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合気道について

2010-10-22 11:12:25 | スピリチュアル
 合気道の植芝先生というのは、私の体の中にくい込んで、今も一緒に

働いておられるんで、私も生前から非常に親しくさせていただいているんで、

植芝先生の身も心もというか霊もというか、そういうの全部わかっている

つもりでおりますけれど。

 先生が、その合気道というものを通して、つまり武道というものを通して、

神様は愛だという風に、ああいう真理を悟られたことについては、先生の、

この世だけじゃない色んな修行の結果がある訳ですが…。


 まあそれはさておいても、じゃあ合気道というのは何なのかということに

なりますと、私は祈りの方の立場の人間でありますので、祈りの方に即して

言いますと、語呂合わせではありませんけれども、合気道のアイキというのは、

気の流れというものに対して、色々な不調和なものを調和させて、合わせて、

そうして一致させて、そして人間が生きていく為の道しるべをそこでつくる。

 その為の道が合気道なんだということなんであります。もう少し砕いて

いいますと、合気のアイというのは、これはもちろん愛するということに

つながってゆくんでありますけれども、ただ私共が愛するということになると、

せいぜい人間同志が仲良くするとか何とかという風な時限に下ってしまいます。

 ところが、この合気道のアイキというこの合わせるという字と気という字を、

ここから拡がってゆく実は霊的な世界というものは、人間だけとかそういう

ものではなくってですね、生命全体、地球にある宇宙にあるその生きとし

生けるもの全部、もうバクテリアから何から全部ですよ、そういうもの

合わせた生命の調和ですね。

 生命が調和されるように、実は気の流れを、気の流れというのは

霊界神界からくる気の流れですけれど、それを我々受け器である人間が

心のアンテナ本心のアンテナでその流れを受けとめて、そうしてそれを

流してゆく。ね、気の流れを受けとって地上に流してゆく。そういう

ことが一番大事なことなんだ、それをやるのが合気道なんだ、そういう

意味なんです。


 そこで、そんなことを言いましても、精神だけのことでして、それが

根本精神として、合気道の中に流れてるということだけですと、「そんな

高邁な、先生、そんなすごいことは私共には出来ません。だったら合気道

止めさせていただきます。」なんていう人が出てくるかもしれませんから、

少し合気道そのものの、いわゆる道そのものについて言いますと、いつかも

私は質問に答えて言ったと思いますが、ただ立つということが即ち真理に

つながる。合気道の場合はですね。立つというのは何になるか。立つと

いうのは天地を貫いて立っている自分と合体するということです。

 あるいは、いつも植芝先生が言われた“あ”という言葉、そこへ入る。

 回帰する。ということなんです。元の元の根本の太源の生命に帰って、

そこで構えて愛を呼び寄せる。そういうことなんですね。だから気を

集めるんじゃない。気を合わせる。気を集めるんだったら、これはただ単に

人気取りですね。それだったら人間世界だけのことになるけれども、

そうではない。色んな霊妙な気を集めて、そこに立って、そこで構えて、

受けた気を合せて、そうして無心になって打ち込んでゆく。


 合気道で構えて打ち込む時というのは、もうすでにそれは、こういう

ことを知ってる人も知らない人もですけれども、合気道でやる場合には、

その人の肉体人間の気持ちはどうあれ、本体そのものはそういうことを

知っておりますから、本当に祈りの器としてそこで立って、そこで構えて、

構えるってことは、その気の流れを受けて、それを流す。その為の構えです。

 言わば、印でずっと皆さんの想いを受けて手を上げますよね、あの上げて

光を集める状態と構える状態は一緒なんですね。立って構える、そうして

打ち込む。打ち込むというのは何を打ち込むのか。本当言えば、霊界には

打ち込むものはないんですね。愛と愛がぶつかるだけです。

 けれども人間世界の中では、打ち込むもの打ち込まれるもの、色んな

ものがあります。色んな感情があります。余計なものがあります。それを

打ち込んでゆく。でそれを、業なら業というものが来たら、それに対して

それを打ち負かすものは愛ですね。あるいは大きな気の流れですよね。

 神様の愛という気の流れですよね。それを今度返してゆく。だから、

