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緑の街の水先案内人

都城市で緑の街の水先案内人として移る日々を写真と日記で綴ります。

祓川神楽-Ⅱ

2007年12月10日 17時56分16秒 | 民俗芸能
12月10日(月)

今日は師走らしい日で仕事専念日で、都城市議会の傍聴も出来ずにいささか心残りでもあります。さて、昨日に引き続き祓川(はらいかわ)神楽の写真掲載作業に取りかかります。全部で百五十枚ほど有り単純作業が続きます。ソフトに熟練しておれば簡易方法が有るはずですか、一枚一枚を丁寧に入力していきます。夜神楽の世界、何かしら心打たれるものがあります。近日中に保存会会長さんの労をねぎらいに行きましょう。




























































祓川神楽準備

2007年12月08日 16時08分15秒 | 民俗芸能
12月8日(土)

☆★「霧島の峯より奥の霧はれて現われ出ずる其の峯の守」★☆宮崎県高原町祓川神楽の神歌で詠われる一節です。十二月第二土曜日は狭野神社の夜神楽に続き毎年夜を徹して神楽が舞われます。御祭神は霧島東神社です。



高崎町の客人の用事を済ませて高千穂の峯の元にある祓川神楽殿に向かいました。夜神楽の確認です。過去には集会所広庭で満天の星を仰ぎ神楽舞台が設置されてウキウキとした心持ちで神楽を楽しみました。娘達も総員引き連れて出向いたこともあります。育児時代は山登りから野鳥観察まで県内一泊程度の距離はよく出向きました。帰らぬ日よ、永遠に娘達の心の中に有りませ。



丁度、昼過ぎとなり集落の神楽人と昼食を一緒にと誘われて、済ませて来ましたと述べると神楽の昼食は格別ですよと誘われて血糖値が上がるのも忘れて二度目の昼食になりました。握り飯二個、豚汁、酢の物、香の物とさっぱりとした昼食ご馳走様でした。



つい最近、東国原宮崎県知事の若者教育に徴兵制度を採用してはと発言がありました。その後発言訂正、詫びられましたが、若者教育には民俗芸能は格好の教育素材だとかねがねから思っております。握り飯の昼食中、神楽人とご一緒して淡々とした表情に思わず胸が熱くなりました。こみ上げて来るものがあります。お思い出しても涙が出てきます。



この集落の人々の顔、かって戦場や川普請など集落の外に出向くときは一番頼りになった同じ集落の顔ぶれ。若者教育に最も大切なものは集団で行動する様式、極限状態で誰が一番信頼出来るか、一番守るべき人は誰かなど、滅多に出逢わない場面を想定したものが民俗芸能の中には含まれていると思っています。



さて、今宵に備えて早めの帰社、宮崎県内の夜神楽の南限は祓川神楽です。それなりの歴史があり、いわれも有りますが高齢化が迫る山間部の集落、日本全体で考えますと一極集中ばかりが人間の幸せではありません。民俗芸能の中に置き忘れた宝物があること今夜はとっくりと鑑賞します。






















フラメンコスタジオ

2007年10月01日 17時09分16秒 | 民俗芸能
10月1日(月)

広い都城市には様々な女性がいます。午前十一時に、やり繰り算段して関之尾町のフラメンコスタジオ「プエルタ・デル・ソル」へ出向きました。フラメンコ舞踊家・花原千枝美さんの基、生徒四名がレッスンに励んでいます。CDから流れるフラメンコ音楽、何とも乗りやすい三拍子。タタッタッタッ、タタッタッタッ、タタッタッタッ。


スタジオは、ひたすら魅惑を求めて練習中の女性陣、男の子どもの知らない世界は広がるばかり、貴殿はある日突然に伴侶の変貌に気づくか?

スペインでは又木啓子さんも活躍中、彼女も滞在して何年になるのでしょう!さて、初対面の花原千枝美さんは野海洋子さんの紹介、1988年にスペイン・マドリッドに出向かれて十九年間の本場フラメンコ舞踊修行、今年の四月に帰国されて、何とも嬉しい実家のある関之尾町でフラメンコスタジオを開かれました。市内の美女連に女性魅力の神髄を特訓中、 美女は必見!心身共に女性が魅惑の輪に包まれるのは、男性には永遠の願望。


フラメンコ舞踊、どこか哀愁ある音楽に乗るジプシーの踊り、インドから民族放浪の旅が、営々と受け継がれて、踊りの仕草にそを見出し得るか!

