人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

(記事はリンクフリーです♪)

愛のはたらき

2010-10-20 13:02:00 | スピリチュアル
 私はマイクの前に立って、こうやって皆さんの顔を見ながら、何を

話そうかとか、今日はこれについて話そうかとか、そういうことは一切

考えていないのであります。だから、質問をどうぞというのは、質問を

きっかけにして、私は、神様のこと、神様がどんなに人間を愛しているか

ということ。で実は、神様の愛の働きによって人間が生かされていると

いうことを伝える。そういう場所に私がなるということなんであります。


 だからいつか申しました様に、釈迦が来ることもあるし、キリストが

来ることもあるし、老子が来ることもあるし、色々な人が私の体に

降りて来て、そうして、その方面のことをしゃべってそして又出てゆく。

 だから、私の体というのはカラッポなんだとね。私は、生命はもう

神様の中へ帰しました。帰した時に、とに角まあキリスト教で言えば、

“御心のままになさしめたまえ“というあの主の祈りの中の、ああいう

気持ちになって。自分がなったんじゃない、何か奥の方がなって、

そうして、そういう活動をなにかしらさせていただける様になって、

今日になって、今こうして喋べっている訳ですけれども。私というものは

一切無いんですね。何があるかというと、神様の愛がある。それだけ

なんです。その愛というものは、私の為だけにあるんじゃなくて、

これは実は、我々人間全体の為にある。


 この地球世界の自然とか、色んなものが色んな形で生きていますけれども、

それこそ、生きとし生けるものの有りのままの姿をそのまま生かして、

さながらに生かして、その生命が完うする様にというので、その愛が

注がれている。その愛の姿というものを、皆が、ああそうだなと思って

納得して感動して、そうして、それぞれが静かな想いになって、神様

というものにねその想いをはせた時に、皆が神の子なんだということに

なっていきますでしよ。


 そして次には、他愛ですね。他を愛すること。他を愛することという

のは、自分のまわりを確認できることなんですね。自分のまわり、自分の

生命が何によって支えられて、まわりの人の色んな親切だとか、色んな

想いだとか思いやりだとか、そういうものによって生きてる。生かされて

いるということを確認する。この現実の世の中でね。そして、自愛

というのは、そういう感謝のおもいを今度自分が確認して、そうして、

じゃあ何をすればいいかということになると、自分を本当の意味で

労わってね、そして生きてゆく。その自分を本当に労わるということの

中には、人間の心には、色んな姿があります。見たくない、こんな自分は

確認したくない。こんな自分は見つめたくないという想いがありますよね。

 ですけれども、それをずっと見て、ああこういうやり切れないものを

人間は持ってるんだな。そこが自分の中で確認できれば、人間というものは

高められてゆく訳。


 人間というものは弱いですから、何かあれば、神様仏様とすがるけれども、

何もなかったらやっぱり、そっちの方へ想いが行かない。だから、色んな

祈り言葉があるというのは、その祈り言葉を階段にしてね、そうして、

自分の本当いえば姿、自分は何なんだということを突き詰めて考え、

そうして又知らされる。その為に祈りがある。そうすると、我々を

生かしめているものは神の愛でありますから、その神の愛というものを、

神様のというものをとってしまっても、神様の愛が人間の中に働いて、

そして、我々が生きているとすれば、この愛の働きというものはどういう

ものかということになると、これは森羅万象すべてにわたっていると

いうことになってしまうと、説明のしようもないものでありますけれども。


 とに角、愛というものは何かというと、まず一つには、自愛ですね。

 自分を愛することですね。想いを確認して、それを抱きしめるんじゃ

なくって、それをパアッと祈りの中へ放すわけです。祈りの中へ

入れちゃうと、それはどんなに業に満ちたものでも、あるいは闇という

ものがあっても、それは光になりますから、祈りの中へ投げ入れちゃってね、

あるいは、神様、五井先生といって投げ入れてしまったらですね、それは

業は業でなくなるんですね。そこで消えてゆく訳ですね。そういう意味で、

自分を愛する、自分を確認する、自分を労わる、ということは、自分の

中にある人間の色々な心の姿を一つ一つ取り出して、そして浄めて、

浄める為に祈りをして、そのおもいをまわりに、その祈りをまわりに

巡らしてゆくと。そういうことがある訳です。それが一つの愛というものの

実相なわけですね。


 愛というものは限りがありません。ここまでが愛でこっからが愛じゃない

とか、ここまでは愛情だけれどもこっから一歩は愛じゃないとか、そんな

ことはありません。限りがなくって尽きるところがなくって、その尽きる

ところがないものに支えられているということがわかりますと、人間は

