意気と熱」という文章は
いただけません。その辺は小倉弁でなんとか表現してもらわないと、納まりが
悪いと思います。


授与所と呼ぶそうですが、この建物も


なんとなく大正時代を思わせて、粋ですよね。

耐えに耐えた健さんが、限界です!と、ドスをフトコロに夕暮れの道を進みます。
二つ目の角を曲がったあたりで、池部良がふっと健さんに寄り添って歩き出す
のです。

健さん、全部分かっていて、「ご一緒、願います」とポツリ一言。
池部良、全部分かっていて、コクリ。後は♪唐獅子ぼ~た~んー♪のBGM。

そんな二人が娑婆の見納めにと、振り返って見上げる「楼閣」に、この建物は
ピッタリなんですよね! そう思いません?

そういえば、健さんは小倉が生んだスターだよね。


外側から写したんだけど、この建物も八坂神社の施設かもしれません。
しかし、リバーウォーク北九州です。リバーウォーク北九州さんに
もの申したいのです。


リバーウォーク北九州さんは、地理的には「キャッスルウォーク」と呼んでも
おかしくない位置にあります。
「リバーウォーク北九州」の設計コンペの時の選考委員の方々に質問して
みたいですね。
小倉城のバックにこの赤や黄色や黒の異形のビル群がせまる光景を、
選考委員の方々はリアルに想像できていたんでしょうか?
案外、
「一見、ミスマッチに見えるこの光景は、既存の価値観に違和を与えるが
 ゆえに、 却って21世紀の視覚的なイメージを代表するものになる」
なんてね、ゲイジツ家的意見を選考委員の先生方はお持ちだったのかも
しれませんけどね。

by K

下関市金毘羅町 金毘羅宮

2011年10月15日 03時52分31秒 | 神社・仏閣
福浦町の金刀比羅(こんぴら)さんではなく、下関の金毘羅(こんぴら)さんに
行ってきました。彦島のほとんどの人は、この金毘羅さんがどこにあるかを
知ってはいますが、お参りしたことのある人は少ないのではないかと
思っております。


地図の青い線が彦島道路です。地図のように彦島道路の本土側の出入口が
「金比羅」の交差点です。出入口ですからいつも渋滞ぎみです。信号待ちの
時、自然に「金毘羅宮参詣道」の看板は目に入るわけで、それでいやでも
彦島の人はここの「金毘羅宮」を知るようになるわけです。


立派な門です。


拝殿が見えてきました。


拝殿も本殿も立派です。


「殉職船員の碑」とあり、そうか金毘羅さんは海の守り神なんだと思い出し
ました。


中部幾次郎さんの名前が一番に彫られていました。


ここには中部利三郎さんの名前があり、この金毘羅さんはマルハの社主
二代に渡っての寄進を受けてきたお宮さんなのですね。


そういえば本殿の床の木組みもお金がかかっている感じだし、


本殿の下には「これ、本当に必要なのかな?」と思ってしまうトンネルも
あります。


手洗所の柱だって、水に濡れて腐らないように石と木の柱を組み合わせて
作っています。


再び下関で海運業が盛んになり、この金毘羅さんが再び賑わうことを祈る
ばかりです。


境内からは武久町が望めました。
落ち着いた感じの良いお宮さんでしたので、また違う季節にも訪れたいと
思っております。

by K

田中町 東蓮寺

2011年10月02日 01時00分00秒 | 神社・仏閣
田中町と名池町が接するあたりに


東蓮寺があります。


東蓮寺といえば、空也上人が掘ったと言われる「名池」が有名です。
有名ですが、写真に撮りようがありませんので、今回はパスです。


階段を上がりますと、


「せいし丸さま」と書かれた像が迎えてくれます。


中年の女性のように見え、なんだか分からないけど、宗派は違いますが
「六連島のお軽さま」のような存在の人なんだろうかと思いました。

帰って調べますと、その予想は大外れで、「せいし丸(勢至丸)」とは
開祖法然の幼名でした。


こちらが京都の知恩院の「せいし丸さま」です。この像だと中年の女性には
見えませんね。

しかし、開祖の幼少期までを神格化するのは、法然が開き広めようとした
教えから遠ざかることではないのだろうか? なんて、ちらっと思いましたが、
無知なる者の浅はかな考えかもしれません。


「せいし丸さま」の脇に置かれていた


この石像はお地蔵様? お地蔵様だったら結構きつめの顔ですね。


本堂に行くには、「おせいし様」から右に曲がってさらに上に登っていきます。


今度は「誰が見たってお地蔵様」が迎えてくれました。


このお地蔵様の表情、すこぶる、いいのです。ちょいアホづらなんだよね。


聖がアホに通じるのか、アホが聖に通じるのかは、はっきりしませんが、
アホと聖の渾然一体となった表情を、うまく表現できていると思います。


お地蔵様のところから左に曲がり、十段ぐらい階段を上ったところが
本堂のようでしたが、時間切れで早々に戻りました。
またの機会にゆっくり訪ねてみたいと思っております。

by K

山鹿市 日輪寺

2011年09月20日 14時31分23秒 | 神社・仏閣

日輪寺は赤穂浪士に縁のある寺だと聞いて寄ってみました。


山門のそばに梵鐘の説明がありましたが、「おいおい、して、梵鐘は?」と
探してみても、鐘楼は見当たりませんでした。「文化財なんで、他の場所に
保管してんのかいな」と思ったのですが、それは勘違いでした。

次に訪問したお寺で分かったのですが、この地域の寺院では単独の鐘楼は
作らず、鐘楼門(二層になっていて下層が門、上層に梵鐘をさげる)に
梵鐘がさげられているところが多いのです。

したがいまして、最初の写真の山門の上層に梵鐘はさげられているのだと
思います。


これが「赤穂義士遺髪塔」です。


赤穂浪士の討ち入りを細川藩主がすごく評価していたことは有名ですよね。


細川藩預かりの義士の名前と年齢なんですが、


こちらの方が読みやすいですね。
堀部弥兵衛さんは77歳のご高齢だ。討ち入りの時の戦力になったのだろうか。
あれ、堀部安兵衛と名前が似ているなー、親子なんだろうか・・なんて、
疑問に思って、ウイキペディアで調べてみると、
「そっかー! 安兵衛さんは弥兵衛さんちに養子で入ったんだ」
「高田の馬場の決闘って実際にあった話だったのか」等々初めて知ったことが
多くて、驚きました。

読んでいる方は「そんなことも知らなかったのか!お前はアホか」とお思い
でしょうが、そうなんです、僕はアホなんです。時代劇や日本史が苦手でしてね、
さっぱりなんです。




菊池武時は肥後菊池氏の十二代当主で、この日輪寺を再興された方のようです。


境内には移築したのでしょうか、江戸時代の石橋がありました。


九州には石橋が多いように思います。九州には昔から石工集団がいて、
高い技術力を保持していたのでしょうかね。


これが本堂のようでしたが、屋根瓦の葺替え中でした。


曹洞宗ってのは「商売っ気」を表に出さないようにするのが、上手なお寺さんが
多いのにね。ちょっとストレートな感じがしましたね。


しかしこの墓守さんは立派でした。カメラを向けても動じずに、こちらを
見据えておられましたな。

by K

下関市黒井 杜屋神社

2011年09月14日 04時21分06秒 | 神社・仏閣
黒井の「鬼ヶ城」で千円ランチを食べまして、シーハ、シーハしながら
店を出ますと、駐車場から神社が見えました。
看板が出ていて「長門国三の宮 杜屋(もりや)神社」とありました。


帰りを急いでいるわけでもないので、寄ってみました。
一の宮は住吉神社だろうけど、ほんなら二の宮はどこなんじゃろう?
なんて言いながら、境内に入りました。


二の宮はどうやら長府の忌宮(いみのみや)神社のようです。


拝殿です。


拝殿の奥の本殿です。


他に社が二つありまして、いろんな神様をお祭りしていました。


二つとも屋根が大きいのが面白く感じました。


一通り写真を撮りまして、さあて、じっくりと見て回るかという時にですね、
銀杏が大量に落ちているのを発見したのです。
煎って食べる銀杏は、ウイスキーのツマミとしては最高なんです。
ただちに銀杏拾いに集中しました。

