ズッキーニの味噌煮込みBlog版

コンピュータのこと、食べ物のこと、なんでもないこと、とんでもないこと。

中トロイクラ丼

2009年10月27日 22時14分27秒 | 食い物
というのは半分ウソ。実はマグロはアタシが好きな安い赤身。でも光の当て方で中トロっぽく見える。自然光の加減は、iPhone 3GSのカメラのタップ to フォーカスを使って調整した。

イクラは本物だが、スーパーの安売りの時に生筋子を買ってきて嫁さんが自分でほぐしたもの。醤油やらみりんやらで作った自家製のたれに漬け込んだ。生筋子は安いときはグラム200円くらいで買える。

イクラ北海道でも、ぉっと、いくら北海道でも、本物の中トロイクラ丼をお店で食べたらたぶん二千円前後は取られるんじゃないか。まーなんて、ぜーたくな。(⌒_⌒;)

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今月は花じゃないけど、ぜひ天国に届けたい見事な紅葉。

今月は紅葉

バンドマンだったあのころ

2009年10月26日 04時41分08秒 | Weblog
中学生のころ、我が家にはオルガンがあった。

ピアノではないところがいまいちだが、子煩悩で教育熱心だったサラリーマンの父親が、妹のために無理して購入したものだと思う。残念なことに妹はその方面にはまったく興味も才能もなく、音楽好きだったアタシが作曲のまねごとをするのに時折使われていた。ここがアタシと音楽との関わり合いの始まりだ。

高校ではエレキバンド(もぅ、死語なんてもんじゃない)が大流行で、ビートルズやらモンキーズやらのコピーをずいぶんやった。そういうものが公式には認められていない時代だったので、表向きは「軽音楽同好会」という名称でこっそりとやっていた。部活動として認められていなかったわけだが、部室代わりの美術部の倉庫で毎日、アンプのボリュームをめいっぱい下げて練習していた。

ちなみにアタシが参加できたのは音楽の才能を認められたからではない。電子科だったので、アンプが壊れたときの修理要員として期待されていたわけだ。しかし中学生のころにオルガンに触れていたしアコースティックながらギターもやっていたので、どちらも我流ながらメンバーの少ない同好会ではそれなりに出番もあった。

    *

地元の電力会社に就職し、何度目かの転勤で岩見沢に赴任したときに労働組合の青年婦人部がバンドをやっていて、またオルガンやらギターやらで重宝された。

もっともバンドとしての出来は論外で、組合主催のダンスパーティの際にはレコードの時には踊っている人がいるのに我々が出ていくと飲み食いが盛んになるといった具合だった。見かねた組合の人が「バンドも一生懸命やっているので、ぜひ踊ってやってください」とアナウンスするほどだった。

しかしそれを、誰かに誘われて来ていたのか、地元でキャバレーなどを仕事場にしていたバンドマスターが見ていた。後日彼がメンバーに誘いに来たときは、当時こちらは二十代で彼はたぶん五十代。しかもプロのバンドに入ってベースをやってくれないかという話なので大いに驚いた。

ベースはやったことがないがギターなら多少覚えがある。むこうも「酔っぱらい相手だから、とにかく元気にブン、ブン、ブンとやってくれればそれでいい」と言うし、結婚したばかりの嫁さんがおもしろがって勧めるものだから、会社にはナイショで付き合うことにした。

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連れて行かれたのが、たしか奈井江町の「炎」というキャバレーだ。音合わせもあらばこそ、いきなりラテンナンバー。そのあとすぐに「函館の女」に突入する。楽譜はある程度読めたし知らない曲はなかったので、なんとかついていけた。

ひと晩に三ステージあって、終わると店の奥で経営者がその日の売り上げが入った金庫の中から直接現金でバンマスにギャラを渡す。全部千円札だった。それを今度はその場でバンマスが我々メンバーに支払ってくれる。二十代のころだからいまからざっと30年前。そのころにたしかひと晩で七千円か八千円もらっていた記憶がある。週に一度だけだったと思うが、ずいぶんいい小遣いになったものだ。

メンバーの中では唯一の二十代だし、素人だから楽譜をにらみながらまじめにやっていたのが気に入られたのか、店のお姉さんたちにはずいぶん、その、いい扱いを受けた。一度だけステージの合間にひとりのお姉さんが来て、いや、まぁその。

それからバンマスの車で岩見沢まで戻る。途中の国道沿いに屋台のラーメン屋があって、そこで夜食をごちそうになる。バンマスがラッパでアタシがベース、もうひとりのメンバーがタイコをやっていた。ラッパとタイコの雑談はその筋のものじゃないとよくわからないこともあったが、まったく知らない世界をのぞき込むような経験は、けっこう楽しかった。

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たしか三ヶ月くらいやったと思うが、キャバレーとは契約満了ということでいったん解放された。それが夏頃のことで、秋口にバンマスがまた現れて今度は洞爺湖温泉に行こうと言う。週末だけでいいから一緒に来てくれ、もちろん車で送り迎えするし、ギャラははずむと熱心に誘われた。

結局お断りしたのだが、あそこでついて行ったら、たぶん次は会社を辞めることになっていたと思う。あのとき垣間見たプロの世界は怪しげで十分に魅力的であった。もちろん、自分の実力と性格を考えると、あのままついて行ったらいまごろどういう生活になっていたかは明らかだ。ついて行かなかったことを後悔してはいない。