短い時間に話は弾みます。なにせ女性の三拍子が揃っています。
何が?
まず美人、次に独身、三っ目に御歳四五歳。六〇歳後半の身から見れば、ひたすらホーッ・・・・。
さて、本論、彼女の都城市での初公演、とりあえず蔵原町のムジカホールで開催しませんか?あそこだと三〇〇名弱の客席、さほど集客に無理が無い。ギタリストも呼ぶという、本格的なフラメンコ舞踊を都城市で鑑賞できます。
賛同者は当方のメールhigasi-kun@higasi.com 迄どうぞ。良いものには人が集まります。

今日の付言は、都城市長解職請求ー3
昨日から机上に古びた書籍があります。「日本列島・地方都市・その現実」勁草書房 ・1971年12月第1刷発行、1972年6月に横浜で故郷を想って求めた三部作(日本列島~巨大都市・地方都市・農山漁村~その現実)の一冊。あれから三五年が経過しました。

感想:年月が過ぎて現れるのは政治ほど無駄金の掛かるもの無しか! 表現が慎重でないけど、死屍累々、民間企業であれば、如何ほどの社長のクビが飛び、如何ほどの会社が倒産したであろう!驚くばかり。
今も続く日本政府に盲目的に従属する地方行政の無定見、地方の誇りを示す生き様はいずこか?です。その延長線上に都城市民会館撤去か。「この地域で生まれた生活文化を育てよう」更に「魅力ある地域環境を造ろう」と言うスローガン、むなしく響く。

俗に言われるハコモノ、期限が来れば文化財の価値を考える・或いは活用を市民団体へ回す・活用提言が市民から出てくる。そんな認識が市長・市議会議員・市民に出るのはいつの日か?そうなると市議会議員は不要か! そこまでは行かなくても、市の財産は慎重に扱いましょう。まだ、市営住宅など指定管理者制度の件、都城市と市民団体とで連係プレイはこれから続々の感あり。

まだ、公言するには早いかもしれませんが、「所詮、基の息子、親が親なら子も子」と言われるに、後何日? そんな定評たたぬようするが肝心。政治家の行動、市民は口で返す。今回はやや駄弁。

佐仁八月踊の後で

2007年09月20日 18時45分25秒 | 民俗芸能
9月20日(木)

昨夜、民宿むさし屋に帰還したのが午後十時過ぎ、PCを取り出してディオンでインターネットへ接続するも不能、赤木名は携帯電話はONになるもPHSはまだ不通、空調機の温度を設定して睡眠につく。午後十時半。



朝はいつもの如く静かに夜が明ける、この民宿は二階が三室、一階も三室か、泊まり客四名、赤木名の外れにあり、眼前は海、こうして静かな朝に昨夜の祭りのことを考えます。昨夜は七軒の個人宅を訪問してそれぞれの庭や通りが踊り子衆囃し衆の舞台となります。迎える家庭では山盛りの料理が用意されており、踊り子衆や見物人に大盤振る舞い、そして踊りが最高潮に達するとお花の御礼披露があります。目標額二百万円、気を長くして踊り明かす金額、集められたお花は一年間の集落事業経費となります。この辺のことも良く了解して事前にお花準備をするも集落の人々に対する礼儀です。細やかな気配り団結心がかいま見られます・



踊りは男組と女組とで踊りも唄も微妙に異なる歌垣の世界で有ることは、少し民俗芸能に関心を持たれた人には気づかれる内容の祭りです。歌のハーモニーが小学校唱歌から始まった世代には何処か異なる事にまず気づきます。この辺は南西諸島の島々にはそれぞれに関連性のない音楽の世界が有りそうです。上手く音楽の世界を表現できませんが、入りこめば深く広いアジアの世界が見えてくるのではないでしょうか。佐仁八月踊が今も見物人が多くて関心を持たれるのは、まず入口の段階で佐仁の特徴が際だっている、或いは整然と受け継がれている、この辺りにまず第一歩が有りそうです。



集落内は迷路とも言われる幅三米、狭くて二米の道路、寄り添うようにして家々が並んでおり、どこか佐仁の人々の心が伝わるのか塵一つありません。団結心の強さ、公徳心の高さを見ます。亜熱帯気候風土の中で営々と生活を続けて来た人々、祭りが生活の中で大きな役割を果たしており、それをどう伝えるか或いは感じるか、人それぞれに縁あれば体験して頂いて、自分の人生の塩味にすれば幸いと思いました。

佐仁八月踊(さにはちがつおどり)

2007年09月20日 13時51分49秒 | 民俗芸能
9月19日(水)

今日は奄美市笠利町佐仁へ八月踊見学、朝一〇時三五分に鹿児島空港発奄美行きの三六人乗りターボプロペラは一時間一五分の飛行時間。佐仁の方々とご縁の始まりは徳之島の演芸大会へ今は故人となられた鳥集氏と「南の唄と踊り」現地調査で出逢ったグループが佐仁の人々、あれから二〇年が経過したでしょうか!



