お役立ち情報ブログ

日々の生活やビジネスにおいて役に立ちそうな情報を収集、公開しています。

[FT]急ブレーキがかかった中国新幹線計画

2011年10月30日 10時53分04秒 | ニュース
(2011年10月28日付 英フィナンシャル・タイムズ紙)

 中国は史上最も野心的な鉄道建設計画を推し進めたのと同じ勢いで、高速鉄道への投資に急ブレーキをかけた。急停止を受けてシステム全体がむち打ち状態に陥り、作業員は賃金をもらえず、大量の重機が放置され、中国の未来を背負うはずだった新幹線の建設計画が遅れる事態になっている。


■600人いた作業員が20人に




中国の高速鉄道への投資に急ブレーキがかかった(10月18日、武漢の整備場で高速列車の車輪を検査する作業員)=ロイター

 農地が広がる覇州では、砂利道沿いに未完成の柱や止まったままのセメントミキサーが並んでいる。ここは天津と保定を結ぶ高速鉄道網の主要路線となるはずだったが、7月に中国東部の温州市近郊で起きた衝突事故の後、幾多の大型鉄道計画とともに中断されてしまった。40人の死者を出した衝突事故は、世界最大の高速鉄道網の建設を急ぐあまり、中国がいかに手抜きをしたかを明らかにした。

 「すべてが以前よりずっと厳しくなっている。お金がないから、作業員に賃金も払えない。それに品質検査が極めて厳格だ」。中国の線路の大半を敷設してきた国営企業、中国鉄路工程の現場監督はこう話す。

 経済が全般的に減速する中で、中国政府は成長を刺激する手段として、棚上げされた投資の一部を再開する可能性があることを示唆した。だが今のところ覇州の現場では、ピーク時に約600人いた作業員のうち、残っているのは20人で、完成がいつにせよ、線路沿いを走ることになる側道を舗装するために砂利の入った袋を運んでいる。現場監督によると、建設計画のうち承認されたのが側道部分だけだったという。


■国家威信の源が失墜


 中国中鉄の幹部ワン・メンシュー氏は先日、国営メディアに対し、資金不足のために中国全土で1万キロ以上に及ぶ線路の建設が停止されたと述べ、再開されなければ、鉄道産業の600万人の労働者が苦しむことになると付け加えた。

 結束の固い中国鉄道産業は長年、政府の資金を大量に受け取ってきただけに、突然の資金不足は初めて経験する厄介な事態だ。

 温州の事故の前、高速鉄道は絶大な国家威信の源だった。中国初の新幹線が運転を開始したのは2007年のことだが、同国はそれから4年もせずに世界最大の高速鉄道網を築き上げた。計画では、2020年までに高速鉄道網の総延長を2倍にする予定になっていた。だが、信頼が失われてしまった。
 「我々は真剣に基礎から設計を検査し、欠陥を特定しなければならない。結局のところ、高速鉄道は始まったばかりだ」。中国鉄道産業の主要研究開発拠点である浙江大学交通科学研究所のホアン・ジーイ氏はこう話す。





北京市内を通過する高速列車(9月16日)=AP

 鉄道投資は2009年の景気刺激策で急増した後に鈍り始めていたが、7月の温州の衝突事故以降の落ち込みは急激だった。年初からの統計値を見ると、鉄道と輸送に対する投資は2011年1~6月期に7%増加した。それが9月末には19%減となっている。


■徐々に計画を再開する政府


 過去5年間の建設ラッシュに戻る可能性はほとんどないが、政府は徐々に高速鉄道計画を再開しようとしているようだ。計画を再開すれば、減速している経済をすぐに押し上げるだろう。また、長期的には、大きな構造的変化を促すと見られる。中国内陸部が開放され、国内の経済成長がより自律的になるだろう。

 中国政府の最初の課題は、投資家をなだめることだ。急増する鉄道省の債務(2兆1000億元=3300億ドル=を超える)への懸念と金融引き締めが衝突事故と重なって市場心理が損なわれ、鉄道省は資金調達計画の延期を余儀なくされていた。

 行き詰まりを打破するために、財政省は今月、2013年までに発行される鉄道省債から得られる金利収入への課税を半分にすると発表した。この措置は200億元の債券発行への地ならしとなり、その後も起債が続く見通しになった。国務院も銀行に対し、鉄道省への融資を増やすよう命じている。


