人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

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人間について

2010-10-17 14:16:21 | スピリチュアル
 私のあまり広くない家の庭ですけれども、庭には色んな花が

咲いておりまして。その花の生命といいますか、自然の造形の

美しさというものに見とれることがしばしばあります。そして、

自然というものの持っている霊妙な心といいますか、神の心を

映した精妙さというものにしばしば感動することがあります。

 花なら花の生命、木なら木の生命そのものにも感動致します

けれども、やはり、その木を生かしている、木が木であること、

花が花であること、ありのままのそのままの生命のままに咲いてる

その姿に感動を覚えないではいられない訳であります。

 人間というものも、生まれたての頃といいますか、この地球に

降りてまいりました頃というのは、そのままの有りのままの生命

でありまして、こういう業が今のように地球の内を蔽っている

という風な、そういう世界でなかった頃というのは、本当に

やさしい言葉で言えば、神様と人間がツーカーの間柄であった訳で

あります。ツーカーの間柄というのはどういうことかというと、

それこそ神様と直接話が出来てという風なそんな親しい間柄で

あった訳であります。それは、話しが出来て偉いとか何とかじゃ

なくて、神様の心を心として生きる、つまり、あるがままに

生きるということが出来た時代から、この地球世界というのは

始まっていった。


 ところが、この地球世界というのは元々荒い波動でありますから、

何ども申しておりますように、色々な物質現象などを出現させて、

そして、人間もだんだんに肉体というものをまとっていきませんと、

この荒さの中では生存が出来なかった。その生きる、生きていく、

毎日を競争して、色んな天敵なんかと、あるいは病気なんかと戦って

生き残ってゆく。その為には随分と工夫も努力も、あるいは科学の

発達も医学の発達も色々なものを産み出していかなければならな

かった訳ですね。

 つまり、科学療法といいますか、対症療法といいますか、そういう

ものを産み出してゆかないと、この肉体そのものを養ってゆくという

ことが不可能になった。そういう時代になって行った訳です。


 そういう時代になるに従って何が薄れていったかというと、

神様とのつながり。ね、自分の元々の本体が霊であって、霊なる生命

であって、そうして、その奥の体の自分と、光そのものである自分と、

神様からの愛というものが本当に一つで、純粋無垢に一つで、昔は

赤子のように頼り甘え、対話も出来、そういう時代があったんだと

いうこと自体本心本体はわかっておりますけれど、肉体をまとって

しまって我というものを生まれさせた人間からは、なかなか想像も

出来ない様な遠い世界のように思わせてしまった。そういう時代が

もう何十年何百年何千年何万年と続いて今になっている訳であります。


 こういう世の中になってまいりまして、現実の世の中に目を

うつしましても、なかなか自分の思い通りにならないとか、自分の

欲求することが叶わないとか、そういう現実ばかりにつき当たって

おりますと、人間というものはだんだん諦めてしまう様になって、

そして、諦めるところから今度何といいますか、第一線から身を

引いてしまう様になって、第一線からというのは仕事の場だけじゃなく

心の部分からいっても、第一線から身を引いてしまうようになって、

そうしてだんだんだんだん人間の本来の生命からいうと、その生命が

萎びてしまうような、そういう世界になって来ている訳であります。

 で萎びきったらもうそこで終わりってなもんですけれども、

萎びきりはしないわけ。なぜかというとそれは、神様からの生命で

ありますから萎びる訳がない訳でありまして、萎びる訳がないけれども、

一歩誤まれば萎びるかもしれない。その切り岸のところに立って、

危ないところに立ってる人間の今の状態というものを神様の方が

ごらんになってですね、そうして何をすればいいか、どうすればいいか、

人間を元のとおりにね、人(霊止)にかえす為にはどうすればいいか。

 そのことをずっとお考えになって色んな人を出しました。私なんか

御用に呼ばれてですね、そうして世界平和の祈りというものを受けて、

この地球世界の浄化というものをですね仰せつかって、そうして

この運動というか、この神様の愛を広める、その為の場所として私の

生命が使われた訳であります。


 こういうことを考えておりますとね、人間というものの可能性の

深さということね。つまり人間の方から、肉体の人間の、ややこしい

ですけれども、肉体の我におおわれちゃった我に邪魔されちゃった

肉体人間の意識の方からすると、人間なんてものは果敢無いもんで、

生命が消えちゃったらもうその人はこの世の中にいないわけだし、

