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「アップル再生劇」からの教訓 ジョブズ氏、綱渡りの38カ月

2011年10月29日 07時43分29秒 | お役立ち情報
 時代を先取りするビジョナリー、希代のカリスマ、完璧主義のデザイナー……。5日に死去した米アップル創業者のスティーブ・ジョブズをたたえる言葉はあまたあるが、原点は1990年代半ば、瀕死(ひんし)の状態に陥っていた同社を再建したことに遡る。一度は追放された会社にアドバイザーとして呼び戻されてから、正式な最高経営責任者(CEO)に就任するまでの38カ月(96年12月~2000年1月)は、先が読めない綱渡りの連続だったに違いない。その道筋をたどると、IT(情報技術)企業が革新と成功を手にするための教訓が浮かび上がってくる。



アップル復帰の直後、同社のイベントで講演するジョブズ氏(1997年1月、米サンフランシスコ)=AP

■「お帰りなさい、ジョブズ」

 11年ぶりの晴れがましい復帰だった。「ウエルカム・ホーム(お帰りなさい)」。96年12月、アップルの会長兼CEO、ギルバート・アメリオをはじめとする幹部らは、青年起業家の面影が残るジョブズ(当時41歳)を拍手でクパチーノ(カリフォルニア州)の本社に迎え入れた。

 この日、アップルはジョブズが85年に設立した高性能コンピューターの開発会社、NeXT Software(ネクスト・ソフトウエア)を約4億ドルで買収することを発表。「マッキントッシュ」の深刻な販売不振から脱却するため、次世代OS(基本ソフト)にネクストの技術を取り込み、浮上の切り札にしようと狙ったのだ。

 さらにアメリオはジョブズを「アドバイザー」に据え、非常勤ながら技術戦略の指南役を任せた。翌97年2月にはアップル共同創業者のスティーブ・ウォズニアックとともに最高意思決定機関のメンバーにも加えている。



アップルから追放された後、ジョブズ氏は高性能コンピューターの開発会社、ネクストを設立した(1991年、自社開発機を前に)=AP

 ネクスト買収発表の記者会見でにこやかに握手するジョブズとアメリオ。まさに創業者の感動的な復帰イベントだったが、この日を境に、ジョブズは自らの“野望”の実現に向けて静かに動き始める。

■「ネクスト」の資産を「マック」に移植

 ネクストのOSは、優れた操作性と安定性、ネット対応のほか、複数の演算処理チップで動くといった先進の機能を備えていた。

 その技術は後に「MacOSX」として結実したほか、「iPad」や「iPhone」向けの「iOS」にも進化し、今や世界の人々の手のひらで活躍している。

 当時としては、それほど画期的な出来栄えのOSだった。ところがネクストが販売した端末は累計でわずか数万台。事業的には成功とはほど遠い数字である。
 ならば「マッキントッシュ(マック)」へ移植して、パソコン市場で圧倒的なシェアを握る「ウィンテル」に対抗できる競争力のあるコンピューターを作ろう――。OS戦略で迷走しているアメリオに首尾良くネクストを売り込んだジョブズだったが、復帰直後にアップル社内で目にしたのは、混乱の極みにある組織の惨状だった。

■チームづくりは自らの手で

 OS開発の方向性は定まらず、販売する機種は在庫の山。不採算部門の縮小やレイオフも進めたが、シェアは低下するばかりだった。経営陣を入れ替え、開発体制を立て直さなければこの会社は消え去ってしまう――。ジョブズはアップル取締役の一人だったエド・ウーラード(デュポン会長、当時)と共に、経営陣の刷新に乗り出した。



マイクロソフトとの提携を発表するジョブズ氏。壇上のスクリーンにはゲイツ氏が登場(1997年8月、米ボストンで)=ロイター

 まず97年7月には、CEOのアメリオと、隠然たる影響力を持っていた古参取締役のマイク・マークラを解任。代わりに米オラクル会長のラリー・エリソンや、米IBMの再建に貢献した同社の元最高財務責任者、ジェローム・ヨークといった大物を取締役として招いた。

 ネクストからも幹部、技術者を次々と呼び寄せ、自らの手でチームを形成していった。「アップル再建はワンマンショーでできるほど易しい仕事ではない」(ジョブズ)。後にこう語っているように、IT業界を巻き込んだ流れをつくったのだ。