■根本的な改革は置き去りに


 だが、中国政府は国民の懸念にも対処しなければならない。温州の事故以来、乗客数は急減している。鉄道省の統計によると、中国の9月の鉄道旅客数は1億5100万人で、7月実績より3000万人近く減った。

 それでも中国政府は、徹底した安全点検を命じたほかは、根本的な改革にはほとんど意欲を見せていない。覇州の線路脇のコンクリート工場は取り壊されていない。ドアに南京錠がかけられているだけで、再開を待っている状態だ。

By Simon Rabinovitch

(翻訳協力 JBpress)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国の借金1024兆円=国民1人当たり802万円―11年度末見込み

2011年10月29日 08時31分39秒 | 経済
 国債や借入金などを合計した「国の借金」が2011年度末に過去最大の1024兆1047億円に達する見通しであることが28日、政府が国会に提出した予算関連資料で明らかになった。東日本大震災の復興財源を賄うため、11年度第3次補正予算案で復興債を11兆5500億円発行するのが主因だ。

 10月1日時点の推計人口(1億2772万人)で割ると、国民1人当たり約802万円の借金を背負う計算となる。財務省は11年度末の残高を995兆9232億円(2次補正予算ベース)と見込んでいたが、3次補正編成でさらに借金が雪だるま式に増える。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「アップル再生劇」からの教訓 ジョブズ氏、綱渡りの38カ月

2011年10月29日 07時43分29秒 | お役立ち情報
 時代を先取りするビジョナリー、希代のカリスマ、完璧主義のデザイナー……。5日に死去した米アップル創業者のスティーブ・ジョブズをたたえる言葉はあまたあるが、原点は1990年代半ば、瀕死(ひんし)の状態に陥っていた同社を再建したことに遡る。一度は追放された会社にアドバイザーとして呼び戻されてから、正式な最高経営責任者(CEO)に就任するまでの38カ月(96年12月~2000年1月)は、先が読めない綱渡りの連続だったに違いない。その道筋をたどると、IT(情報技術)企業が革新と成功を手にするための教訓が浮かび上がってくる。



アップル復帰の直後、同社のイベントで講演するジョブズ氏(1997年1月、米サンフランシスコ)=AP

■「お帰りなさい、ジョブズ」

 11年ぶりの晴れがましい復帰だった。「ウエルカム・ホーム(お帰りなさい)」。96年12月、アップルの会長兼CEO、ギルバート・アメリオをはじめとする幹部らは、青年起業家の面影が残るジョブズ(当時41歳)を拍手でクパチーノ(カリフォルニア州)の本社に迎え入れた。

 この日、アップルはジョブズが85年に設立した高性能コンピューターの開発会社、NeXT Software(ネクスト・ソフトウエア)を約4億ドルで買収することを発表。「マッキントッシュ」の深刻な販売不振から脱却するため、次世代OS(基本ソフト)にネクストの技術を取り込み、浮上の切り札にしようと狙ったのだ。

 さらにアメリオはジョブズを「アドバイザー」に据え、非常勤ながら技術戦略の指南役を任せた。翌97年2月にはアップル共同創業者のスティーブ・ウォズニアックとともに最高意思決定機関のメンバーにも加えている。



アップルから追放された後、ジョブズ氏は高性能コンピューターの開発会社、ネクストを設立した(1991年、自社開発機を前に)=AP

 ネクスト買収発表の記者会見でにこやかに握手するジョブズとアメリオ。まさに創業者の感動的な復帰イベントだったが、この日を境に、ジョブズは自らの“野望”の実現に向けて静かに動き始める。

■「ネクスト」の資産を「マック」に移植

 ネクストのOSは、優れた操作性と安定性、ネット対応のほか、複数の演算処理チップで動くといった先進の機能を備えていた。

 その技術は後に「MacOSX」として結実したほか、「iPad」や「iPhone」向けの「iOS」にも進化し、今や世界の人々の手のひらで活躍している。

 当時としては、それほど画期的な出来栄えのOSだった。ところがネクストが販売した端末は累計でわずか数万台。事業的には成功とはほど遠い数字である。
 ならば「マッキントッシュ(マック)」へ移植して、パソコン市場で圧倒的なシェアを握る「ウィンテル」に対抗できる競争力のあるコンピューターを作ろう――。OS戦略で迷走しているアメリオに首尾良くネクストを売り込んだジョブズだったが、復帰直後にアップル社内で目にしたのは、混乱の極みにある組織の惨状だった。