どうなってゆくかというと、もうとに角、自分の生命というものは窮まりが

ないんだということに、だんだん気がついてゆく訳です。なぜかというと、

人間を支えているものが神様の愛で、しかも私共がいつも申し上げて

おりますように、人間の生命というものは肉体だけのものではありません。

 貫いてずっとむこうの世界まで行ってもまだまだ続いてゆくのが生命

ですから、つまり永遠の生命ですから。その生命を貫いている愛という

ものが尽きるということがなくって、生命というものも尽きるという

ことがないとすれば、じゃあ人間の働きというものは、そこに気がついて

みると、そこに気がついてゆくと、本当に充実しきった想いになってゆく

訳ですね。何があっても壊れることはない。絶やされることはない種、

生命の種というものを自分の中に持ってる。ね、持たされている。

 あるいはいただいてるということに気がつくとですね、こんな喜びはない

訳ですね。そうすると、自然に自分の気持ちが落ち着いてきて、今色んな

ことがあるにしても、自分は尽きることのないものを貰ってるんだ、

神様から貰ってるんだ。神様の愛というのは無限なんだということになって

きますと、だんだん、荒い肉体を囲んでた業の波動というものが、祈りに

よって浄められてきまして、気がついてゆくに従って、荒いはずの波動が

細かになっています。そして、細かになってきて、だんだん色んな人の

色んな想い、やりきれない想いだけじゃなくって、心を求めている、人を

求めている、淋しがってる、そういう人の想いに人間というものは気が

つくようになってまいります。

 そうして気がついて、それに感応して関わりをもって接していきますと、

そこに何が生まれるかというと、そこに愛念というものが生まれて

まいりますね。そうして、それがどんなに細やかのものであっても、

その間に働くものというのは、深いものがございますから、そこで生まれて

くるものは本当に光明に満ちたもの、光に満ちたもの、愛に満ちたものに

なってゆく訳です。

 そんな風にして実は、人間というものは気がつかない内に、この世の中で、

一歩でも二歩でも進歩をしよう進化をしようといって、歩みを止めては

本当はいないものなのですね。


 色々な所で紛争がある。色々なところで戦争が絶えない。現象だけを

みてると、こんなんで世界は平和になるんだろうか、どうなんだろうか

と思う。思うけれども、それは自分の気持ちの感情の部分が思うんであって、

自分の本体そのものは、皆さんの本体そのものは、世界が完全に平和に

なるということを知って生まれてきている生命なんですね。そうして、

白光真宏会にきて私に会って、魂そのものはそれを覚知してる本体なんです。

 ですから、そこのところは全然動かされていないから、何があろうと、

この世界というものは平和になってゆくし、愛に満ちて調和になってゆく

ということはわかってますんでね。そこに向かって我々自身が生きている

ということを確認しますとね、随分我々というものは落ち着くもの

なんですね、そうしてその働きというものも、だんだんだんだん自分の為の

働きというよりもですね、他者の為の、他者の為から自分のまわりの世界、

まわりの世界というとだんだん広がって行って、世界人類になり、世界人類

からいうと今度宇宙人類になり、という風に広がってゆく訳です。


 我々の住んでる場所だとか、選んだところは狭くるしくって、色んな

制約がありますけれども、我々の本体そのものは神様と直結しておりまして、

その神様の愛というものは無限であるということになってきますと、

我々が器として要求されて、あるいは動かしていただくその場所も

無限である。ね、霊界神界とつながっていて、天の私と地の私がそれこそ

つらなっていて、一体となっていて、そこで働いている。そういう

生命なんだ。そういう働きを我々はこれからしてゆくんであるし、又今

しているんだということ。そしてそういうところに、少なくとも想いを

はせて祈りをしてゆくときに、色々な人の想いが思いやりというものが

こちらへ伝わってきて、そうして自分の中の色んな想念の想いの掃除と

いうものができる。


 色んなことを申しましたけれども、自分をまず高めてゆく。高める

というのも、ただ単に知識を高めるとか智恵を磨くとかということだけ

でなくて、自分の中の本心、霊性というものを磨いてゆく、肉体だけでは

ない、自分の生命というものに目をそそいで生きてゆく。そうしてゆく内に、

だんだんだんだん愛というものが深まっていって、そして、愛だけじゃ

なくって、愛につれて働いてゆく生命そのものも、今度は愛を呼んで

くれる様になるんですね。


 それは何かと言うと、例えば、この世の中で働くということは、生きる

為にはお金を得るということです。そのお金にも愛憎がこもってくる訳

ですね。つまり、苦しいばっかりだと苦しい想いがお金の中にこもっちゃう

訳です。苦しいが来るんです。そうすると、お金が入って来ても苦しい、

