人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

(記事はリンクフリーです♪)

2012-08-02 09:58:55 | スピリチュアル
 道というのは、色々な種類がありますね。一本道、
三さろ、人生の別れ道なんてね、別れの一本杉
という歌がありましたけども、一本ということ
でいえば、あれも一本で立ってるわけね。で、
杉の元々はというと、生命でしょ。わたくしが
いつもいっている波動、光ですよね。
 で、いつもいっておりますように、人間
というのは、この世にも、人間界にも、幽界にも
霊界にも、神界にも、自分というものが存在して
いるわけですね。そうして、それぞれが波動で
できている。
 そうすると、元々が光である我々、神の
分御霊(わけみたま)である我々に、何も「道」
なんぞというややっこしいものは、なくても
いいように思う、ねえ。

 車が走るから、車道があるでしょう。運転席を
おりて歩けば、今度は歩道ですわね、まあ、
これは、今、皮相的な説明をしたわけで、
たとえば、習い事にしても、茶道があり、華道が
あり、書道があって、なんか、我々人間のおもい、
人のおもいとして、「道」という言葉にすがって
生きているようなところがある。これは
間違いですか?と、今、私の話をきいている人の
中には、気の早い人がいて、答えを先どり
したような顔なすってる方も二、三ここから
見受けられますけども、間違いじゃあない。

 じゃあ、どうして、何でもかんでも「道」
という言葉をつけるんだろう。もっというと
「─道」とつくと、ありがたいような、尊敬したい
というか一寸あおぎみるような心持ちになるのは
何故なのかと申しますと、それは、人間という
ものは、何かよりどころとするものがなくては
生きてゆけない存在だということなのであります。
 もちろん、茶華道といったって、そんなに気を
入れて、たずさわっている人ばっかりじゃあない
でしょうし、又、「道」というものが、人間の
心の奥底で、それを意識させることによって
「よりどころ」となっているということを自覚して、
たずさわっている人は実に少ないのであります。

 そこで、今日は、このよりどころということと、
「道」のおはなしをしようと思いますが、では、
「よりどころ」=「道」かというと、これも、
微妙にちがうものなんですね。ちがうもの、
といいますのはね、今、わたくしが申しました
「よりどころ」というのは、あくまでも、人間の
私たち一人びとりの心の側からみた「よりどころ」
なんで、これは決して、神様の方からのおもい
じゃないんです。

 人というのは、弱い、苦しい存在ですから、
何か、神様神様と普段思っていてもね、祈って
いても、どうしようもないことにぶつかると、
神様も何だけれど、もっと確かなものが欲しく
なる。たとえば、苦しい時に人がそれをみていて
くれる。あるいは、病気で苦しんでいる時に、
手をにぎってくれる。これらは、その辛い目に
あっている人たちからしますと、何よりも、
確かなよりどころですね。人の手のぬくもり、
なぐさめ、これ以上確かな、現在、味わうことの
出来るよりどころはないわけです。

 けれども、つねにいっておりますように、
「すべては消えてゆく姿」なのでありまして、
よいことも、わるいことも、すべて、すぎ去って
ゆくものなのであります。
 それは、どうしてかというと、生き徹してゆく
一人一人の本体(たましい、霊体)が一段一段
階段を上るためなんです。ここのところを
忘れたり、間ちがえたりしますと、楽しい時は、
どうして早くすぎて、辛い、苦しい時間は
どうしてこうも長いのだろうとため息を
つくことになるわけ。そこで、これは、
「よりどころ」真実、真理に通じるものでは
ないわけです。何も、私はここで、苦しんでる人を
なぐさめるのは、真理に遠いなんていうつもりは
毛頭ありません。そうではなくて、辛いことは
勿論ですが楽しかったことでも、いつまでも、
その瞬間にこだわっていますと、いつしかそれが
執着になる。とらわれのおもい。人間の発する
想念というものになるわけなのです。

 そこで、整理してみますと、それじゃあ、
そういう人の思いとしての行為、よりどころ
と思って、我々の心がみんなすがってゆくぬくもり
などを、永遠のものではないとしますと、
何の為に、「道」というもの、「道」とよばれる
ものが、我々の前に与えられているのか
ということになろうかと思います。
 先程、茶道華道というものを、この話の導入
として申しました。で、結論から先にいいますとね、
本来、「道」と名がつけば、それが、習い事
であっても芸事であっても、それは、人間が神様の
子どもになるそのための修行の場に行かされて
いるんだといっていいんです。
 『中庸』に道についての孔子の言葉が出て
きますわね、「人、道に遠きは」とか何とか
むずかしいことがかいてあるけれども、要するに、
我々の日常生活の一瞬一瞬の中に、道(人が
おこなってゆく道)というと、ややこしいか。
 つまり、生き方というものはあるんだという
ことがかかれています。

 神様というのは、遠い遠い所にいるのでは
なくて、みんなの眼にはみえないけども、もう
光になって、充満しているわけ。みなさん
一人一人の心の中に、ちゃあんといらっしゃる
わけです。イエスが、みんな一人一人が神の宮
なんだということを言っていましょう? ね、
あれと同じなんです。
 けれども、イエスも申しましたように、現代
という時代は、まことにやっかいなことに、
「しるし」を求める時代ですよね。御免状なんてね。
 で、あまり「寄り道」をしますと、こんがらがっ
てはいけませんから、手短かにいいますと、
この道というのは、わたしどもが真理の階段を
上るための一つの姿として、あらわれとして
あるのであります。つまり、どんな「道」も、
それが華道であっても茶道であっても、そこに
加わるということは、大神様が、守護霊守護神が、
働かれて、しらずしらずの間に、私どもの本体
である「光」をかがやかすためのものなので
あります。

 そうして、これは、何もお茶やお花や、書を
やっている人だけとは、勿論かぎるものでは
なくて、私たちの心の奥に、人間として生まれた
以上は、何か一つことをやり遂げたい。根を張って
生きてゆきたいという思いが、たとえば、誠実に
生きるなら、誠実に生きるということを生涯の
目標としてかかげることも、神様につながる道に
つながることなのです。つまりは、この神様に
つらなるための手段(方法)として、万人に
その人となりの「道」があり、これを通じて、
真のよりどころである完全円満の世界、
大神様への世界につながってゆくというわけ
でありまして。
 人が辛い時に、手のぬくもりを求め、そこから、
何かしらかわらないものを求めて、各々が
「道」に志す。で、これを我々はいつか
「よりどころ」だと思って生きるわけですが、
実はもう一つ奥に、この「道」を手段とした
宇宙神という真のよりどころ、永遠に目ざすべき
私どもの道があるわけであります。
 それでは、当日はこれで。どうもありがとう
ございました。