■チームづくりは自らの手で

 OS開発の方向性は定まらず、販売する機種は在庫の山。不採算部門の縮小やレイオフも進めたが、シェアは低下するばかりだった。経営陣を入れ替え、開発体制を立て直さなければこの会社は消え去ってしまう――。ジョブズはアップル取締役の一人だったエド・ウーラード(デュポン会長、当時)と共に、経営陣の刷新に乗り出した。



マイクロソフトとの提携を発表するジョブズ氏。壇上のスクリーンにはゲイツ氏が登場(1997年8月、米ボストンで)=ロイター

 まず97年7月には、CEOのアメリオと、隠然たる影響力を持っていた古参取締役のマイク・マークラを解任。代わりに米オラクル会長のラリー・エリソンや、米IBMの再建に貢献した同社の元最高財務責任者、ジェローム・ヨークといった大物を取締役として招いた。

 ネクストからも幹部、技術者を次々と呼び寄せ、自らの手でチームを形成していった。「アップル再建はワンマンショーでできるほど易しい仕事ではない」(ジョブズ)。後にこう語っているように、IT業界を巻き込んだ流れをつくったのだ。

■マイクロソフトと衝撃の「握手」

 その一環としてジョブズが演出した超一流の「サプライズ」が、宿敵ともいえる米マイクロソフトとの提携だった。

 97年8月の米ボストン(マサチューセッツ州)。港湾を望む「マックワールド」のイベント会場は、異様な空気に包まれていた。

 「大事なパートナーを紹介したい。それはマイクロソフトです」。基調講演でジョブズがこう宣言すると、壇上の大スクリーンには、衛星中継でつながれたビル・ゲイツの姿が映し出された。場内に鳴り響くブーイング、ため息、そして、歓声と拍手……。長年、ライバルとして位置づけてきたゲイツに対するマックファンの複雑な感情が噴き出した瞬間だった。

 そんな反応をなだめるように、ジョブズはスピーチを続けた。

 「マイクロソフトとの特許係争に終止符をうち、クロスライセンス契約を結ぶ。アプリケーションソフトはウィンドウズ向けと同じタイミングでマック向けに提供されるだろう。ブラウザーはエクスプローラーを標準搭載する。そして1億5000万ドル相当の株式を取得してもらう」
 一見、マイクロソフトの軍門に下るかのような印象を受けるが、マックを“プラットフォーム”として認めさせ、今後も共存していくためのしたたかな戦略だった。



再建策を軌道に乗せようと躍起になっている時期のジョブズ氏(1998年1月、米サンフランシスコ)=ロイター

■プラットフォームとして生き残る

 提携交渉が始まったのは、このイベントの4週間前。ジョブズ自身がゲイツに電話して、大枠から詳細まで詰めていった。最終合意に達したのは、講演が始まるわずか数時間前だったという。

 競合相手すら味方につけ、IT企業の生命線である自社技術の生き残り図る。決して奇手ではなく、プラットフォームの価値を守るために真正面から挑んだのだ。後講釈かもしれないが、この提携こそが、アップルが生き残るか、それとも、消えゆくかの分水嶺となった。



新製品効果で業績が上向き始めた頃のジョブズ氏(1999年7月、米ニューヨーク)=ロイター

 ジョブズは97年9月に暫定(interim)CEOに就任。自らを「iCEO」と名乗った。「(コンピューターアニメーション会社)ピクサーの経営が面白いから、アップルの正式なCEOになるつもりはない」。そんな半身の立場ながら、再建策は着々と実行されていった。

 複雑だった製品群を「消費者向け」「プロ向け」「ノート型」「デスクトップ型」など分かりやすく分類し、コストを削減しつつ、斬新なモデルを次々と開発する。赤字続きだった業績も、98年1~3月期には2四半期連続で黒字を計上。iMac(98年5月)、iBook(99年10月)などのヒットを連発して再建を軌道に乗せていった。

■「デジタルハブ」へパソコンを再定義

 その過程でジョブズが腐心したのは、パソコンの役割を「再定義」することである。



正式なCEOに就任。新製品効果で成長路線を取り戻した頃のジョブズ氏(2000年、千葉市の幕張メッセ)=ロイター

 「入力」「演算」「出力」というパソコンの基本的な機能で消費者が満足する時代は終わりを告げ、90年代後半にはインターネットでメールやウェブを楽しむ用途が主流になった。ジョブズが繰り出したデザイン性の高いマックの商品名には「i」の文字が入っている。