入って来なくっても苦しいという状態がくるんですね。あるいは不安とか

不平とか不満とかね。そういう想いが積もり積もった上で、例えばお金を

受けとると、そのお金はちっとも嬉しくないでしよ。つまり、お金が

入って来ても自分の心が自由じゃないね。想いが自由じゃない。何か

解き放たれない。そういう中でお金を受け取ってもね、そのお金は

死んでるんですね。

 お金ってものは、この世の中を生きてゆく一つの手段であって絶対的な

もんじゃありません。肉体を養う為のものですけれども、それでもこの

現象世界の中の一つ一つのものを尋ねてゆけば、全部それは生命体です。

 本来の生命に帰ってゆくもんですから、やはり物質世界のものであっても、

そこへ向ける愛念というものが浅ければ、つらい想いの方が強ければ、

それはそれだけ現象なんだけれども、その現象を通して自分の中の

本心開発が鈍ることになる訳ですね。 


 だから、受けとるもの、暮してゆく為に受け取るお金にしろ人にしろ、

関わってゆく関わり方にしろ、ここでどういう働きをしなきゃいけないか、

つまり自分がどう接してゆかなきゃならないかということは、祈りを

ずうっと深くしてゆくと、自然自然にその自分の中の想いがですね、掃除を

されていって、そうしていつの間にかしら、人に対してもやさしい気持ちに

なって和らいだ気持ちになって、一つ二つは還せるようになってく。

 最初から何も完全にこうしなきゃなんないということはないんです。

 そんなことは考える必要ないんですよ。ちっとも考える必要なくってね。

 私はもうこんな風に又言い返しをしてしまった。こんな風に又主人に

口答えをしてしまった。ね、奥さんに又こんな風に思いやりの無いことを

言っちゃった。そりゃあ夫婦だったら夫婦喧嘩もするでしょう。親子喧嘩も

あるでしょう。ね、それから同僚だって、本当に虫が好かない奴もいればね。

 会の中だって、いつもいつもニコニコ顔という訳じゃないだろうしね。

 人間の集団なんだから。それでもそれを浄めてね、そうして生きていく術

ということになれば何かと言えば、それは祈りなんですね。祈りの中に

光があるし、祈りの中に愛があるし、そうして祈り一念になって、自分の

中にある光明というものを、確認をその祈りの中で奥の体がしていって、

いつのまにかしらやってゆくと、そういう大きな深い愛の生命の中へ自分が

さあーと入ってゆける様になるんです。


 自分の力がないから非力だから、自分はこんな大きな役目は出来ない

とかね、何とか思って自分を閉じてる間はこれは我なんですね。

 そんなものは、人間に力がないということはむこうが百も承知です。

 肉体人間そのままの、我の人間そのままの生命だったら、神様は

使やあしません。そんなものは。

 そうじゃなくって、肉体人間の奥の生かしてるものは何かといったら、

神様の愛なんだから、その神様の愛、自分のね、生命を分けた光を分けた

光の一筋の光線の一筋一筋のいとしい生命を神様が抱きとって、そうして

働きをさせようというんだから。

 その時にあなた方がどんな風に自分たちが非力だと考えようと何しようと、

そりゃあむこうの知ったこっちゃないんですね。その時にはまかせなきゃ

いけない。任せきった時には、自分で思いもかけない働きというものが

出てくる訳なんです。それは任せ切った時に出てくる訳なんです。

 任せ切るっていうのも、自分で任せよう任せようとかね。任せなきゃ

とかね、そんなこと考える必要ないんです。皆向こう側が下さる働き

なんだから。自分がゼロなんですね。あるいはゼロ以下なんですよ。


 肉体人間としてみればね、何も出来るもんじゃない。凡夫なんだね。

 親鸞が言ったように凡夫なんです。凡夫なんだけども任せきってね、

南無阿弥陀仏なら南無阿弥陀仏、世界人類が平和でありますようになら

平和でありますようにの祈りの中に自分というのを入れてしまうと、

そこで、自分の中へ普段は奥の方へ入らされている光明というものが

燦然と輝き出してきて、祈りになって、一体になって、そしていつの間にか

神様と一緒になって働ける。そういう生命というものを我々は種として、

生命の種として自分の中に持ってるんだということね。それを忘れて

しまったら、これは卑下高慢になるんですね。


 生きてゆくってことは苦しいことです。生活というのは大事なんです。

 だけれども、その生活とか生命とかそういうものを支えてるものは何か

といったら、神様の愛だから、その神様の愛に入るということは、現実を

バカにすることでもなきゃ何でもないんです。

 その本来の生命にかえって、神様に任せきった時に、神様がさあっと

救いあげるし、神様が働かせるし、その時に自分だけの働きじゃない、

まわりの人だけの働きじゃない、もっと深いもっと大きな働きというものを、

愛というものはなさしめるんです。

 なぜならば、それは神様から出ているもんであるから。そして、我々も

神様の生命一筋であるから、それが出来なきゃうそなんです。

  
                           五井昌久