ズッキーニの味噌煮込みBlog版

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子供の「ごめん」と大人の「ごめん」

2007年05月20日 19時58分38秒 | Weblog
 子供の「ごめん」は、そこが終わりだ。区切りというべきか。なにか悪いことをしたとき「ごめんなさい」を言わせれば、取りあえずそれで許してやっていい。

 対して大人の「ごめん」は、そこが始まりだ。終わりじゃない。いいトシしてそこがわかっていない人がずいぶん多い。こういう輩(やから)は世の中でいつまでもガキ扱いされるのだが、そもそもガキなので、自分がガキ扱いされていることに気がつかない。

※ 気がついても問題とは感じないかも知れない。^^;

 ではなにが始まるのか。

 それは「修復」であったり「回復」であったり「再挑戦」であったりだ。これをちゃんとやらないと終わりにならない。「ごめん」は誤りや失敗を認めただけだ。子供はそこで終わっていいが、大人はそれでは困る。そこから始まるのだ。まずは誤りを認めないことには修復も回復もないのだから。

 最近はこういうガキが多くなってきて、「ごめん」で終わりにしてケロッとしているのを「立ち直りが早い」とガキ同士で評価している。笑止千万。こっちから見ると誤りは認めたものの修復も回復も再挑戦もしない半端者なんだが、「ごめん」で終わったと思っているのだからいい気なもんである。どっこい、世間は認めていない。

 終わっていないのだから、いつまでも言われて当然である。ところが本人は都合良く、終わっていると思っている。思っているから、「なんだ、いつまでもグチグチ言いやがって」などと見当違いの腹を立てている。

※ どこかの国の外交問題に、こういうのがあるなぁ。だからこの国はいつまでも大人として扱ってもらえないのだろう。

 こういう手合いを見ていて本当にガキだなぁと思うのは、モノを壊すとけっこう気にするくせに、人間関係を壊したり信頼を失ったことには鈍感であるところだ。目に見えるものはわかるのだが、精神が未発達で想像力が十分に育っていないから、相手の気持ちを自分のものとして感じる能力が身についていないのだ。

 こないだこういう説教を仕掛けたら、「わりと動じない方で」と言いやがった。アホぬかせ。それは「動じない」じゃなくて「感じない」というのだ。太いのではなく鈍いのである。

 もっとも、ゴッツリと怒られるまで「ごめん」すらしないタチの悪いのもいるから、「ごめん」をするだけでもマシな方かも知れない。

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