 単に生産性を高めるツールとしてだけではなく、オフィスや家庭で手軽にネットを楽しむスタイルを提唱した。

 そして2000年1月。ジョブズはサンフランシスコ市内で「『暫定』をやめて『CEO』になります」と発表。「2社(アップルとピクサー)のトップを兼務してもうまくいくことが株主にも理解されただろう」。薄氷を踏むような復活劇の第1幕はここに完了した。
 そして、すぐに躍進に向けた第2幕が始まる。

 翌01年1月には「デジタルハブ構想」を打ち上げた。マックをハブ(中心)として、家電やオーディオ、映像、デジタルカメラなどの機器をネットワークでつなぐという考え方だ。



マックOSXにはネクストの技術が数多く盛り込まれている(2001年5月、新OSを発表するジョブズ氏、米サンノゼ)=ロイター

 「マック、パソコンは進化し続ける。21世紀のデジタルライフでは、音楽や映像、そしてコンピューター体験そのものの楽しみ方が劇的に変わるだろう」(ジョブズ)。こんな予言めいた言葉は、その後のiPod、iPad、iPhoneといった製品につながっていき、さらに音楽配信やクラウドといったネットサービスが既存業界を揺さぶるほどまで成長していった。

■イノベーションと人事抗争

 「あと半年、ジョブズが戻ってくるのが遅かったら、アップルという会社は存在していなかっただろう」。ジョブズに口説かれて83年にアップル入りした元ペプシコーラ社長のジョン・スカリーは、米メディアのインタビューでこう語っている。

 90年代半ば、アップルは格好の「売り物」として様々なM&A(合併・買収)の噂が流れていた。米AT&Tやオラクル、サン・マイクロシステムズ、ソニーなどの名前が浮かんでは消え、中には実際に売却交渉が一定段階まで進んだものもある。

 今でこそスカリーは、ジョブズの先見性やシステム思考、完璧主義、チームをつくる力を評価しているが、アップル入社後の蜜月は長続きせず、85年にジョブズを追放している。そのスカリーも販売低迷や開発プロジェクトを巡る対立で93年に会社を去っていった。



アップル2の新製品を発表するジョブズ氏(左)とスカリー氏(中央)(1984年、米サンフランシスコ)=AP

 実は、アップルにおけるイノベーションの歴史は、社内抗争抜きでは語れない。80年代のジョブズ、スカリー、マイケル・スピンドラー、アメリオ……。歴代CEOは開発方針の不一致や業績不振に伴う混乱の末、解任されている。90年代半ばには日本法人でも、代理店政策や価格設定を巡って当時社長だった三田聖二(現日本通信社長)が米本社と対立し、事実上更迭された。先進的で魅力ある商品を扱うだけに、そこで働く人々の思いも強く、時として激しく衝突し合う。

 96年にジョブズが復帰してまず手を着けたのは、経営やデザイン、マーケティングそれぞれで「ドリームチーム」を組み、官僚主義を排して、エネルギーをイノベーションの方向に一致させることだった。創業者しか持ち得ないカリスマが君臨した15年間は、同社の歴史の中では珍しく「社内抗争」と無縁の時期だったともいえる。
■反骨、執着、渇望……疾走の源泉

 ジョブズはパソコンやネットという20世紀最大級の技術革新を先導して、人々の生活や仕事の風景をがらりと変えた。時代を駆け抜けた彼の力の源泉は何だったのだろうか。



アップル本社で開いたジョブズ氏の追悼式(2011年10月19日、米クパチーノ)=ロイター

 60~70年代に社会を覆ったカウンターカルチャーが、既存の大企業にはつくれないものを世に送り出したいという反骨の精神を生んだのだろうか。

 85年ごろソニー創業者の盛田昭夫からウォークマンの1号機をプレゼントされた時にはいたく感激し、部屋に持ち帰ってすぐに分解したというエピソードがある。そこからは、デザインや機能美、ものづくりへの執着がうかがえる。もしくは、まだ見ぬ製品やサービスを自らの手で編み出し、それを消費者が驚嘆の声を上げながら使うといった興奮への渇望なのか。

