11月24日(振替休日)
連休最終日は小雨模様、朝の散歩を済ませますと外出は控えて読書日と決めこみました。「農耕起源の人類史・ピーター・ベルウッド著」と同時購入の「ヒトゲノムマップ・加納圭著・京都大学学術出版会発行」が未読、何とか読破しようとしますが、著書にあります多くの遺伝学用語が分からない。どうも遺伝学の書籍は味付けが無いと読みづらい、そんな思いを抱いていましたら、「5万年前~このとき人類の壮大な旅が始まった~ニコラス・ウェイド著・安田喜憲監修・沼尻由紀子訳・イースト・プレス発行」に出逢い思わずニコニコなります。内容に関心を引く章節がある書籍はどこからでも読めるのが特徴です。
射手はいずれも地元中学生・高校生・小学生、射手に男女の差別がないのが時代を現しているのか、おおらかさが良かですな!
イギリス生まれの科学ジャーナリストが記載した「5万年前」の人類の話題で頭を柔軟にして、何故柔軟になったか?「アフリカを旅立った祖先たちの人数は、わずか一五〇人程度だった」と。さて、昨日の住吉神社の流鏑馬をもう一度掘り起こしてみたいと写真を広げてみました。中から出来映えの良い六枚を選び改めて眺めいりますと、三つの言葉が浮かび上がります。年代を古い順に列記しますと「姥石、住吉神社、流鏑馬」となります。これらを結ぶものがありますか。
御神域とは真実を申し上げる場所か、そういう場所が無いと集落は存続し得ないと思うようになりました
どの言葉も日頃は縁のない世界です。現地、つまり住吉山は曽於市末吉町東部にあり海抜二六七mあり、どちらかと言いますと丘に近い山。それなり大隅半島歴史の舞台にもなったでありましょうが、山頂にある姥石については末吉町教育委員会は掲示板で次のように説明しています。
こちらが西側の姥石、どんな役割を果たしたのか、昭和五年発掘前はどんな形状であったか、こうしてみますと発掘しないのも方策
掲示板説明文:「住吉神社のある住吉山の頂上にかまど形の姥石がある。姥石は二基あり一基はは頭部の石が失われている。昭和五年三月七日考古学者鳥居竜蔵博士によって発掘され現在の二基が露出したのであった。記録によると住吉山は一名姥ケ岳ともいい姥石は日向大隅二州の界石ともいっている。鳥居博士はこの姥石を立石(メンヒル)といわれた。ここでは古代の宗教的な殿堂御神体の安置所であったと考えられるという話であった。八幡一郎氏はドルメンの一種であろうと言われた。ドルメンというのは墓室をいう。鳥居博士は付近にストーンサークル(盤境)の形跡があるといわれたが現在はよくわからない」
発掘前山頂には小さな古墳があった!五千年を振り返ると天へ祈る場、死者の眠る場、戦の本陣跡と、時代を象徴する人々の姿が浮かぶ
この姥石がどんな役目を担ったのか、自分の考えに沿い判断して姥石の持つ意味を決めなければなりません。山頂にあるわけですから、天へは平地より近い、それなりに神聖な場所、聖地としてあがめられた場所か、もしくは霧島桜島と見通せる位置でもあり、分水嶺は日向灘と志布志湾に別れ、州境との意識が人々に残っています。永い歴史の中で山が果たす役割は時代を追って変化したと考えて差し支えない。但し、共通するものは人の心を高揚するもの、やはり主流は宗教に関係してくるのでしょうか。
この国の神域はやはり自然林がよく似合う、日本画家山内多聞が長命であったならアジアの風景人物を描いたと想像します
そんな遺跡を持つ山頂を背景にした住吉神社は南向き、志布志湾に向かって建立されています。創建はいつの頃なのでしょうか?境内には杉の巨木、ご神木が数本ありますが広葉樹は太古の雰囲気を残しています。神社の境内は多種の樹木におおわれてこそ神の庭になるものです。住吉神社、なんとも厳かな神社名です。人々の信仰を今でも保っています。いつの世になっても神のおわす御神域とは人々の住む集落に存在するものと教えて頂きます。
若者の晴れ姿、やはり地域社会でしっかりと大切に育てていると一目でわかる、嘘を嫌う世界です
娘子の真剣な眼差しと的を射抜く射手となった姿、人々の喝采には豊作への願いが込められており、娘子の一心不乱な姿は観客をも的の一点に巻き込んでしまいます。徹夜で三三番の演目が舞われる夜神楽と比較してわずか一時間の流鏑馬神事、祭りにも地域性があるのか、服装や装備を時代考証すればかなり訂正個所もありそうです。それは小事なりです。人の心を引きつけて放さないものには大河ともいうべき大きな流れがあるもの。なるほどこれからも住吉神社の流鏑馬は続き当分は足を運ぶことになりそうです。
連休最終日は小雨模様、朝の散歩を済ませますと外出は控えて読書日と決めこみました。「農耕起源の人類史・ピーター・ベルウッド著」と同時購入の「ヒトゲノムマップ・加納圭著・京都大学学術出版会発行」が未読、何とか読破しようとしますが、著書にあります多くの遺伝学用語が分からない。どうも遺伝学の書籍は味付けが無いと読みづらい、そんな思いを抱いていましたら、「5万年前~このとき人類の壮大な旅が始まった~ニコラス・ウェイド著・安田喜憲監修・沼尻由紀子訳・イースト・プレス発行」に出逢い思わずニコニコなります。内容に関心を引く章節がある書籍はどこからでも読めるのが特徴です。
射手はいずれも地元中学生・高校生・小学生、射手に男女の差別がないのが時代を現しているのか、おおらかさが良かですな!