神様! お賽銭もあげずに帰ってしまった不信心な私達をお許しください。

手が銀杏くさくてたまらず、お賽銭どころじゃなかったのです。帰りの
車中も銀杏くさくてたまりませんでしたね。

写真はネットで調べると、水に漬けると実がやわらかくなって、タネを
取り出しやすいと書いていましたので、漬けているところです。
なるほどでした。
あ、ゴム手袋は絶対に使わなきゃだめですよ。

しかし、銀杏って、もうちょっと遅いと思っていたのに、こんなに早く
落ちるのもあるのですね。早いせいか、みな、ちょっと小粒でした。

by K

下関 福徳稲荷神社

2011年09月12日 01時00分00秒 | 神社・仏閣
191号線、山陰線の駅でいうと、小串駅と湯玉駅の間に、「福徳稲荷神社」
があるのです。


看板に誘われて、急な坂道を登ると、あっとビックリの広大な稲荷神社が
出現するのです。


どうして? どうして、こんな所にこんなにお金のかかった神社があんの?
と、驚くのです。


古くからある由緒ある神社となっていますが、やたらピカピカで、最も古くても
せいぜい二十年ぐらいしか経っていない、ピカピカの建物が並んでいるのです。
そして、お金はかけているけれども、それらを選択する人の価値観がぶれている
のです。統一感がありませんし、何より「立派」に見せようという意図が露骨で、
チープなのです。


稲荷神社って、時の成功者が自らの「成功感」を他人に見せつけるための、装置の
一つなんだと思います。今はこの神社を生々しく感じますが、もう三十年も経つと、
案外渋くなっているかもしれませんね。




この塩ビのパイプの鳥居は二万円の寄進で建ててくれるそうですよ。


意外に安いではありませんか! 成功されている方、記念にどうですか?


眺望はいい! いいです!


「響灘・福徳稲荷神社殺人事件」で二時間ドラマのシナリオできるよなと、
僕達三人は話し合いました。
この階段だ、犯人をゆすっている脅迫者が油断して背中を見せてね、
犯人に突き落とされる階段にしようよ。
探偵が犯人を呼び出し、謎解きをしてみせ、堪忍しろと迫る崖はここが
いいよね、とシナリオハンティングをして楽しみました。

家に帰って調べてみますと、この神社の威容を立派にさせる多額の寄進を
なさった方の会社は、経営不振になり、十数年前に経営陣は代わって
いました。

旧経営陣の一族の方や近しい方は、この神社を見て「栄枯盛衰」等の色々な
言葉を思い浮かべて、感慨にふけるでしょう。でも、旧会社のために粉骨砕身
働いてきた中堅どころの社員にとっては、この神社を眺めるのはつらいこと
だと思います。

この神社に寄進した金額のせめて半額を、会社の内部留保に回していてくれた
なら、会社はああいう風にはならなかったのに・・・とかね、色々無念なことが
あるんじゃないでしょうかね。

どうして、一ブログなのに厳しく書くかといえば、一族が経営していた会社が
最も利益をはじき出していた時でも、この神社の威容を変える寄進ができる
までの利益を出しているわけではなかったからです。

分をわきまえない寄進だったのではないでしょうか。

by K

下関市菊川町 法輪寺

2011年09月02日 05時36分09秒 | 神社・仏閣
菊川町に古いお寺があると聞いて訪ねてみました。


法輪寺という名前のお寺でした。


ほんと、古いって感じのお寺でして、落ち着きます。


小ぶりだけど、いかにも「古刹」(こさつ)って感じです。


室町時代ですか、そりゃ、古いですね。元は茅葺きだったようですね。


ということは、この鬼瓦は古いものではないことになりますが、


このようなもろに鬼の顔をした「鬼瓦」を、ワタシ初めて見ました。
面白いですね。


写すだけ写して、帰ってモニターで読んだのですが、「智慧明瞭、記憶力増進に
功徳があり・・・」と書かれていました。
アイタタ、しっかり拝んでくるのだった。不信心な者には功徳なんぞは、
なかなか舞い降りてきてはくれないものなんですね。

by K