構えて打ち込まれる方は、その気の流れを存分に受けて、そうして

自分自身が光の住者になって、そして、打ち込まれた分それを光にして

帰してゆく。

 そういうことを知って動いている訳ですから、そこで自分の生命が

充実してゆくんだなっていうのは、動きの中で、これは言葉じゃないですよ、

想いでもない、行為の中で本体が知ってゆく訳なんですね。


 だから、空気が瞬動しますよね。武道ですからね。武道ですけれども、

植芝先生が悟ったあの神様は愛だというあの武道ですから、神の愛の気が

満ちているはずなんです。あるいは、そうなってゆくべきなんですね。

 だから、祈りの本心開発といいますか、祈りをやってゆく人たち、

うちで祈りをやってゆく人たちというのは、特に合気道というものを

通して、そして肉体の行為化というものを通して肉体を光明化してゆく。

 その為に合気道をやるということは、本当に大いにいいことでして、

どこに行くんでも、どこでやるんでも、その木太刀にも自分の心にも、

世界平和の祈りというものが込められている位に思ってね。そして、

打ち込む時にも、打ち込まれる時にも、自分の心をカラッポにして

やってゆく。自分が打つんじゃない。気の流れが来て、その気の流れに

従って、自分の木太刀が動いてゆくんだ、自分の体が動いてゆくんだ、

それによって自分の霊性が開発されてゆくんだと思うと、自然に

動くんですよね。体がね。光になって動くんです。


 植芝先生のフィルムが残っていますよね。何べんも何べんも言った

ことですけれども、あれは、植芝先生は光になっている訳ね。あれは

神様の体になっていますよね。神様の化身だから神様の光になって

出てきてるけれども。といって、植芝先生をまつり上げる訳では

ないですよ。皆さんがそういう光の体になって、皆がその光の体を

持ってる訳ね。それを、植芝先生は合気道という一つの武道の中に

体現した、現わした。そういう人なんですね。

 だから皆さんが祈り心でもって、木太刀をもって、合気道という武道を

やる時には、やはり同じような気の流れが、世界平和の祈りを通じて、

私を通じて、私の中にも植芝先生がいらっしゃるから、その愛の気の流れが

流れてゆく筈です。そうして、その武道をやってゆくうちに、自分の中の

霊性開発もでき、それから自分の肉体もすこやかになり、まわりにも気が

まわるようになってゆく筈です。

 だから、そういう合気道というのは、ただ単なる武道じゃなしに、

本心開発の先端を行ったといいますかね、先達を努めたといいますかね、

そういう武道なんだということ。それを忘れちゃいけない。


 武道の武というのは、それこそ戈をおさめる。昔の話じゃないですが、

すべての武道はそこへ行くわけですね。武は愛なりなんですね。その、

武は愛なりを悟った人、悟って私にバトンタッチをして下すった先生、

それが植芝先生なわけね。

 だから、植芝先生が拓いた合気道、先生個人のものではないけれども、

神様の流れというものが植芝先生の肉体の奥に感応して、そして開かれた

気の流れというものは、この合気道の中に流れている訳です。

 その流れを少しでも祈り心でね、打ち込んでゆく人、打ち込まれてゆく人、

やってゆく人は、それを自分のものにして、天に宝を積むように、自分の

魂に宝を積むということが出来る。そういう人になってゆく訳ですね。


 合気道だけじゃない、色んな物事、色んな行為、武道だけじゃなくて、

日々の営みそのものがやはり気の流れを受けて、その神の愛の気の流れを

流してゆく。皆流してゆく。皆平等に、子供から老人に至るまで、私達は

それぞれの立場立場、持場持場で、その役目を持っている。

 そう考えませんと、これはおかしなことになってゆく訳ですね。合気道

だけがすごいんじゃない。偉いんじゃない。そこへ立つ、そこで祈る。

 祈りの座へ、本心の座へもってゆく、もってゆかれやすい。その先達の

役目を務めたのが合気道なんだということ。だから合気道をすることに

よって、皆さんが自分の祈りの生活を深めて、日常を少しでも過ごしやすく

して、体も心もすこやかにしてゆくということが、現実生活を豊かに

してゆくということがですよ、精神的に豊かにしてゆくということが、

本当に人間の気持ちをひろやかにしてゆくということになる訳ですね。

 それが同時に、世界人類が平和でありますようにというこの祈り心ね、

祈りそのものの光を拡めてゆくことにもなる訳なんです。


                          五井昌久