南の唄と踊りは今存亡が危うくなっている都城市民会館で開催したのが始まりです。当初は「霧島の唄と踊り」としてNHKとタイアップして都城市を中心として鹿児島県と宮崎県の民俗芸能を一堂に会して開催したイベントです。



さて、奄美空港には奥重吉夫妻が出迎えに来ていただいており、ありがたい出迎えです。夫婦とも数えの八十五歳、お知り合いになった頃が今の自分の歳かと思いますと永いおつき合い。昼食を三女の娘さんと四人で民宿の居酒屋で済ませて今夜の宿を確認して佐仁の奥宅へ向かいます。都城市も静かですが、奄美大島のこののどかさは何処か何かが異なると言いますか、穏やかな空気が流れているというか、訪問者をも何かほっとさせるもの何であろう。島の平地はサトウキビ畑で覆われており、刈り入れがぼちぼち始まった処でしょうか。



八月踊りは旧暦を使って日取りを決めており、稲刈りを終えた季節に各集落ごとに行われていたのでしょう。今は佐仁の八月踊りが有名になってきています。祭りの内容は夕方に集落の各戸を訪問して庭先でみんなで歌い踊る、唄も踊りも多彩、時には男組・女組と分かれて掛け合いが始まります。取り憑かれて気づいたときはリピーターになっています。ウタガキの世界を体験する祭りでもあります。

裸馬の刻印

2007年07月02日 16時29分26秒 | 民俗芸能
7月2日(月)


田んぼの中で裸馬を乗り回すなんて、少年の心がなければ、或いは少年時代に体験しなければ、こんなに上手に乗り回せない

祭りの余韻、御田祭のはち切れる喜びの声が耳にこびりついて、一日が過ぎても、まだ、陶酔境の世界にいます、幸せ、この上なし
何がそんなに酔わせるのか、検証してみれば、まず、呼び出しの御神田への馬入れ儀式、田んぼに馬が入る姿、久しぶり懐かしい


どんなに馬が疾走しても、また、急停止しても、騎手は馬上で姿勢を保ち、手綱さばきが絵になるには、それなりに訓練と年月が掛かります

四頭の輓馬(ばんば)と一頭の農耕馬、どこが違うか、骨格が異なり、今の輓馬の太り具合からして肉用馬か、荷役馬として何処で活躍中か?
農耕馬はそれなりに山間部で活躍の場面があるのか、在来種の大きさは今も昔も変わらず、人間の勝手が馬の風景まで変える


周囲はカメラの放列、これほど並びますと、あえて申うせば、写真も素人と玄人との区別が無くなる!これから新しい世界で始まる現象!

しかし、裸馬に乗る騎手の基本、日頃乗り付けている、あるいは訓練されている、足でしっかりと馬の胴体を押さえています
この押さえが弱いと腰が上下に動き落馬の憂き目にあいます、騎手五名はいずれも基本を守り腰が浮いていません


騎手はすっかり調子が出てきました、裸馬は図体も大きいだけ、かねての運動不足も重なり、はやばて気味、ご苦労さん

この辺りにも祭りが盛り上がる要因があります、つまりは「好きこそものの上手なれ」、裸馬の背骨と騎手の尾底骨が当たり
皮が擦りむけ血が出てやがて繰り返すとたこができます、そんな体験をしますと、乗馬の心得が出来てきます
祭りとは、その楽しさが体の何処かに刻印となり、刻まれ、祭りの場面に出逢うと刻印がうずき出し、祭りモードが体に湧いてきます

御田祭

2007年07月01日 21時37分15秒 | 民俗芸能
7月1日(日)


一千年続く田代の田んぼ、畦はしっかりと石垣である、つまり棚田、長い年月をかけて造り続けた山間の田んぼ、先祖伝来の田

御田祭の現場、宮崎県児湯郡美郷町西郷区田代、田代神社の御神田、今年が昨年に引き続き二年目の見学会、昨日の今日二日目本番です
今年は日向市門川町友人三人組と合流、日向市美郷町界隈の情報も豊か、過去現在が交差する御田祭、それなりに祭りの雰囲気を楽しみます


馬が田代に入ったのはいつの頃か?小さなやせた馬であったろう!何故なら、海峡を黄海を渡るに舟にぎりぎりの大きさだった

祭りの本質とは何か?ああそんな口調は人は寄りつかない!歌って踊って呑み場が有って、その上で良よか気持になる、それが祭り?
祭りの本質は、「全員参加・祭りの新鮮な感覚・みなぎる充実感あらたな心意気」、それを感じれば祭りは続きます