そこでどんな働きを今までしていようが何していようが評価されて

いようが、どんなに財があろうが何があろうが、そこで断ち切られ

ちゃったら終わりになる訳ですけれども、そうじゃない。


 つまり、生き通しの生命の霊界の方神界の方から見ますとね、

神様の愛というものは、財力を失わせてあるいは財力を与えて、

だから万歳とかだから良くなかったとか、ここで人の可能性を

切っちゃうとかそんなもんじゃないんですね。神様というのは

あくまでも、どんなことがあっても人間を愛し抜く。愛して赦して

赦して赦しっぱなしの生命なんですね。あるいは愛しっぱなしの生命

なんです。そうして、その愛というものには尽きることがない。無限

なんですね。


 その無限の愛を注がれた人間の本体というものを、私達は、私達の

肉体のこの奥に持ってる訳です。そうして実は、この肉体を養っている

ものの無限の愛の種をもってる自分自身、本心なんですね。だから、

それが自分なんだっていうことに気がついた時の人間の可能性ですよ。

 その可能性というものはね、これは無限なんですね。これはひたすら

天命というものに向かって走り抜いてゆく生命なんです。

 天命というものは、これは一生二生のもんじゃない。何十生何百生

何千生のものなんですね。


 私なんかがお浄めをします。先生うちの子が熱を出しました。学校へ

行けません。あるいは家で喧嘩がたえません。もちろんそれは悲しい

ことです。苦しいし悩みごとでしょうね。だから、私はそこで柏手を

打つし、必要であれば印もきる。統一会では印も切りましたよね。今も

きってる。だけども目の前のことだけで私は印を切ったり柏手を打ったり

する訳じゃないんですよ。お医者さんがお腹が痛いと言ってる子供に

頭痛の薬を与えないのと同じようにね、そんなことする医者はいません。

 その腹痛の子には腹痛の薬を、止める薬を与えますよね。だから、

それ相応の光なら光というものを与えて安心はさせます。現象を止める。

 それはしますけれども、それだけじゃない。皆さんのこの世だけじゃ

ない生命ね、貫いてる生命、天命に向かってゆくその限りない生命と

いうものを、私は一人一人を引き受けている訳です。だから、引き受け

てるその天命が滞りなく、できるならば心を真白にして天命を走り抜いて、

神様のみ許に、神様の愛の中に、ただ中に貫いて走ってゆけますように、

その為に光を送る。その為に私は印をきるし、それから柏手を打つし、

色々な法話も話したりするわけなんですよね。


 だから、目前にいる皆様のことをもちろん心配しています。皆様が

不幸にならないように出来るだけ暗い想いにならないように、揉め事が

ないように色んなことを想いますよ。

 思いますけれども、しかし、心配している私がいると同時に、本当には

心配していない私もある訳なんですよ。先生そんな不人情だ非人情だと

いうんじゃない。ね、私はなんでそんなこと言うかといったら、皆さんの

生命、想い、皆さんそのものがこの世だけの生命じゃないということが

わかっている。ここを通り抜けていって、又次の障害を通り抜けていって、

そうして一生二生三生ね、十生百生千生貫いていった時に辿り着くね、

光明の光明体のあの世界というものを私は体でもってね、この全身でもって

心でもって分かってる訳ね。

 だから、そこへ何の障りもなく出来れば送り込みたい訳ですよね。だから、

柏手も打つ。そうして、世界人類が平和でありますようにという祈り言の

エレベーターにのってエスカレーターにのって、皆さんを送り届けたい

わけね。一人も逃したくない。


 今の私の想いとしたら、白光の人であろうとなかろうとね、やっぱり、

この祈り言に目をとめ心に想い祈りをしている人、その人達を先駆けとして、

全部の人を救っていきたい。そういう手伝いをしてくれる人をやはり

増やしてゆきたい。だから、色々なことを無理を言うこともあるかも

しれないけれども、しかし、その無理というのは、皆さんの能力以上の

無理は私は言わないつもりです。

 それは、私があなた方の本質本心、働きの深さという本質的なものですよ、

それを知っているから。現象的には無理をいうこともこれからあるかも

しれないけれども、だけども、こちらに任せて下されば、私はあなた方の

一生二生だけではない、全部のね、天命全体についての責任を私は

あなた方に負っておりますから、それを果たすべくね。諦めないですよ。

 諦めるというのは本当は萎んじゃうという意味じゃなくって、真理を

明らかにする、自分の本体を明らかにする、自分が何物であるかと

いうものを突き詰めて見つめる、掘り下げるという意味ですから、

そっちの意味のあきらめるという意味で、自分を深くして、そうして

掘り下げて生きてゆく生命というものに対して、私は責任を持ってる

訳です。


 だから、安心してというのも、安心もし切れないでしょうけれども、

色んな想いが出てもいいから、私の方へどうぞ任せて、進んで

行って下さい。

                五井昌久