イギリス生まれの科学ジャーナリストが記載した「5万年前」の人類の話題で頭を柔軟にして、何故柔軟になったか?「アフリカを旅立った祖先たちの人数は、わずか一五〇人程度だった」と。さて、昨日の住吉神社の流鏑馬をもう一度掘り起こしてみたいと写真を広げてみました。中から出来映えの良い六枚を選び改めて眺めいりますと、三つの言葉が浮かび上がります。年代を古い順に列記しますと「姥石、住吉神社、流鏑馬」となります。これらを結ぶものがありますか。
御神域とは真実を申し上げる場所か、そういう場所が無いと集落は存続し得ないと思うようになりました
どの言葉も日頃は縁のない世界です。現地、つまり住吉山は曽於市末吉町東部にあり海抜二六七mあり、どちらかと言いますと丘に近い山。それなり大隅半島歴史の舞台にもなったでありましょうが、山頂にある姥石については末吉町教育委員会は掲示板で次のように説明しています。
こちらが西側の姥石、どんな役割を果たしたのか、昭和五年発掘前はどんな形状であったか、こうしてみますと発掘しないのも方策
掲示板説明文:「住吉神社のある住吉山の頂上にかまど形の姥石がある。姥石は二基あり一基はは頭部の石が失われている。昭和五年三月七日考古学者鳥居竜蔵博士によって発掘され現在の二基が露出したのであった。記録によると住吉山は一名姥ケ岳ともいい姥石は日向大隅二州の界石ともいっている。鳥居博士はこの姥石を立石(メンヒル)といわれた。ここでは古代の宗教的な殿堂御神体の安置所であったと考えられるという話であった。八幡一郎氏はドルメンの一種であろうと言われた。ドルメンというのは墓室をいう。鳥居博士は付近にストーンサークル(盤境)の形跡があるといわれたが現在はよくわからない」
発掘前山頂には小さな古墳があった!五千年を振り返ると天へ祈る場、死者の眠る場、戦の本陣跡と、時代を象徴する人々の姿が浮かぶ
この姥石がどんな役目を担ったのか、自分の考えに沿い判断して姥石の持つ意味を決めなければなりません。山頂にあるわけですから、天へは平地より近い、それなりに神聖な場所、聖地としてあがめられた場所か、もしくは霧島桜島と見通せる位置でもあり、分水嶺は日向灘と志布志湾に別れ、州境との意識が人々に残っています。永い歴史の中で山が果たす役割は時代を追って変化したと考えて差し支えない。但し、共通するものは人の心を高揚するもの、やはり主流は宗教に関係してくるのでしょうか。
この国の神域はやはり自然林がよく似合う、日本画家山内多聞が長命であったならアジアの風景人物を描いたと想像します
そんな遺跡を持つ山頂を背景にした住吉神社は南向き、志布志湾に向かって建立されています。創建はいつの頃なのでしょうか?境内には杉の巨木、ご神木が数本ありますが広葉樹は太古の雰囲気を残しています。神社の境内は多種の樹木におおわれてこそ神の庭になるものです。住吉神社、なんとも厳かな神社名です。人々の信仰を今でも保っています。いつの世になっても神のおわす御神域とは人々の住む集落に存在するものと教えて頂きます。
若者の晴れ姿、やはり地域社会でしっかりと大切に育てていると一目でわかる、嘘を嫌う世界です
娘子の真剣な眼差しと的を射抜く射手となった姿、人々の喝采には豊作への願いが込められており、娘子の一心不乱な姿は観客をも的の一点に巻き込んでしまいます。徹夜で三三番の演目が舞われる夜神楽と比較してわずか一時間の流鏑馬神事、祭りにも地域性があるのか、服装や装備を時代考証すればかなり訂正個所もありそうです。それは小事なりです。人の心を引きつけて放さないものには大河ともいうべき大きな流れがあるもの。なるほどこれからも住吉神社の流鏑馬は続き当分は足を運ぶことになりそうです。
今は勤労感謝の日と名前を変えましたが、戦前から11月23日は新嘗祭と、五穀豊穣を祈る大切な日です。
流鏑馬もまた同じ日にあります。神社文化が豊かに残る地方は、若者が生き生きとしているかのように思われます。
御貴殿の写真はとても素直(失礼)で拝見しやすく、姥石に強く興味を持ちました。状態からして人工的に配列されているように見えますが、早速見に行かないと気がすまないタイプなので、行かせて頂きます。
巨木と同じように、巨石信仰も多くあります。人間が自然を恐れ、自然に親しんでいた古きよき時代を忘れたくないものです。(祈)