牛!この動物を家畜にするに人間は辛抱強さを求められて往生した!人間は牛よりはるかにせっかちな世界にいたから

大人も子供も婦女子も外国の人も、みんな巻き込んでしまう大きな波があり、それが田代という山間の空間に千年も続いています
何も特別なものはない、昔も今も変わらぬもの、田植え・除草・水掛・稲刈り・脱穀・籾・玄米と、人間の営みを支えてきた収穫の米


ドロ・ノロは人間が長い年月、稲作を頼りに生きてきた田んぼの土壌、その価値を知るには、幼い頃わが身で思う存分感じる以外に術なし

今、子供達が全身で、早乙女達があぜ道で控えた田植え前の御神田で、営々と続く千年の感触を保つドロ・ノロを確かめています
ふる里の自然と人の営みをしかと教わる御田祭、年齢を経て五〇年後に出逢おうと、変わらぬ喜びの驚異、この地に人が留まる静かなわけ


ドロ・ノロの仲、大人になってもふる里がつなぐ原点、それが田代の仲間の繋がりである、今年も仲を求めてふる里に帰ってきた

友人四人組ともなれば、話は弾みは、山へと向かい、秘境とも言える諸塚温泉の湯に親しみ、山間の静けさを楽しみます
祭りを祝う民は幸いなり、争いこそ人の敵、されど争いは続くもの、それ故に祭りは未来永劫に続ける人の営みです


ふる里のご先祖さまが生きてきたこの地の証、そのシンボルが大木となった杉の木か!道に迷ったらこの杉の木に手を当てよう



御田祭前日

2007年06月30日 16時12分11秒 | 民俗芸能
6月30日(土)

石碑に詠める歌「父の子の百姓よかえらなむ 垂り穂の秋代ここのふる郷」、小野葉桜の美郷町西郷区田代の総合体育館前にある歌碑
小野葉桜は若山牧水と同時代の田代が生んだ歌人で、世に知られたのは昭和四四年に県内新聞で紹介されたのがきっかけです


県内で最後の田植えが始まる御神田、祭り前日心ときめく現場の雰囲気、これで今年も一歳の年齢を重ねて良しと心定めます

朝の自動車道・広域農道・国道経由で自宅から田代まで距離にして一四二キロ、時間で二時間四五分、途中は県内農地視察の感あり
めざすは御田祭(オンダサイ)会場となる田代神社の御神田、明一日が御田祭の本番、本日は前夜祭で花火大会や音楽祭が開催されます


田植えを終えた集落の風景、どれほど安堵の心が広がったであろうかと、往時の人を偲ぶ心が湧いてきます。我が日本は農耕民の邦

現地では多くの人出を見込んで、集落一丸となり祭り準備に大わらわ、音楽祭の会場となる施設には舞台から音響設備が万端滞りなし
田代神社の創建が平安時代長元五年(一〇三二年)とありますから、この地区の稲作起源、移住集団の定着と見るを自説とします


蛇の逃げ足の早さ、立ち止まり、じっと観察、少しの動きにも素早く対応、さすが蛇!豊かな自然とは小さな幼子にすら生きる術を教える場

豊かな自然と安定した農業、地域社会がひっそりとながらも心豊かに暮らす条件の一つか、田んぼにはオタマジャクシや蛇まで泳いでます

初午祭(はつうままつり)

2007年03月11日 19時08分56秒 | 民俗芸能
3月12日(月)


祭りも多彩になり、太鼓演奏の後ろで、ジャンカン馬(鈴かけ馬)がおとなしく観客になっています

タンカタンタンカタン、二拍子のリズムが響き渡り
馬も人も、足もとが太鼓と三味線と鐘の音に乗だし
春の目ざめを告げる鹿児島神宮初午祭


まだ、人も馬も、不慣れ、六人がかりで、ようやく、一人前、さあ、踊るぞう

冬の農閑期を終えて、秋の収穫期まで
人も馬も十ヶ月におよぶ農作業が待っており
春は五体ならしの祭りに始まる


ジャンカン馬の後を踊る女衆も一段と晴れやかになり、祭りを盛り上げています

姶良カルデラ、火山灰土壌のやせた大隅・薩摩・日向の耕地
人並みの収穫を上げるに、朝は朝星・夕べは夕星、休みは元旦だけ
雨の日は馬小屋でムシロ・縄造り、農作業への準備おこたりなし
野生馬との出逢い、農耕馬となり、耕地で人馬一体になったはいつの頃?


さあ、買わんね、まけとくわよ、本物の竹製品よ、ザルは味噌作りや梅干ほしにも使うわよ

雑木しげる台地、水草おおう湿地、荒野は広がり
未開地多い三州の地に、馬は開墾に大きな役目を果たしました
今も続く初午祭に、馬への感謝の念、深かったなごりを見ます


帰り道、参拝者を歓迎するのか、街路樹の下にツクシン坊が五本も顔を出しています