ただ、決して過去を振り返らないアタシが唯一時々懐かしく思い出すのは、あのときのことだ。あのときもしついて行っていたら、と。

ふくちゃん登場

2009年10月25日 19時34分29秒 | Weblog
実は「もーりょん」というのが本名だそうだ。わからなかったので、「ふくちゃん」と呼んでいた。

政権交代があった9月16日のことだ。アタシは用があって朝早く長万部(「おしゃまんべ」と読む)に出かけた。昼過ぎに用が済んだので嫁さんにメールをしたが、いつもはすぐに来る返事がない。風呂にでも行ったかなと思って帰りの電車に乗ったら、間もなく「だーれだ」というタイトルの写真付きメールが来た。

保護された直後のふくちゃん

この10日ほど前から、子猫の鳴き声が聞こえるというので嫁さんが非常に気にしていた。その声がだんだん小さくなり、このままでは長くはもたない。16日は「どうしても見つけて保護してやる」と腹を決めて近所を探していたそうだ。

ご近所のお宅のコンクリートの床下に潜り込んでいるのを見つけて、助け出そうとしたが奥に入っている上に、手前にコンクリートのかたまりが埋まっていて手が届かない。まずはそのコンクリートのかたまりを掘り起こし、それでも手が届かないのでなんと、掃除機で吸い付けて引きずり出したそうだ。

…なにもそこまでせんでも。(⌒_⌒;)

なんとか保護して少し落ち着いたところをケータイで送ってきたのがこの「保護された直後のふくちゃん」だ。名前は、生まれて間もなく母親から離されてつらい目に遭っていたので、せめてこれからは福に恵まれるようにと思ってふたりで決めた。

これがいままでの中で一、二を争うほどに賢い猫で、トイレはすぐに覚えたし、状況判断が実に的確だ。ベランダに出て戻りたくなったとき、普通の猫は出たところでニャーニャー鳴いているものだ。しかしこのふくちゃんは、自分の姿が見える高いところの窓までよじ登り、そこで体を動かして注意を引く。

こうなるとかわいくて、もうふたりしてメロメロだ。嫁さんなんかひどいことに、「あんたが抱くと加齢臭が移る」などと言う。親ばかではなく、単なるバカな親だ。

なぜか絶対に布団の中には入らないのだが、明け方はさすがに寒いし人恋しくなるらしい。いつもアタシの布団に飛び乗ってこっちを起こす。いつものように夜明け前の薄暗がりの中で遊ばせていたら、ふと目と目が合った。そのときだ、ふくちゃんからテレパシーが飛んできた。

「もーりょん」。たしかにそう言った。「言った」といってもふくちゃんが言葉をしゃべったわけではないので、厳密には言ったとは言えない。だから「聞こえた」とも言えない。感じたというのともちょっと違う。こっちの心を震わせて「伝えた」というのが一番近いかも知れない。

とにかくそう言ったのだ。それが名前だということは、はっきりと伝わってきた。お母さんが産んだときに付けた名前なのかも知れないが、もしかしたら猫の場合は天地開闢の時から名前を与えられていて、生まれ変わるたびにおなじ名前を名乗るのかも知れない。

それからは、普通は「ふくちゃん」と呼び、特別なにかを言い聞かせるようなときは「もーりょん」と呼ぶことにした。

大きくなれよ、もーりょん。幸せになるんだよ。

鈴木さんと一緒に消えたもの

2009年10月14日 07時48分32秒 | Weblog
1.起き抜けの恐る恐る

犬の17歳と言えばかなりの高齢。体も自由に動かなくなり、頭にも少し霞がかかっていたらしい。いつも三階の寝室で一緒に寝ていたのだが、別の和室やアタシの書斎(えっへん)にお漏らしをすることがあった。

起きるとまず、恐る恐るほかの部屋を点検する。先に目が覚めた方の役割で、「今日は大丈夫だぞーっ」「やったぁー」、「やられたーっ」「どこー?」という会話が一日の始まり。

2.慌ただしい朝夕の散歩

ポメラニアンのチャコとは違って室内で用を足さないので、一日二回の散歩は欠かせない。そのほかに寝る前と朝食前にはかならず連れて行くのも嫁さんの担当。ふたりで行くと鍵をかけなければならないので、アタシは留守番。

時計を見て「あ、こんな時間。オシッコさせてくるから」という嫁さんの声で、最後に少し残った眠気が覚める。留守番にも炊きあがったご飯を混ぜたり、猫にエサをやったりの仕事がある。

3.カシャカシャカシャ…

なにを思ってそうしていたのか最後までわからなかったが、鈴木さんは実によく部屋の中を歩いていた。居間はフローリングなので、鈴木さんの爪が気に当たってカシャカシャカシャと音を立てていた。

この音がぴったりとやんだ。寝込んだこの四日間はそれを感じる余裕もなかったが、今朝本当にその音がない。静かだ。

    *

コメントやメールでのお悔やみ、みなさんありがとうございます。鈴木さんはちょっと照れているかも知れません。

さようなら鈴木さん

2009年10月13日 20時04分32秒 | Weblog
鈴木さん、永眠。老衰だ。4日前から急に動けなくなって、今日の夕方に旅立った。

我が家の一員になったのが、2006年の9月23日だ。三年ちょっといた勘定か。ヨタヨタになりながらも一日二度の散歩は欠かさなかったが、本当に急に立ち上がれなくなった。前の日は元気に散歩していたのに。

昨日の夜あたりはもうダメかなぁと思ったが、命の火は消えそうでなかなか消えない。あまり苦しまないでくれたのでよかった。近所の人たちの話を総合すると、17歳だったと思われる。

保健所で始末される運命だったのが鈴木家にもらわれて、引っ越しで捨てられるところをかのさんちにもらわれてきた。波乱の犬生だったが、まあまあの老後を送らせてあげられたんじゃないかと思っている。たいしたことはしてやれなかったが。

鈴木さん、お疲れさま。ゆっくりお休み。あの世で先に行っているテツに会ったら、よろしくな。