■マイクロソフトと衝撃の「握手」

 その一環としてジョブズが演出した超一流の「サプライズ」が、宿敵ともいえる米マイクロソフトとの提携だった。

 97年8月の米ボストン(マサチューセッツ州)。港湾を望む「マックワールド」のイベント会場は、異様な空気に包まれていた。

 「大事なパートナーを紹介したい。それはマイクロソフトです」。基調講演でジョブズがこう宣言すると、壇上の大スクリーンには、衛星中継でつながれたビル・ゲイツの姿が映し出された。場内に鳴り響くブーイング、ため息、そして、歓声と拍手……。長年、ライバルとして位置づけてきたゲイツに対するマックファンの複雑な感情が噴き出した瞬間だった。

 そんな反応をなだめるように、ジョブズはスピーチを続けた。

 「マイクロソフトとの特許係争に終止符をうち、クロスライセンス契約を結ぶ。アプリケーションソフトはウィンドウズ向けと同じタイミングでマック向けに提供されるだろう。ブラウザーはエクスプローラーを標準搭載する。そして1億5000万ドル相当の株式を取得してもらう」
 一見、マイクロソフトの軍門に下るかのような印象を受けるが、マックを“プラットフォーム”として認めさせ、今後も共存していくためのしたたかな戦略だった。



再建策を軌道に乗せようと躍起になっている時期のジョブズ氏(1998年1月、米サンフランシスコ)=ロイター

■プラットフォームとして生き残る

 提携交渉が始まったのは、このイベントの4週間前。ジョブズ自身がゲイツに電話して、大枠から詳細まで詰めていった。最終合意に達したのは、講演が始まるわずか数時間前だったという。

 競合相手すら味方につけ、IT企業の生命線である自社技術の生き残り図る。決して奇手ではなく、プラットフォームの価値を守るために真正面から挑んだのだ。後講釈かもしれないが、この提携こそが、アップルが生き残るか、それとも、消えゆくかの分水嶺となった。



新製品効果で業績が上向き始めた頃のジョブズ氏(1999年7月、米ニューヨーク)=ロイター

 ジョブズは97年9月に暫定(interim)CEOに就任。自らを「iCEO」と名乗った。「(コンピューターアニメーション会社)ピクサーの経営が面白いから、アップルの正式なCEOになるつもりはない」。そんな半身の立場ながら、再建策は着々と実行されていった。

 複雑だった製品群を「消費者向け」「プロ向け」「ノート型」「デスクトップ型」など分かりやすく分類し、コストを削減しつつ、斬新なモデルを次々と開発する。赤字続きだった業績も、98年1~3月期には2四半期連続で黒字を計上。iMac(98年5月)、iBook(99年10月)などのヒットを連発して再建を軌道に乗せていった。

■「デジタルハブ」へパソコンを再定義

 その過程でジョブズが腐心したのは、パソコンの役割を「再定義」することである。



正式なCEOに就任。新製品効果で成長路線を取り戻した頃のジョブズ氏(2000年、千葉市の幕張メッセ)=ロイター

 「入力」「演算」「出力」というパソコンの基本的な機能で消費者が満足する時代は終わりを告げ、90年代後半にはインターネットでメールやウェブを楽しむ用途が主流になった。ジョブズが繰り出したデザイン性の高いマックの商品名には「i」の文字が入っている。

 単に生産性を高めるツールとしてだけではなく、オフィスや家庭で手軽にネットを楽しむスタイルを提唱した。

 そして2000年1月。ジョブズはサンフランシスコ市内で「『暫定』をやめて『CEO』になります」と発表。「2社(アップルとピクサー)のトップを兼務してもうまくいくことが株主にも理解されただろう」。薄氷を踏むような復活劇の第1幕はここに完了した。
 そして、すぐに躍進に向けた第2幕が始まる。

 翌01年1月には「デジタルハブ構想」を打ち上げた。マックをハブ(中心)として、家電やオーディオ、映像、デジタルカメラなどの機器をネットワークでつなぐという考え方だ。



マックOSXにはネクストの技術が数多く盛り込まれている(2001年5月、新OSを発表するジョブズ氏、米サンノゼ)=ロイター

 「マック、パソコンは進化し続ける。21世紀のデジタルライフでは、音楽や映像、そしてコンピューター体験そのものの楽しみ方が劇的に変わるだろう」(ジョブズ)。こんな予言めいた言葉は、その後のiPod、iPad、iPhoneといった製品につながっていき、さらに音楽配信やクラウドといったネットサービスが既存業界を揺さぶるほどまで成長していった。

■イノベーションと人事抗争

 「あと半年、ジョブズが戻ってくるのが遅かったら、アップルという会社は存在していなかっただろう」。ジョブズに口説かれて83年にアップル入りした元ペプシコーラ社長のジョン・スカリーは、米メディアのインタビューでこう語っている。

 90年代半ば、アップルは格好の「売り物」として様々なM&A(合併・買収)の噂が流れていた。米AT&Tやオラクル、サン・マイクロシステムズ、ソニーなどの名前が浮かんでは消え、中には実際に売却交渉が一定段階まで進んだものもある。

 今でこそスカリーは、ジョブズの先見性やシステム思考、完璧主義、チームをつくる力を評価しているが、アップル入社後の蜜月は長続きせず、85年にジョブズを追放している。そのスカリーも販売低迷や開発プロジェクトを巡る対立で93年に会社を去っていった。



アップル2の新製品を発表するジョブズ氏(左)とスカリー氏(中央)(1984年、米サンフランシスコ)=AP

 実は、アップルにおけるイノベーションの歴史は、社内抗争抜きでは語れない。80年代のジョブズ、スカリー、マイケル・スピンドラー、アメリオ……。歴代CEOは開発方針の不一致や業績不振に伴う混乱の末、解任されている。90年代半ばには日本法人でも、代理店政策や価格設定を巡って当時社長だった三田聖二(現日本通信社長)が米本社と対立し、事実上更迭された。先進的で魅力ある商品を扱うだけに、そこで働く人々の思いも強く、時として激しく衝突し合う。

 96年にジョブズが復帰してまず手を着けたのは、経営やデザイン、マーケティングそれぞれで「ドリームチーム」を組み、官僚主義を排して、エネルギーをイノベーションの方向に一致させることだった。創業者しか持ち得ないカリスマが君臨した15年間は、同社の歴史の中では珍しく「社内抗争」と無縁の時期だったともいえる。
■反骨、執着、渇望……疾走の源泉

 ジョブズはパソコンやネットという20世紀最大級の技術革新を先導して、人々の生活や仕事の風景をがらりと変えた。時代を駆け抜けた彼の力の源泉は何だったのだろうか。



アップル本社で開いたジョブズ氏の追悼式(2011年10月19日、米クパチーノ)=ロイター

 60~70年代に社会を覆ったカウンターカルチャーが、既存の大企業にはつくれないものを世に送り出したいという反骨の精神を生んだのだろうか。

 85年ごろソニー創業者の盛田昭夫からウォークマンの1号機をプレゼントされた時にはいたく感激し、部屋に持ち帰ってすぐに分解したというエピソードがある。そこからは、デザインや機能美、ものづくりへの執着がうかがえる。もしくは、まだ見ぬ製品やサービスを自らの手で編み出し、それを消費者が驚嘆の声を上げながら使うといった興奮への渇望なのか。

 成長路線を取り戻した2001年2月。ジョブズが来日した際、単独インタビューする機会を得た。「今日のプレゼンテーションはどうだった? そう、良かったか! どうだ、このマシンの編集機能はすごいだろ」。会うなり歩きながら興奮気味に説明を始め、うかうかしていると質問もできずに持ち時間が過ぎていきそうだった。

 「創業時に『一般大衆のためのコンピューターを』という理念を掲げたんだ。これはほぼ達成したといってもいい。21世紀には人類のデジタルライフスタイルを実現する中核機器としてもっと進化していくだろう」。ジョブズは一人で語り続けた。

 では、次の大きな目標は? あなたを仕事に突き動かしているものは? コンピューターやネットは人類や世界をどう変える? 96年当時、アップル再生を確信していた?……。今思えば、聞いておきたいことが、山ほどあった。=敬称略

(町田敏生)

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