 成長路線を取り戻した2001年2月。ジョブズが来日した際、単独インタビューする機会を得た。「今日のプレゼンテーションはどうだった? そう、良かったか! どうだ、このマシンの編集機能はすごいだろ」。会うなり歩きながら興奮気味に説明を始め、うかうかしていると質問もできずに持ち時間が過ぎていきそうだった。

 「創業時に『一般大衆のためのコンピューターを』という理念を掲げたんだ。これはほぼ達成したといってもいい。21世紀には人類のデジタルライフスタイルを実現する中核機器としてもっと進化していくだろう」。ジョブズは一人で語り続けた。

 では、次の大きな目標は? あなたを仕事に突き動かしているものは? コンピューターやネットは人類や世界をどう変える? 96年当時、アップル再生を確信していた?……。今思えば、聞いておきたいことが、山ほどあった。=敬称略

(町田敏生)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本人1億2535万人、初の減少 世界は70億人突破へ

2011年10月27日 07時39分57秒 | ニュース
 総務省が26日発表した2010年10月実施の国勢調査確定値によると、日本人の人口が1億2535万8854人と05年の前回調査から37万人減少した。減少は現行の調査方法をとった1970年以来初。高齢者の割合が世界最高水準を更新するなど、少子高齢化の加速ぶりを裏付けた形だ。一方、世界は今月末で総人口が70億人を突破する見込み。アジア・アフリカなどの若年層の増加で膨らむ世界に対し、縮む日本の姿は対照的だ。

■高齢化に一段と拍車

 日本人の人口は、すでに厚生労働省の人口動態統計で05年に死亡数が出生数を上回る自然減となり、07年から4年連続で減少を記録している。5年に1回となる10年の国勢調査は、外国人らを含めた日本の総人口が前回より0.2%増えたが、日本人だけに限ると初めて減少。一般世帯数は5184万2千世帯と初めて5千万を超え、うち3割が単身世帯だった。

 高齢化には一段と拍車がかかっている。65歳以上人口は前回より357万4千人増えて2924万6千人。総人口に占める割合は2.8ポイント上昇の23.0%で、国際比較によると2位のドイツ・イタリア(20.4%)をさらに引き離した。15歳未満人口が71万8千人減、15~64歳人口が306万1千人減となったのとは対照的な増加ぶりだ。

 高齢者の孤独な暮らしぶりも浮かび上がる。65歳以上人口のうち、一人暮らしは全体の16%に当たる479万1千人に上り、単独世帯は男性で10人に1人、女性で5人に1人という結果になった。老人ホームなど社会施設の入所者は120万1千人。前回の1.5倍と急速に拡大している。

■世界は拡大続く

 一方、世界人口は拡大が続く。国連人口基金(UNFPA)は26日、11年版「世界人口白書」を発表し、世界総人口が今月31日に70億人を突破すると宣言した。50年に93億人、2100年までに100億人を上回ると予測。21年にはインドが14億人と中国を上回って世界首位に躍り出ると分析したほか、アフリカは現在の10億人から2100年に約36億人に達するとした。

 白書は人口拡大に伴い、移民の増大や資源不足といった問題が生じると警告している。発展途上国では出生率の高さが逆に「開発の停滞」や「貧困の長期化」といった悪循環を招いていると分析。若年層の失業増が「アラブの春」に見られる政治改革の原動力になっている面はあるものの、海外への移民増加などで他国に波及する点を懸念材料に挙げた。中長期的には世界的な高齢化も進む見通しだという。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

円、再び最高値更新 一時75円73銭 NY市場

2011年10月26日 07時53分47秒 | 為替
 25日のニューヨーク外国為替市場で円相場が一時1ドル=75円73銭へ急騰し、同市場で21日に記録した戦後最高値(75円78銭)を更新した。欧州の債務危機への懸念が再燃、比較的安全な投資先とされる円が買われた。

 米経済指標の悪化で米景気への不安も拭えず、ドル売り円買いに歯止めがかからない。

 ニューヨーク市場では26日の欧州連合(EU)首脳会議前に開かれるとみられていたEU財務相理事会が中止になったと伝わり、ギリシャ問題打開に向けた協議が難航しているとの見方が広がった。ユーロ売り円買いが進行し、ドルに対しても円買いが波及した。

 午前10時半現在は前日比23銭円高ドル安の1ドル=75円81~91銭をつけた。ユーロは1ユーロ=1・3908~18ドル、105円53~63銭。(共同)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする