人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

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心を純にしよう

2019-03-08 23:22:45 | スピリチュアル
    113 天命を祈る
一体、人間が偉いとか、偉くない
とかいうおもいは、どこから出て
くるのでありましょうか。

神様の前に、人間は一切平等であり、
みんなが神様の分生命(わけいのち)なのだ
ということが、頭ではわかっておりましても、
今一つ心では、からだでは納得していない
というのが、人間の想念の世界であり、何千年
とつづいてきた我々の思いグセなのであります。

現世的にみれば、偉いとか、偉くない
というのは、ある高い位置にあるかどうか
ということですとか、その人のまわりに
人が沢山あつまってくるかどうかという
ことなど、何かその人のまわりが、にぎやかで、
はなやかで、つねに社会的に注目の的である
ということが、一つの目安となっているようで
あります。
それでいながら、やっかみ半分、ひがみ半分で
その人のことを語ります時には、そうした地位や、
社会的なはなやかさなどを、無理にはぎとり
まして、その人自身の中身が、いかに世間の評価
とはちがったものかという点から、みようと
するわけであります。

私などが、いい人、悪い人。
また偉い人というような言葉をつかいます時
には、その人の心の澄み清まった状態をみて
いうのであります。

心を純にする。
素直にして生きるということほどむずかしい
ことはありませんが、むずかしいと
感じますのが、自分が素直になろう純になろう
とするから、むずかしいのでありまして、
そのまま神様に投げ出して、預けてしまえば、
自分がなるもならないもないのであります。

私が偉いといいますのは、こういう
お任せのこころ、お任せのいのちになって
いる人に出会った時であります。

このお任せを一分でも一時間でも
つづければ、その人はその間、覚者という
ことができるのであります。
また、そうなるように、私は光を送って
祈っているのであります。

ところで、その人の中味そのままをみよう
とするという姿勢は、間違ってはおりません。
ただ、そこに光をおくるか、ねたみやそねみ
などの業想念を送り込むかというちがい
なのであります。

人は、誰でも、神様のみこころをあらわすべく、
この世に存在しているものでありますので、
心をむなしくして、己れをみ、相手をみる時に、
おのずから光が入ってゆく筈なのであります。

それが、そうなってゆきませんのは、
自分と相手という意識のなかで、しっかりと
相手をつくっているからであります。

神様からいえば、相手などというものは
一切ありません。
あるのはただ、愛と光ばかり天命ばかり
なのであります。

それぞれの立場、それぞれのおもい、何が
苦しく、何が辛いかを神様はよく御存知
であります。

そうして、私どもを動かしている真実は、
本心の座にすすませるための神の愛
なのであります。

どうぞ、一人びとりの天命を神に求め、
神に祈りながら、世界平和の祈りを通じて、
祈りを深めていただきたいものであります。
      昭和61年11月4日